四度目の人生⑦
ユーリスとのダンスを終えたアウレリアは、そろそろ帰宅することにした。
「ユーリス様はどうしますか」
「俺ももう帰るよ。今日は君に会って、できれば一緒に踊れたらと思っていたから、やりたかったことは全部達成できた」
ユーリスはそう言い、アウレリアの手を引いて一緒に会場から出てくれた。
「……ユーリス様は、すぐに辺境に戻るのですか」
それは寂しい、と思いながら尋ねると、ユーリスは首を横に振った。
「いや、ちょうど辺境での任務は終わったところだ。本当はもう少し早く会場に来たかったけれど中庭で揉めている男女がいて、その仲裁に入らざるを得なくなったんだ」
「……えっ」
(中庭って、もしかして……)
――二度目の人生で女性に背後から刺されたときのこと思い出し、思わずアウレリアはユーリスの軍服の袖を掴んでしまった。
「そ、そんな……大丈夫だったのですか!?」
「ああ、大丈夫だよ。仲裁といっても、今にも殴り合いに発展しそうだったから声を掛けて、後のことは衛兵に任せたくらいだ」
「……それじゃあ、怪我人は……?」
「いないよ。揉めている最中に当事者の二人は擦り傷くらいこしらえたかもしれないけれど、それくらいだろう」
ユーリスの言葉に、ようやくアウレリアは安心できてほっと息を吐き出した。
(すっかり忘れていたけれど、今日はあの二人が揉める日だったのよね……)
二度目の人生ではアウレリアが刺されてしまったが、今回は負傷者を出すことなく話がまとまったようで、本当によかった。
「よかったです。もし、ユーリス様がお怪我でもしたらと思うと……」
廊下を曲がったところで、アウレリアははたと足を止めた。ユーリスも立ち止まり、「どうかしたか?」と尋ねてくる。
二人の目の前には、会場の玄関に続く大階段があった。今は夜会開催中なので、このあたりには人気がない。
(ここは……)
どくん、と心臓が不安を訴えるように早鐘を打つ。
三度目の人生で、アウレリアはこの階段で足を踏み外して転がり落ち――死んだはずだ。
(いいえ、それだけじゃない)
会場に来てからはいろいろあったので失念していたが……今日は、過去にアウレリアが三回死んだ夜だ。
せっかく、幸せになれそうなのに。
アウレリアは今回の人生でも今晩命を落とし――また、十歳に戻ってしまうのだろうか。
「……い、やだ……」
「アウレリア?」
思わず声に出して自分を抱きしめるように体を丸めたからか、ユーリスが心配そうに声を掛けて肩を抱いてくれた。
大きくてたくましい手のひらの感覚が、頼もしい。
「どうかしたのか?」
「……怖い、の……」
「階段が?」
ユーリスは最初不思議そうな顔をしていたが、なおもアウレリアの顔色が悪いからか表情を引き締め、アウレリアの左手をしっかり握ってくれた。
「それなら、こうやって降りよう。これなら、もし君が体のバランスを崩しても落ちることはない」
「……でも、もしかするとユーリス様が……」
「俺は強いから、大丈夫。……さあ、降りよう」
「……はい」
付添人にも励ますように背中を叩かれ、アウレリアは決心して一歩、階段に足を運んだ。
――三度目の人生では、ここで足首を捻ってそのまま転がり落ちた。
だがアウレリアが慎重すぎるほどゆっくり足を運び、ユーリスもきちんとアウレリアの左手を掴んでくれているおかげで少しずつ階段を降り、通常よりかなり時間が掛かったもののきちんと一階に降りることができた。
両足が着地し、アウレリアは大きく深呼吸した。
(よかった……落ちなかった……)
「大丈夫だったか?」
ユーリスに問われたため、アウレリアは慌てて頷いた。
「は、はい。……すみません、いきなり変なことを言ったのに、支えてくださって……」
「気にしなくていいよ。誰だって、急に不安な気持ちになることはあるものだし」
ユーリスはそう言うと、「馬車はあっちかな」とアウレリアの手を取ったまま歩き出した。
ユーリスは、あまり深く物事に突っ込んでこない。
それは、もっと構ってほしい人からすると「冷たい」態度かもしれないが、過去三回死んだ経験のあるアウレリアからすると、追求はせずそれでも手を差し出してくれるユーリスの思いやりが嬉しかった。
庭に出ると、貴族たちが乗ってきた馬車が待機していた。アウレリアが付添人と一緒に乗ってきたペルレ子爵家の馬車もどこかにあるはずだ。
(……もう、お別れしないといけないわね)
名残惜しいが、ユーリスだって辺境から帰ってきて着替えをして、不倫けんかの仲裁もしてダンスも踊って疲れているだろう。
だが、どうにも離れがたくて――本当に今晩を越えられるのか分からなくて、ついユーリスの手をきゅっと柔く握ってしまった。
ユーリスが振り返り、アウレリアが掴む右手を見下ろした。
「あ……」
「……アウレリア」
「はい。あの、今晩は本当に……」
「今日、うちに泊まっていくか?」
――アウレリアは、心臓が止まったかと思った。
ユーリスの発言に、それまでは黙って付いてきていた付添人が進み出た。
「お言葉ですが、ユーリス様。旦那様と奥様より、夜が更ける前にお嬢様をお屋敷まで送り届けるよう仰せつかっております」
「もちろん分かっている。しかし……今の状況のアウレリアを放っておくことはできない」
「今の、って……?」
「分かっていないのか? ……アウレリア、今の君は顔色が悪いし、辛そうな顔をしている」
ユーリスに指摘されて初めて、アウレリアは自分がそれほどまでひどい顔をしているのだと気づいた。
付添人もアウレリアの顔を覗き込み、はっと息を吞んだようだ。
「お嬢様……?」
「……ごめんなさい、私……すごく、不安で」
「……どういうことが不安なんだ?」
優しく、寄り添うようにユーリスが尋ねてくれる。
アウレリアは言葉を探すために数秒黙った後、口を開いた。
「……今、ユーリス様と離れたら二度と会えないような……もう、朝を迎えられないような、気持ちになって」
「……夜が怖いのか?」
「いつもは、そうではありません。でも、今夜は不安で……」
「……そうか」
ユーリスはしばし沈黙してから、付添人を見た。
「すまないがやはり、俺は今のアウレリアを放っておくことができない。……自邸に連れて帰りたい」
「しかし……!」
「心配ならば、すぐに子爵家の使用人でも兵士でも押しかけてきてくれて構わない。俺は納屋で一晩過ごしてもいい。……それでもいいから、頼む」
「ユーリス様……」
思わず、ユーリスの横顔を見上げる。
これまでは笑顔を見せることの多かったユーリスが、真剣な眼差しで付添人の女性を見ている。
夜風が彼の長い髪をなびかせ、星明かりが彼の輪郭を神々しく見せている。
付添人はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……ユーリス様がそこまでおっしゃるのでしたら、旦那様方の説得はわたくしがいたしましょう。旦那様とて、愛娘であるアウレリア様のお気持ちを最優先なさるはずです」
「悪いな」
「ごめんなさい、我がままを……」
「いいえ、お嬢様のお心が落ち着く方法をとるのが一番ですからね」
だがそこで付添人は、じっとユーリスを見上げた。
「……ですが、お二人は婚約者同士とはいえ未婚です。どうか節度のある態度を心がけてください」
「もちろんだ」
ユーリスが言うと、付添人はお辞儀をして去っていった。
(……私)
空いている方の拳を固め、アウレリアはユーリスに向き直ると勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありません! 本当に、勝手なことを……」
「それは違う。……あえて言うなら、勝手なことをしたのは俺の方だ。君が頭を下げるべきではない」
「それは……そうかもしれませんが、ユーリス様にとって迷惑でしょうし」
「……もちろん付添人の忠告に背くつもりはないが、俺ももう少し君と一緒に過ごしたいと思っていた。だから迷惑ではなくて、むしろ役得だとさえ思っている」
顔を上げると、ユーリスはほのかに微笑んでアウレリアの手を引いた。
「それに、一度君を自邸に招きたいと思っていたんだ。……昇格してから賜った屋敷だから、住んでいるのは俺だけだ。もちろん女性使用人もいるから、後のことは彼女らに任せればいい」
「……ありがとうございます、ユーリス様」
「いいんだよ。……婚約者の笑顔を見られることが、俺にとっての何よりの幸せだからね」
そう言って微笑むユーリスは少々気障だが、彼が自分のためにここまで心を砕いてくれているのだと思うと嬉しくて、アウレリアもはにかみつつ頷いたのだった。