もう貴方を愛さない
ハロルドは、クラリッサのことを狂おしい程に愛していた。
この帝国の第一皇子として生まれたハロルドは、優秀かつ穏やかな人柄で人望も厚い。
常に国のこと、家臣のこと、民のことを第一に考え、彼自身の個人的な望みなど一つも口にしたことがなかった。
いや、ハロルドが唯一願ったことがある。
それは、帝国が治める小国の公爵令嬢であるクラリッサとの婚約だ。
本来なら、帝国内の高位貴族か、もっと大国の姫が相応しい。
けれど、ハロルドはクラリッサを一目見た瞬間、湧き上がる激しい恋情を抑えることが出来なかった。
いつも理性的で思慮深いはずのハロルドは、その場でクラリッサに跪き、婚約を願った。
各国の貴族が集まる式典後の舞踏会でそんなことをしたものだから、皇帝はその婚約を整えざるを得なかった。
政略としては不足があるが、絶対に認められないと言うほどのものでもない。
何よりも、大事な息子の唯一の望みだ。
皇帝は苦笑いを浮かべ、皇子の望みを叶えた。
ハロルドは天にも昇る気分だった。
帝国へとやってきたクラリッサには、すぐさま皇子妃教育が始められた。
クラリッサの国の王家には王女しか居なかったため、王家に嫁ぐ教育など一切されていなかったにも関わらず、クラリッサは驚くほどの速さで習得していった。
結局、本来何年もかけて行われるはずの妃教育は、たったの半年で終わってしまった。
ハロルドはクラリッサを溺愛し、日に一度は必ずクラリッサとのティータイムを設け、愛を囁いた。
幾度と無く贈り物をし、それを置くためだけの部屋が用意された程だった。
しかし当のクラリッサは、ハロルドが何をしても笑顔を見せることはなく、いつも暗い表情だった。
クラリッサに想い人が居たという話は聞かない。
家族と離れて暮らすことが辛いのかというと、クラリッサの公爵家は温かいと言うには程遠い家庭であったという。
ならば何故そんなにも悲しげなのか。
何が嫌なのか。
ハロルドは何度もクラリッサに尋ねたが、クラリッサはいつも目を伏せ首を振るだけだった。
ハロルドとクラリッサの仲は深まることなく、二人は結婚した。
そして迎えた、初夜。
ハロルドは相変わらずクラリッサを愛していた。
この日を今か今かと指折り数えた。
寝室のベッドの上で初夜用の夜着に身を包んだクラリッサは、目眩を覚えるほどに美しかった。
ハロルドはゆっくりとクラリッサを組み敷こうとする。
けれど、気付いてしまった。
クラリッサが小刻みに震えながら、涙を流しているのを。
「……そんなにも、私のことが嫌なのか」
ここまで来れば、嫌でも分かる。
クラリッサは、ハロルドのことを嫌忌しているのだ。
クラリッサが嫌がることなど、全くしていないという自負がある。
強いて言うならば、強引に婚約を結んでしまったことだろうか。
「君は、私と結婚したくなかったのだな」
「申し訳ありません……」
クラリッサはただ一言、そう言った。
肯定はしないが、否定もしない。
それが答えだった。
結局二人は結ばれることなく、同じベッドに離れて眠った。
ハロルドは願った。
いつか、クラリッサが愛してくれる日が来ることを。
その晩。
ハロルドは夢を見た。
夢の中のハロルドは、またしても王子だった。
国も、時代も、姿も異なる。
けれど、ハロルドは何故か既視感を覚えた。
彼には婚約者が居た。
彼は彼女を愛していた。
彼女も彼を愛していた。
やがて二人は結婚し、王と王妃になった。
ある時を境に、二人の仲に影が落ちる。
それは王妃の新しい侍女として、伯爵家の娘がやってきた時だ。
美しすぎるが故に近寄り難い王妃とは対照的に、とても可愛らしく愛嬌のある娘だった。
王は徐々に彼女の眩い笑顔の虜となっていった。
娘との距離が近付くにつれ、王妃との距離は開いていった。
そして王妃と褥を共にしなくなり、幾分か過ぎた頃。
娘が王妃から酷い虐めに遭っていると噂になった。
王は娘にその事を問い詰めると、泣きながら王妃から受けた仕打ちを告白した。
王は激しく憤り、王妃を問い詰めると、彼女は否定した。
神に誓ってそんな事はしていないと。
しかしそれから程なくして、娘が毒に倒れた。
王妃から渡された茶葉に、毒が仕込まれていた。
すぐに処置が為されたために、運よく娘の命は助かった。
王は激怒した。
王妃を玉座の前に引き摺り出すと、すぐに処刑を言い渡した。
王妃は泣いて縋った。
決して自分はやっていない。
自分は無実だと。
けれど、王は聞く耳を持たなかった。
王から寵愛を受ける娘を醜い嫉妬から虐げ、命を奪おうとした。
国母として、到底許される罪ではないと。
王妃はそのまま幽閉され、そして断頭台に上げられた。
最期の時。
王妃は憔悴した表情で、頬を涙で濡らしたまま、言った。
「貴方を、愛さなければ良かった。
もし生まれ変わったとしても、決して貴方を愛さないでしょう」
そして、王妃の首の上に刃が落とされた。
王妃の首が地面に着く瞬間。
ハロルドは、夢から覚めた。
酷い夢だった。
ハロルドは汗で張り付く夜着の胸元を掴み、荒れた息を整える。
そして絶望した瞳で、隣のクラリッサを見つめた。
最期の王妃の顔が、クラリッサと重なって見えたから。
何故、クラリッサは習ってもいない妃教育を、あんなにも短時間で終わらせることが出来たのだろう。
何故、クラリッサはいつも笑顔を見せないのだろう。
何故、クラリッサは自分を愛してくれないのだろう。
本当に王妃は罪を犯したのだろうか。
その後、王はどうなったのだろうか。
分からない。何も分からない。
ハロルドは震える手をクラリッサに伸ばす。
気配に気付いたクラリッサが目を覚ました。
視線の定まらなかったクラリッサの瞳が、ハロルドを捉える。
瞬間、瞳に宿ったのは、
拒絶の色だった。
ありがとうございました。