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港西高校山岳部物語  作者: 小里 雪
第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。
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3. 名前のこと。山岳部に入りたい、その理由のこと。

「あ、先生。」と、(りょう)先輩が顔を上げ、入り口に現れた白髪交じりの男性を迎える。


「おー、みんな揃ってるね。きみが上市(かみいち)くんか。よく入部しようと思ってくれたねえ。」


「こちらは顧問の久住(くじゅう)先生です。先生は大学時代から山岳部で山に登っていらして、アルパインや沢登りや氷壁までこなせる人なの。」


と、稜先輩が紹介してくれる。


「いや、最近はもう、君たち以外とあんまり山に行かなくなっちゃったからね。あんまり危ないことはもうしないよ。」


「って、冬やりたいから高体連に加盟しない人が何を言ってるんですか。」


「最近はマラソンとトレイルラン。もう少しでサブフォーなんだけどな。」


 なんだか微妙に剣呑な雰囲気を感じる。よく分からない用語もあるけど、ここ、結構危ないことをするのか?あんまりってことはちょっとは危ないのか?


「まあまあみなさん、座りませんか。食料係のワタクシがお茶などいれて差し上げますよ!」


 まっきーは壁際の棚から緑色のボンベと金属製の道具を取り出し、その道具をくるくると回してボンベに差し込んだ。畳まれた部分を引き出すとそれが五徳になり、ボンベを台にしたコンロになるのだ。これはキャンプとかで見たことあるぞ。


 部室棟の廊下の北側突き当りにはドアがあり、その外には水道がある。誰に頼まれたわけでもなく、稜先輩がポリタンクに水を汲んできていた。傷だらけで変色したポリタンクの下部には消えかけたマジックで何か書かれていた。何とか読み取れたのは、こうだ。


『31キ ア〇〇』(〇は判読できず)


 確かぼくたちが六十六期生だって昨日担任が言っていた。もしかしてこのポリタンクは三十五年選手か。


 稜先輩は別の棚から、見るも無残な形にゆがんだアルミ製の器を四つ取り出して机に置いた。まっきーは『④』と横腹に大きく書かれた、こちらは比較的新しい一・五Lほどのアルミ鍋に稜先輩が汲んできた水を入れ、その辺に転がっていたライターで手際よく火をつけるとお湯を沸かし始めた。その鍋は行平鍋の持ち手を短く改造したもののようだった。


 と、そのとき、ベコベコになったアルミ食器の底を見ながら久住先生が感嘆の声を上げる。


「ほー、これは懐かしいな!。これ、三十五期のナエバのだ。俺が新卒でここに来て、副顧問になったときのリーダーだよ!」


 今度は三十一年前。ここは時空が歪んでいるのか。


 そうこうしているうちにお湯が沸き、どこから出てきたのかよく分からない緑茶のティーバッグが行平鍋に投入され、まっきーが全くもって不揃いなアルミの器にお茶を分配する。ぼくはその一つを口に運んで……


「みーち!ダメ!それ熱い!!」


というまっきーの叫びは間に合わず、ぼくは唇を火傷してしまった。


「アルミはさ、フチが熱くなるからすぐにはだめなんだよ。」


「っていうか、早く言ってよ。それから、みーちって何だよ。」


「や、『上市くん』って呼ぼうとしたんだけどさ。なんか縮まっちゃった。でもちょっとかわいくて気に入った。『つるちゃん』は嫌そうだったから、みーちにするよ、今度から。」


「えー、つるちゃんよりはちょっとましだけどさあ。でも、なんでまっきー勝手にぼくに名前つけるんだよ……」


「さっきから人のことをしれっと『まっきー』呼ばわりしてる人に言われたくないですー。」


 気づかれていたのか。やっぱりまっきーは周りがよく見えているんだな。その横で稜先輩と久住先生が愉快そうに笑っている。ぼくは照れ笑いを浮かべてもじもじした。


「それはそうと、上市やご家族の方は、山登りの経験はあるの?」


と、久住先生が尋ねる。


「いえ、父と母は全然ありません。ただ、去年亡くなった父方の祖父は、かなり登っていたようなんですが。」


「じゃあ、なんでまた山岳部に入りたかったの?聞く話だと、ほかの部には目もくれずみたいな感じだったって。」


と、まっきーが昨日のことを思い出しながら口をはさむ。


「晩年の祖父は、体を悪くしてほとんど山に登れなかったんですが、若い頃は山岳会でガンガン登っていて、特に剱岳(つるぎだけ)が大好きだったそうなんです。それで、初孫のぼくに、もう生まれる前からこの名前をつけていたんだそうです。」


「分かるな。山屋にとって、剱は特別な山だから。」


 きっと、先生にとっても特別な山なのだろう。そんな口ぶりだ。


「祖父は一昨年まで横浜で祖母と二人暮らしをしていたんですが、体を悪くしたので、ぼくたちの家族が二世帯同居で戻ってきたんです。ぼくと過ごす時間が長くなって、祖父はしきりに剱岳の話をしてくれるようになりました。」


「そうか。それで剱に行こうと思うようになったんだね。うちは毎年剱に行っているしね。」


「はい。かいつまんで言えば、そういうことです。詳しい話は、まあそのうちに。」


「そういえば、両神の名前も山にちなんだものだと言っていたな。」


 稜先輩は少し目を伏せて、お茶を一口飲んでから答える。


「はい。父がつけてくれました。稜線から見た景色や、稜線の凛とした空気が好きで、どうしても『稜』の字を入れたかったんだそうです。父は山が好きで、私も小学生の頃からいろいろ連れて行ってもらっていました。多分、今も登っていると思います。」


 「あー!」と、まっきーが急に叫ぶ。


「わたし清水(しみず)さん好きになったらどうしよう!清水清水(しみずきよみ)になっちゃうよ。うちの親そういう想像しなかったのかな!へーん、まあいいや、今は男の姓に必ず揃えるって時代じゃないもんね。待ってろしみず!」


 何分前の話を拾ってるんだきみは。


 先輩はさっきよりも大きな声で笑った。前の話は知らないはずの先生も笑っていた。今度はぼくも、思い切り声を出して笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だろう。


 最初は不安だったけれど、このとき、この学校の山岳部に入って本当によかったと心から思った。いいことばかりじゃないということは、この後すぐにわかるのだけれど、この人たちと一緒にいる時間がかけがえないものになるという確信が、この時のぼくの中に、すでに芽生えていた。

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