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港西高校山岳部物語  作者: 小里 雪
第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。
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2. こんなに美しい人を、ぼくは見たことがなかった。

 港西(こうせい)学園の敷地は南北に長く、西側は川に面していて、その川は同時に横浜市の西の境界にもなっている。つまり、この学校は名前の通り横浜の西の隅っこにあるのだ。部室棟はその西側の塀に沿って建てられた古い建物で、建物と敷地の外周との間には桜の木が植えられていた。


 ぼくは渡り廊下を通って南から部室棟に入る。そして、中の廊下を突き当りまで行き、巻機清水(まきはたきよみ)に言われた通り、左に並んだ部室の一番奥の部屋に入った。


 そこにその人がいた。




 山岳部の部室は日当たりの悪い薄暗い部屋だった。雑多な道具類が押し込められた棚が部屋の大半を占めていて、部室というより倉庫と言った方が適当だった。入り口を入っても棚のせいで奥までは見ることができず、右方に向かって進むと奥の窓際にかけてスペースがあり、古い長机とパイプ椅子が置かれている。


 椅子の一つに腰を下ろし、その人は電気もつけずに窓の外を、最後に残った桜が冷たい強風に舞い散っているのを眺めていた。机に肘をつき、窓の外を見つめる横顔は、ぼくの場所からは半ばシルエットになって見えている。なぜか悲しげに見えるその横顔の後ろの窓の外では、桜の花びらが乱舞し、その淡い紅色と、足元の電気ストーブのほのかなオレンジ色だけが、そこにある色彩のすべてのように見えた。


 ぼくはその場から動けなくなった。愁いと、張り詰めた強さを同時にたたえる横顔から、視線をそらすことができなくなった。瞬きをすることすら、ためらわれた。


 その人は物音に気付いてこちらを見る。窓を背景にしているため、顔はまだよく分からない。背中に届く長さの髪の向こうに窓の外の桜が流れる。


 椅子から立ち上がる。息をのむような長身。すんなりと伸びた手足。一七〇㎝はありそうだ。ぼくの方に歩み寄り、「きみが上市(かみいち)くん?」と声を掛ける。低く、穏やかで、少しだけ悲しみを帯びた声。ぼくが返事をする前に彼女はぼくの隣を通り過ぎ、入り口脇の電灯のスイッチを入れて振り向く。


 蛍光灯がかすかに唸り、彼女の姿がはっきりと分かるようになる。少し色の薄い髪が軽やかに揺れ、その音までが聞こえて来そうだった。まっすぐにぼくを見る切れ長の目と、濃く整った眉。少し上を向いた鼻。一瞬で先ほどまでの悲しげな印象は消え、代わりに大胆さと、意志の強さが表情の前面に現れる。口元には軽く笑みが浮かび、歓迎の意志と同時に、いたずらっぽい意地の悪さが伝わってくるようだ。


 出会った瞬間の、愁いを含んだ面差しと、身に纏う穏やかで静かな空気。今、ぼくの前の、強く、しっかりと足を踏みしめた立ち姿。そのどちらも、例えようもないほどきれいだった。スキニーのジーンズに、フリースと、フードがついた濃青色のウィンドブレーカーといういい加減な服装でさえ、さらに彼女の魅力を引き立てているようだった。


 ぼくはただ彼女の顔を見つめていて、「はい、そうです」の六文字すら言えなくなってしまっていた。こんなに美しい人を、ぼくは見たことがなかったから。




 どたどたという足音とともに、「あー、つるちゃんもう来てたー!」と、もうおなじみになった大きな甲高い声が聞こえ、巻機が部室に入って来た。動けなくなっていたぼくにとって、最高の援軍だった。会ってまだ二日なのに、ぼくはもうまっきーに何回も助けられていることに気付き、ありがとう、と心の中で感謝する。なぜかすでに、心の中では「まっきー」と呼んでいた。


「つるちゃんはやめてくれよ。なんだかちょっと恥ずかしいよ。」


「えー、いいじゃん……」


 まっきーを遮り、長身の女性の方に向き直ってぼくは答える。


「あー、すみません。上市剱(かみいちつるぎ)です。山岳部に入部を希望しています。よろしくお願いします。」


 やっと名乗ることができた。まっきーのおかげで、そんなに不自然な間にならなかったかも。


「山岳部リーダーの両神稜(りょうかみりょう)です。変な名前でしょ。離婚して母の旧姓に戻るなんて、名づけられたときには想像もしてなかったみたい。漢字は、両方の両、神様の神、それから稜線の稜。」


 いきなりちょっと重い話を、さらりと笑みを浮かべながら話す。


「そうそう、いつもりょう先輩りょう先輩って呼んでるけど、どっちのりょうなのかいまだに分からないまんま呼んでるよー。」


 ぼくは人の名前を呼ぶときには頭の中に漢字が浮かぶタイプだが、どうやらまっきーは違うらしい。


 それより、だんだん分かってきたことがある。まっきーは本当はとても繊細で、人の気持ちにいち早く気付き、それを和らげるために言葉を発し、行動することができるのだ。昨日も今朝も、彼女はぼくのおどおどした様子にたぶん気付いていて、だからこそ、ぼくを安心させるためにあんなふうに振舞ったのだろう。


「別にどっちでもいいよ。でも、先輩って呼ばれるのはなんか嫌なんだよね。やめない?」


「だって先輩は先輩じゃないですかー。」


「まあ別にいいんだけどさあ……」


 ぼくも、勇気を出して先輩に話しかけてみた。


「上級生はりょう先輩だけなんですか?」


 初めて名前を呼んだ。ぼくの頭に浮かんだのはもちろん『稜』だった。伸びやかで、強靭で、緊張感をはらみ、豊かな自然を象徴するような漢字。彼女のためだけにつけられた名前。会ってこんなにすぐに、実は下の名前で呼んでいるということに気付き、少し恥ずかしくなる。


「うん、そう。六年生は二人いたんだけど、もう引退だから。あ、そうだ。私は装備係も兼任してたんだけど、これで三人そろったね。上市くん、きみ装備係ね。」


と、よく分からないうちにぼくは四年生で(なんだか新入生じゃないみたいな学年だけれど)、まだ正式に入部すらしていないのに、装備係に任命されることになったのだった。


「そうか、まっきーが昨日言っていた食料係っていうのも、そういう役職なんだね。」


「うん!そう!リーダーと食料係と装備係で三役なんだよ!」


 こちらも初めて口に出して名前を呼んだ。ひらがなの、優しい曲線の『まっきー』が、頭の中に浮かんだ。

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