第八話 強化
「了解しました、隊長。脱ぐのは、スラックスだけで良いのですか?」
アイリスはいつもの無表情でそう言うと、ヒューゴの眼前で、何のためらいもなくそれを脱ぎ捨てた。
下半身だけ下着姿になった彼女は、さあ次は、とでも言うようにヒューゴの指示を待つ。
まだ暗い塹壕の中でランタンに照らされた彼女の無駄のない肉体は、扇情を通り越して、畏敬の念を彼に感じさせた。
「すまない、アイリス。任務上、どうしても必要なことなんだ」
さすがにヒューゴは直視できず、塹壕の天幕を見上げながら答えた。
「命令で部下を下着姿にする分隊長、か。セクハラ隊長の名に偽りなしね」
「……ルーシー、お前なあ」
アイリスと一緒にやってきたウィル少年は、気の毒なほど真っ赤になっている。
目なども、ほとんど開けていられないようだ。
そんなウィル少年に、ルーシーが目を輝かせながら近づく。
「さあて、ウィル君にも脱いでもらおっかなあ。あら、そんなに照れないで。お姉さんだってこう見えて、恥ずかしいんだから」
何故お前が、恥ずかしがる必要がある……
ヒューゴは軽いめまいを覚えた。
「……簡潔に説明する。お前たち二人には、敵の魔導士に対する奇襲を頼みたい」
突撃兵である二人には、それは予想できる任務であった。
その困難さを除いて。
「ヒューゴさん。もとより奇襲なら僕たちが適任ですが、それにしても。『街』までの街道は、大した遮蔽物がない平地や谷間だと聞いています。敵から隠れずに、奇襲なんてことが」
眼を閉じたままのウィルの言葉に、アイリスも口を添えた。
「接近戦を挑むほど、敵の魔導士も愚かではないでしょう。軽歩兵、弓兵、護衛と、堅実な陣を敷く可能性が極めて高いと思われます。それに乱戦となれば、デビッドの弓で魔導士を狙うことも困難かと」
ヒューゴは、バックパックから地図を取り出して広げた。
「おそらく奴らは、森に入る前の谷間で仕掛けてくる。前後からの挟み撃ちには、もってこいだからな。そしてこの谷の左右のふもとには、いくつかの岩場があるはずだ。そこにそれぞれ、隠れて待機してもらう」
「そこからは?」
ウィルは、目を閉じたままで先を促した。
彼は頭の中で、事前に叩き込んだ戦場の地形を思い描いているに違いない。
「奴らの予想を上回る速度で、接近する。見通しが良いだけに、計算が狂った時の相手の狼狽も大きいはずだ」
「隊長、どうやって奴らの予想を上回る? 加速の能力を付加するような魔装具があるとは、寡聞にして知らないが?」
アイリスは、やや面白そうにたずねた。
問われたヒューゴは、かたわらのルーシーに目配せをした。
うなずくルーシー。
「それじゃあルーシー、始めようか。まずは、アイリスから」
「はいな。それではアイリスさん、失礼しまーす」
そう言うと、ヒューゴとルーシーはアイリスのむき出しの脚元にかがんで、丹念に調べ始めた。
「さっき教えた通りだ、ルーシー。強化は、骨、関節包、靭帯、筋の順に。女性と男性では、関節の柔軟性に性差があるから気を付けて」
「了解、隊長さん。じゃあ、まず右脚から。アイリスさん、しばらく動かないでください」
ルーシーは、自分の手をアイリスの右の太ももに当てた。
目を閉じて集中しながら、乗せた手をゆっくりと滑らせる。
アイリスの水色の瞳が、好奇にきらめいた。
「ほう、これは……。このような形で、シンクロ二シティが成立しているとは。まったく、興味深い」
ルーシーは大腿部に一通りの処置を終えると、ゆっくりとすねから足先まで手を動かしていく。
彼女の手が通過した部分が薄く光るように、ヒューゴには見えた。
しばらくしてその作業をアイリスの両脚に終えると、ルーシーが目を開いた。
「どうですか、アイリスさん?」
アイリスは、その場で軽くジャンプして見せた。
「うむ。ほぼすべての筋において、四倍弱に筋力が増大している。骨や靭帯には、速度の二乗に比例した負荷がかかるはずだが、おおむね計算通りの強度も得られているようだ。ただし血管が強化されていないのは、予定通りなのだろう?」
「脚への血流を急激に増大させると、心臓にかかる負担が大きくなるので、血管は今回そのままです。筋繊維が増大し必要となる酸素量も増えた分、行動可能時間は大幅に短くなっています。酸素がどれだけ持つかは個人差が大きく、私にもわかりません。注意してください」
「そのほかに何か、気をつけておかなければならないことは、あるかな?」
アイリスは、二、三度と宙に蹴りを放ちながらたずねた。
軽く放たれているはずのその蹴りを、ヒューゴは全く見切ることができない。
「末梢神経はそれなりに強化していますが、末梢神経は中枢神経、すなわち脳と連続しているので、末梢神経のみを強化しても、脳が対応できていません。反応速度は向上していますが、三時間ほど経過すると急激に神経の委縮が起き、それに伴ってすぐに元の身体組織に戻ってしまいます」
ヒューゴは、もはや驚きを通り越してあきれていた。
ルーシーもさることながら、アイリスの当然の様な理解の速さは何なのか。
そんなヒューゴの当惑をよそに、アイリスはふむとうなずいた。
「まとめると、パワーアップした分、息が上がりやすい。また、あなたが強化魔法をかけてから三時間ほどで、元の身体に戻る、ってことね」
「そうです、限界もそれなりにあります。ごめんなさい」
アイリスは微笑しながら首を振った。
「いや。その限界はあなたの限界ではなくて、生物それ自体の限界さ。代償のない強化なんて、ありはしない。ルーシー、ありがたく使わせてもらうよ」
一連のやりとりを、ウィル少年もまた、驚きをもって聴いていた。
「ヒューゴさん、一体?」
「ああ。ルーシーの治癒魔法は、失った組織を再生するだけでなく、既存の組織を肥大、あるいは強化させることができる。もちろん、本来の使い方じゃあないが」
ウィルは、彼にはほとんど理解できない単語の羅列に混乱していたが、すぐに表情を引き締めた。
「ヒューゴさんたちが話している内容は、僕にはほとんどわかりませんけれど。ルーシーさんが僕を、速く、そして強くしてくれる、ということはわかりました」
そして目を開けると、ウィルはルーシーの方へと向き直った。
「ルーシーさん、僕にもお願いします。出撃まで時間がありません」
そしてハイキックを放っていたアイリスの股間が視界に入ると、彼は再び顔を真っ赤にして、慌てて目を閉じた。
ゴブリンアーチャーの群れを一掃したアイリスとウィルは、速度を緩めることなく合流した。
残りはあの女魔導士と、その両脇にひかえる二色の巨人のみ。
「ウィル君は、左の赤い奴を。私は、右の青い奴を殺る」
汗一つかかず、やはり無表情に告げるアイリス。
「了解しました」
ウィルは左前方にやや進路を変えると、二本のロングソード型魔装具「達人」と「抜群」を中段に構える。
赤い巨人は一声吠えると、モールと呼ばれる巨大なハンマーを、その巨大な外観からは想像できないほど機敏に振るってみせた。
「! 速い!」
接近しようとしたウィルは、かろうじてその攻撃範囲外に逃れる。
危なかった。
脚を強化していなかったら、頭を持っていかれていた。
その戦いを、深紅の女魔導士は遠くから興味深く見つめていた。
「あいつが手を入れた強化型タイタン『赤鬼』の攻撃を、避けるか。やっぱりあの速さ、尋常じゃないわね。でも逃げてばかりじゃ倒せないわよ、分隊のルーキー君」
それは、ウィルにもわかっていた。
反転しタイタンのふところに飛び込むと、左手の長剣「抜群」を巨人にたたきつける。
鈍い金属音とともに、剣がはじかれ、流された。
「やはり、金属鎧には厳しいか……」
ウィルたち突撃兵は、その機動力をもって奇襲・かく乱を行う兵種である。
金属鎧に有効なウォーハンマーなどの打撃武器を携行することは、その持ち前のスピードを減殺することになるため、突撃兵はショートソードなどの比較的軽量な武器を用いることが多い。
重い長剣を、しかも二刀流で使うウィルは、それだけで異質の突撃兵といえた。
しかしその長剣をもってしても、巨人の赤いプレートアーマーを貫通することはできない。
「やっぱり、あそこを狙うしかない」
右の「青鬼」と対峙したアイリスは、更に徒手空拳である。
射程にも防御力にも劣る彼女は、しかし計算をすでに終えていた。
巨人がモールを振りかぶると同時に、体を六十センチ、沈める。
ごおおっ。
アイリスの頭上ぎりぎりを巨大なモールの頭が通り過ぎ、彼女の美しい銀髪が数本、巻き込まれて風に散った。
すぐに立ち上がり、前方に三メートル、ダッシュ。
眼前に青い甲冑が迫る。
巨人は左手の鉄製のガントレットを握りしめ、正拳突きを放とうと腰だめに構えた。
瞬間。上方に、跳躍。
彼女の強化された脚は地面を打ち、巨大な青い拳骨は、直前までアイリスがいた空間を削り取る形で空を切った。
放物線を描いた彼女の身体はついに、タイタンを見下ろせる頭上にまで到達する。
七メートルの、跳躍。
「魔装具『Bウィング』、励起。アンチウィングを、使う」
彼女の右のブーツ型魔装具が金色の光を帯び、そのかかとから、帯電した光剣が後方に飛び出す。
アイリスは巨人の頭上で一回転すると、その後頭部をめがけて、右のかかとを振り下ろした。
金属製の兜と鎧の隙間、わずかに露出した後頚部に、光剣が叩き込まれる。
そのまま数度回転し、両足をそろえて着地するアイリス。
その後方で青い巨人は地響きをあげながらあお向けに倒れ、そのまま動かない。
残り時間は十五秒。
余裕だ。
一方のウィルも、「赤鬼」のモールを右手の長剣で受け流し、やはり同じ跳躍を果たしていた。
ウィルの方がアイリスより体格が大きい分、その跳躍もより高い。
頭上のウィルの視線と、鉄兜のスリット越しのタイタンの視線が、一瞬交錯した。
「魔装具『抜群』、励起」
左手に構えた「抜群」の刀身が、金色の光を帯びる。
ウィルは刀身を立てると、スリットの隙間から巨人の顔面を深く貫いた。
「ジャッジメント・フラッシャー!」
「抜群」は緑色に輝くと、零距離から爆裂した光弾を放射状に放つ。
赤い巨人は、ウィルが着地した後も、頭部を失ったまま仁王立ちに立ち尽くしていた。
「飛んだ……」
同時に着地したアイリスとウィルを、女魔導士は呆然と見つめた。
二人はそのままためらうこともなく、こちらへと疾走して来る。
「……お見事。あの速度で迫られたら、もう魔法をつむぐ時間はなさそう。しかも、二人か」
魔法の行使には、発動の鍵となる言葉の詠唱と、力場を形成する動作が必要である。
その時間を稼ぐため、魔導士は単独で行動することはまれであり、彼女のように護衛を用意しておくことが多い。
「どうやら私は、ここまでみたい。だけど」
女魔導士は他人ごとのようにつぶやいた。
「一人で死ぬのも、少し寂しいわね。私、独身だし。一緒に逝ってくれる人が欲しいかなあ」
彼女はぐんぐんと大きくなる二つの影を、交互に見比べる。
「どちらかといえば、やっぱり、あの可愛い少年くんよね」
そして深紅のローブをひるがえすと、右手に持っている長い棒状のそれを前方に向けた。
アイリスとウィルの後を追ってきたヒューゴは、遠目にも目立つ女魔導士が、彼女に接近するウィルに向けて何かを差し出しているのを見た。
あれは、まさか。
「ウィル! 奴の射線から離れろ!」
まさに魔導士に手が届きそうになっていたウィルが、轟音と共に後方にのけぞった。
鉄製のサレットが宙を飛び、ウィルの額から、ぱっと血煙が舞う。
疾走していた彼の身体は、進路から外れながら二度三度と横転し、女魔導士の横を通り過ぎたところでようやく止まった。
ヒューゴの後から走ってきたルーシーには、その光景がスローモーションのように感じられた。
「嘘でしょ⁉ ウィル君!」
ウィル少年は、動かなかった。
重攻兵のギルバートだ。みんな、元気でやってるか?
それにしても、先生の魔法ってすげえよなあ。
傷を治してくれるだけじゃなくて、強化までできるってんだから。
まあ俺が強化してもらうとしたら、やっぱりこの繊細なハートかな。
今笑ったやつ、俺のハンマーの前に整列だ。
それじゃあまた、第九話「異世界」で会おうぜ。
あ? ようやく異世界か、って?
ていうか、異世界って何だ?