第六話 夜明け前
東の空が、わずかに白み始めている。
潮の匂いが少しずつ薄くなり、海岸から離れてきていることを意識させた。
地面も砂浜から徐々に土と岩を多く含むようになり、一行の左右は、低木の群生した小高い丘へと変わってきている。
「隊長さん。本当に、三時間以内に敵と戦闘になるの?」
ルーシーが歩きながら、小声でヒューゴにたずねる。
「恐らく、すでに見張られている。だからルーシー、君が話すのもこうして許可している」
ルーシーははっと口を押さえたが、やがてあきらめたように、ちらちらと周囲を見た。
まだ暗い周囲には朝もやがかかっており、自分たちの足音と虫の音以外、何も感じとることができない。
「じゃあ、なんで襲ってこないの?」
「暗くて見通しがきかないからだろう。多くの投射魔法は、射線が通っていることが必要だ」
「じゃあ、明るくなると同時に」
「そういうこと」
そこへ、彼らの後ろを警戒しながら歩いていた優男のエリックが、笑いを含んだ声でヒューゴに話しかけた。
「じゃあ、もう静かにする必要もないってことで。分隊長、俺からも質問いいですか?」
「なんだ、エリック」
「昨日までは先生、と呼んでいたのに、今日は名前。会話も、敬語から砕けた調子に。一晩の間に二人の関係性が変化したのは、これいかに?」
ヒューゴは、軽い頭痛を感じた。
嫌な予感がして横を見ると、果たしてルーシーは真っ赤になっている。
どうしてそこで、照れる必要がある……
「べ、別に、無理やりとかじゃないんだから! わ、私の方から、名前で呼んでって……」
事実ではあるのだが、その一言は、逆にヒューゴを窮地に陥れるだけであった。
助けを求めようとして周囲を見回したヒューゴは、そこでさらに冷たい視線に気付いた。
「お、おい、ウィル……」
「隊長。いや、ヒューゴさん。僕は、ヒューゴさんのことを本当に尊敬していました。親とも師とも、慕っていました。今までは」
「今は」
「最低です」
ヒューゴは抵抗することをやめ、がっくりと肩を落とした。
「ギルバート、左腕の調子はどうだ」
鉄製のサレット兜をかぶった黒人の装甲兵が、隣を歩く短髪赤毛の重攻兵にたずねた。
「吹っ飛ばされてからまだ一日もたっていませんからねえ、マシュー副長。動きはしますが、さすがにまだ、使い物にはなりませんなあ」
内容の深刻さとは裏腹に、ギルバートの口調はのんびりとしたものである。
「体力もまだ、充分には回復していないのだろう? コンテナ、俺に貸してくれ」
ギルバートは大型のコンテナを背負っており、それは革製のベルトでコンポジットアーマーの背後にしっかりと固定してあった。
野営用の軍幕や炊事用品など、個人ではなく分隊として必要な大物の装備は、このコンテナボックスで運搬するのである。
そしてその運搬の役目は、常に彼ら重攻兵が買って出ていた。
「いや、こいつは俺が背負いますよ、副長。俺が本調子じゃない分、みんなには戦闘に備えて体力を温存してもらわなくちゃ」
「……わかった、そうさせてもらう」
俺がギルバートでも、きっとそうするだろう。
それが全員の生存率を少しでも高くする選択だと、マシューにもわかっていた。
「ところで、副長。あの女先生、すごいですねえ。腕をつなぎなおすなんて神業、聞いたこともありません。あの先生さえいてくれりゃあ、この先、心強いってもんです」
ギルバートのその言葉に、マシューは眉を曇らせた。
心配していた通りだ。
「ギルバート。お前、あの先生の力があれば、どんなに敵に突っ込んでいっても大丈夫だ、なんて考えてはいないだろうな。いくら怪我しても、何とでも治してくれると」
「え、違うんですかあ」
「そんなうまい話があるか。あの後少し隊長と話をしたんだが、ルーシー先生の治癒魔法には、いくつかの制限がある」
「制限……」
「第一に、大きな怪我を治すには、それだけ時間がかかる。お前の左腕の事を考えてみろ、たっぷり三十分はかかっている。戦闘中に治すなんてチャンスは恐らくないし、複数名が一度の戦闘で大きな怪我をすれば、戦闘後に一人を治している間に、もう一人は手遅れになるかもしれない」
「なるほど」
マシューは人差し指に続き、中指を立てた。
「第二に。治癒魔法を行使するにあたって、治癒師は、ライフ・フォースというものを消費しているらしい」
「ライフ・フォース、ですか」
「どうやら、気力や精神力、あるいは魔力という概念らしい。当然、力の貯蔵量には限界がある。ライフ・フォースを消耗してしまうと、その回復にはある程度の休息が必要になる。連続して無尽蔵には、使えないというわけだな」
「ふむ。疲れると、食ったり寝たりしなきゃならないわけですね。それは道理だ。じゃああの先生、昨日は俺の治療で消耗して、作戦会議に寝坊しちまったんですね」
「どうかな。ルーシー先生の場合は、単に寝起きが悪いだけかもしれんがね」
マシューは苦笑した。
あの変わった先生なら、大いにあり得る話だ。
「第三の制限。頭や胸に致命的な一撃を受けたり、すでに死んだ者に対しては、治癒魔法を使用しても元には戻らないそうだ」
「そいつは、当たり前だ。逆にそれを治せるのであれば、そいつは人間じゃないですね。神か、悪魔だ」
「最後に、第四の制限。今のところ、高度な治癒魔法を使うためには、隊長のアドバイスが必要なのだそうだ」
ギルバートは最後の奇妙な条件に、目を見張った。
「なんですか、そいつは。隊長は治癒師じゃあねえ、装甲兵だ。装甲兵が、どうやったら治癒師に高度な治癒魔法を教えることができるんですか」
マシューは投げやりに答えた。
「俺が知るか。隊長も、そいつについては答えてくれなかった。おおかた、隊長がそばにいないとやる気が出ないんじゃないか、あの先生は」
マシューは自分でそう言ってみて、あの変わった先生なら、やはりあり得る話だと思った。
白髪総髪の重攻兵ハリソンは、黙って隊のしんがりを歩いていた。
「どうした、ハリソン。妙にいらついているようだが?」
銀髪ショートボブの突撃兵アイリスは前方を向いたまま、無表情に言った。
「どうして、そうだと」
「いつもよりやや歩幅が広いし、かすかにため息も聞こえる。何より、皆の顔色を交互にうかがっているな。分隊に、何か不満があるのか?」
ハリソンは苦虫を噛み潰したような表情をした。
アイリスの正確な分析も、場合によっては癇に障る。
「隊長たち、少し緊張感に欠けているとは思わないか? もう、いつ矢が降ってきてもおかしくない状況だ。俺は、皆で仲良く死ぬなんてのはごめんだ」
アイリスは、涼しい顔で返事を返す。
「おそらく、すでに準備万端なのだろう。私が見るところ、あの隊長は切れる。彼の指揮が、信用できないか?」
「そうではない。この三カ月間共に戦ってみて、隊長の作戦はすべて的確だった。安全策をとりすぎるきらいはあるが、犠牲を最小限にという考えには、異論はない」
「ならば、なぜ」
ハリソンは、前方を睨みつけた。
向かい風に逆らう獣のように。
「……俺は、本国では奴隷だった。俺の両親も、祖父母も、奴隷だった」
「お前たちの経歴は、すべて知っている」
アイリスはさらりと、さも当然のように言った。
ハリソンはわずかに眉を上げたが、言葉を続ける。
「そんな奴隷の俺が唯一這い上がるチャンスが、この作戦なんだ。独立分隊、などと言えば聞こえはいいが、実際は全滅前提の特攻任務に近い。しかしこの作戦で、俺は」
アイリスはわずかに眉をひそめた。
「ハリソン。お前は、単に軍の中での栄達を望んでいるわけではあるまい? この一連の作戦の中で、お前は何を求めている?」
アイリスに問われながら、ハリソンは不思議な思いにとらわれた。
なぜ俺は、こうして彼女に、隠し立てもせずに話しているのだろう?
ずっと裏切られ、搾取され、踏みにじられてきた俺には、他人に本音を話すことがどれだけ危険なことか、身に染みてわかっているはずなのに。
「力だ。誰にも縛られないための、純粋な力。この『大陸』には、恐るべき怪物どもにさえも秩序を与えている何かが、確かに存在している。その力の源を、俺はこの手にしたい」
それを聞いたアイリスは、退屈そうに言った。
「なんだ、お前は王などになりたいのか。だが、力を手に入れたとして、何とする? 賞賛。優越。安寧。解放。そしてその先に待つのは……孤独な支配」
「ばかな! 俺はただ、誰かを見下したり、誰かに見下されたりしない世界が、欲しいだけだ」
アイリスは薄く笑って、足を速めた。
「その言や良し、だな。だがな、それは果たして、力などで何とかなるものなのかな? まあ、やってみてから考えるといい」
その後ろ姿を、ハリソンは唇をかみながらみつめた。
俺はつかむ。
必ず、つかんで見せる。
一人で歩いていた射手のデビッドは、兜のひさしを少し上げて、周囲の地形を確認した。
左右が切り立った崖にせり上がった、谷間の入り口に差し掛かっている。
まあ、頃合いだ。
アイリスとウィル少年は、朝もやに紛れて姿を消していた。
恐らく、隊長の指示だろう。
デビッドは、背後にかついだコンポジット・ボウを取り出すと左手に持ち、矢筒の位置を整えなおした。
彼の複合弓は、軍から支給された試作品である。
様々な素材を組み合わせた積層構造であり、通常のロング・ボウよりも小型でありながら、その飛距離と弓勢は、それをはるかに上回る。
ただしその調整は難しく、気温や湿度などの自然条件にも左右されるなど、デリケートな面も持ち合わせている。
弓の胴に埋め込まれた金属片が薄く明滅しているのが、神秘的な何かを感じさせた。
彼は、左手背に革製の手甲のようなもの、いわゆるブレーサーをはめると、弓の弦を二、三度ならして確認した。
分隊のみんなも気付いているはずだ。
ここが敵にとって、絶好の待ち伏せのポイントであることに。
しかし「大陸」についての情報が極端に少ない中にあって、人間の街へと続く街道は、唯一この道しか知られていない。
闇が、少しずつ減じてゆく。
デビッドは唇を舌で湿らせると、短い祈りの言葉をつぶやいた。
真紅のローブの魔導士は、待ち伏せなどしなかった。
彼女はフードを深くかぶって、狭い谷の中央に黙然とたたずんでいる。
周囲には、数十のゴブリンたち。
そして彼女の左右それぞれに片膝をついてひかえているのは、頭から足先まで完全に装甲化された、高さ五メートルはあろうかという、二匹の巨人タイタン。
「さて、始めましょうか」
女魔導士はフードを後ろに払い、素顔をさらした。
早朝のやや冷えた谷風にさあっと流れる、長い黒髪。
切れ長の目に、黒い瞳。
白い肌に細い眉、筋の通った高い鼻といった、整った顔立ちである。
ぱっと見る限りでは二十代後半の印象だが、見る者によってはその表情の中に、少女のような幼さも、あるいは老婆のような狡猾さをも、読み取ることができたかもかもしれない。
彼女は周囲を見渡すと、目を細めてにっこりと笑った。
「じゃあ皆、よろしく頼むわね。治癒師は、出来れば捕虜に。そのほかの者は、全滅させちゃって構わない」
左右のタイタンが、ゆっくりと立ち上がる。
「侵略者たちに、慈悲は無用よ」
射手のデビッドだ。
どうやら不穏な空気になってきたが、恐らく隊長は、何らかの策を持っているのだろう。
まあ俺としては、さっさと片付けて読書に戻りたいところだがな。
それでは、第七話「伏兵」で。
ん? バトルがようやく始まるかもって?
ビンゴ、だ。