第四話 治癒魔法の力
ヒューゴは暗い塹壕の奥の一角に座り込むと、焚き火で温めておいたアルミ製の水筒を取りだした。
やはりアルミ製のマグカップをバックパックからごそごそと探し出すと、ゆっくりとコーヒーを注ぐ。
仕上げに砂糖を、かなりの量で加えてかき混ぜる。
甘口のコーヒー。
自分の好みってのは、どこの世界でも変わらないもんだな。
できるだけゆっくりとすすっていると、暗がりの中をこちらに歩いてくるブーツの足音が聞こえてきた。
「どうして起こしてくれなかったのよ、隊長さん。ミーティングとっくに終わったって、ウィル君に怒られちゃったじゃない。年上の威厳、だいなし」
寝起きの治癒師ルーシーが、ぷりぷり怒りながら歩いてきた。
ストレートの長い金髪が塹壕の中に漏れてくる月光をわずかに反射して、夜目にも美しく輝いて見える。
「お目覚めですか、先生。治癒師がその魔力、たしかライフ・フォースでしたっけ、を回復するためには、休息が必要と聞いていましたので」
ヒューゴは苦笑しながら答えた。
なんだか、治療中とはずいぶんと雰囲気が違うな。
「私だって分隊の一員なんですからね、特別扱いはしないで。それと」
ルーシーは、やおらヒューゴの隣に座り込んだ。
ヒューゴは我知らず、体をずりっと反対側にずらす。
「それと?」
ルーシーはぐっと体を寄せると、ヒューゴを上目遣いに見上げた。
ライトブラウンの瞳の中に、ヒューゴ自身が映っている。
「敬語で話すのはやめて。それに、ルーシーって、名前で呼んで欲しい」
ルーシーは長い金髪を後ろで束ねながら、口をとがらせて抗議した。
ヒューゴは、じりじりと後ずさりした。
ずずず、と迫るルーシー。
「しかし、元来治癒師は、軍隊に、所属しながらも、ある程度の独立権限を、持っているからして」
しどろもどろになるヒューゴ。
くそう。
悔しいが、こいつのアップは破壊力がある。
「それが特別扱いしてるってのよ、あごひげの隊長さん。それに私、先生って呼ばれるの嫌いなの」
それを聞いて、ヒューゴは我に返った。
そういえば俺も、先生呼びにはついに慣れることはなかったな。
本来、職業に貴賤などあるはずもない。
それにまずもって、俺は先生なんて柄じゃない。
「わかった。そうさせてもらう」
ルーシーはそれを聞いて満足そうにうなずいたが、そこでようやく、お互いの顔が近すぎることに気付いたようだった。
ルーシーはヒューゴからぱっと離れると、顔を赤らめながら、ばつが悪そうに服についた砂をパタパタと払った。
「ふ、ふん。名前で呼んでいいとは言ったけれど、なれなれしくしないでよね。隊長だからって、部下にセクハラしていいわけないんだから」
「……」
セクハラはお前の方だろうとヒューゴは思ったが、口に出せるはずもなかった。
「じゃあ、さっそく。起きたばかりの可愛い女の子に、コーヒーごちそうしてくれないかな」
ポニーテールに髪をまとめたルーシーは、ヒューゴに対し斜め四十五度の角度で、無邪気に微笑んで見せた。
こいつ。
無意識に、自分の武器を最大限に発揮している。
治癒師アカデミーを卒業したばかりだから、たしか、十八歳だっけ?
末恐ろしい奴……
ヒューゴは、ルーシーがにこにこと差し出したマグカップにコーヒーを注いでやった。
「砂糖は、せんせ……」
「だから、ルーシー」
「じゃあ、ル、ルーシー。砂糖はどう?」
いかん。
分隊長ともあろうものが、新米の治癒師に完全に主導権を握られている。
「私、基本ブラックなのよね。んー、隊長さんは、甘党っと。じゃあ、いただきます」
ルーシーは一口すすると、びっくりしたようにつぶやいた。
「あ、おいし」
ヒューゴはようやく自分を取り戻すと、満足げに胸を張った。
「そうだろう? こいつは、キリマンジャロ産と同じ種類の豆だからな。こっちで探すの、苦労したぜ」
「きりまんじゃろ?」
ルーシーが横目でヒューゴをちらりと見る。
おっと、そりゃ知るはずないか。
長い年月の間に様々な知識が交流し、共通したものが多くある。
コーヒーもそうだ。
どんなに離れていても、世界の本質というものはそうは変わらないらしい。
ヒューゴには、その事実が慰めになった。
「まあ、豆は常に持ち歩いている。飲みたくなったら、いつでも言ってくれ」
ルーシーはヒューゴをじっと見て、うれしそうにうなずいた。
「そうそう、そんな感じで話してよね。他の隊員さんたちと同じように」
じゃあ君はなぜ、他の分隊員たちと同じように、俺に敬語を使おうとはしないんだ。
とは、思わなかった。
ルーシーのその態度もまた、ヒューゴには有難かった。
「あのさ、隊長さん」
ルーシーはマグカップの中のコーヒーを見つめたまま、何気ない調子でヒューゴにたずねた。
「隊長さん、どこから来たの?」
ヒューゴは、コーヒーを口元に運びかけた手を瞬間止めた。
「……どうして、そう思う?」
「何言ってんのよ。ギルバートさんの治療の時、私の知らない言葉をたくさん使ってたよね? それに、あの知識も。あんなこと、アカデミーでも誰も教えてくれなかった。隊長さん、教授以上の学者さんなの?」
さて。
どこまで、話したものか。
いや、どこから、か。
「ひょっとして、ここ?」
ルーシーは、マグカップ越しにヒューゴをさぐるように見た。
「ここって、『大陸』の事か?」
「うん。だって、私たちの王国や、他の『島』の知識じゃなかったら、ここしかないじゃない」
「じゃあ、なにか。俺が『大陸』からの脱出者で、故郷を取り戻すために軍隊に志願したとかいう感動的なやつか」
「大陸」に怪物たちが出現したのは、古文書などによれば、もう二千年ほど前の事だという。
それまでこの世界の中心地であった「大陸」は、それ以来外部の「島」との交渉を絶ち、現在に至っている。
なぜ怪物たちが出現したのか。
奴らの目的は何なのか。
一般的に知られているのは、「大陸」にも少数の人間は存在していて、中には魔導士や暗黒騎士などのように、怪物たちの指揮官的な立場の者がいるということ。
さらに、人間たちの「街」が、複数存在しているということ。
「あるいは、『大陸』のスパイなのかも。むしろ、そっちの方が可能性ありそう」
ルーシーは臆面もなくそう言って、にっこりとほほ笑んだ。
どうして、その想像で笑う……
「俺も、君と同じさ。学校で学んで、そのまま仕事になって」
「ふうん。全く答えになっていないわね」
ルーシーはジト目でヒューゴをにらみつけた。
「話してくれるつもりは、ないって訳か。……でもね、隊長さん」
ルーシーは再び、ヒューゴにぐっと体を寄せてきた。
またしても、ずずず、と後ろに下がるヒューゴ。
「私、すごく感謝しているわ。治癒師にこんな力があるなんて、想像したこともなかった」
「うん?」
「だって、そうでしょう? 治癒師なんて、少し熱を下げたり、切り傷を直したり、そんなちっぽけな仕事。みんな、街の便利屋さんみたいなものだって思っているわ。ううん、私だってそう思ってた。それでも、少しでも人の役に立てるなら、この仕事も悪くないかなって」
ルーシーは細い指を組みながら、暗がりの遠く向こうを見つめている。
「でも、隊長さんの言うとおりにやってみて、わかった。治癒師は、この力は、人の命を救うことができる。そうでしょう?」
無邪気なルーシーの言葉を、ヒューゴは壊したくはなかった。
「……そうだな」
「隊長さんは、私たちが知らなかった、人間の体の構造や機能を知っている。私たちの治癒魔法は、対象を『理解』さえしていれば、損傷部位を再構築することができる。いままでは、知らなかったから、できなかった。でも」
「でも?」
「隊長さんが教えてくれれば、無限の可能性があるわ」
ルーシーは、目を輝かせてヒューゴを見つめる。
その純粋さが眩しすぎて、彼は目をそらすと天幕を見上げた。
ヒューゴが黙っているのを怪訝に思ったのか、ルーシーは話題を変えた。
「ねえ、隊長さん。治癒師アカデミーの先生たちは、この力のことを知っているの?」
「上のほんの一握りは、ある程度までは」
ルーシーは憤然として言った。
「だったらどうして彼らは、私たちにあの知識を教えてくれなかったの? 教えてくれていれば、多くの人たちの命を救うことができるのに」
「ルーシー、顔が近い。あと、肘に、胸が当たる」
「え?」
ルーシーは、今は革製のチュニックを外し、布製のアンダーとスリムパンツといういでたちだ。
マントを羽織ってはいるが、胸のシルエットは隠しようもない。
ばばっ、と跳び下がるルーシー。
「ちょ、隊長さん。反抗できないのをいいことに、部下を慰みものに。セクハラでパワハラなんて、最低」
「……」
「この責任は、きっちり取ってもらうわ。私の村には、最初に胸を触った男性が、その娘をめとらなければならないという風習が」
「嘘をつけ」
なんて面倒な奴だ。
「ルーシー。そのことについては、数が少ないから、というのがその理由だろうな」
「私の胸を触る男性が、少ないっていうの!?」
「違う。アカデミーで、高度な知識を教えない理由だ」
疲れる。
「聞くところによると、現存している治癒師ってのは、百五十人程度なんだろう?」
「うん。ほぼアカデミーの卒業生か在校生だから、そのくらいかな」
治癒師がこの世界に出現してから、まだ五十年足らず。
その素養を持つものは、年間三人程度しか現れない。
突然変異ともいわれているが、その発生については謎が多い。
「だからさ。人の命を救える治癒師が、世界に百五十人しかいなかったら、どうなる」
それを聞くとルーシーは、目をすうっと細めてうなずいた。
「そうか、取り合いになっちゃうね。ただでさえ可愛いのに、その上有能だなんて」
可愛い、という台詞を無視して、ヒューゴは続けた。
「貴族や富豪が寄ってたかって、お前らを奪いにかかる。そして、平民たちはその恩恵にあずかることはない。君が思っているような、目の前の多くの命を救うという状況には、恐らくならない。アカデミー自体も、自分たちが権力者の道具にされるのは避けたいんだろう」
ルーシーはうつむいてじっと考えていたが、ややあってたずねた。
「本当に、それだけ?」
「なぜ?」
「それだけの理由で、完全に秘匿するなんて。公開しないと、技術の発展は望めないわ。権力者だって、治癒魔法が高度になった方が、自分たちのためには都合がよいはず。だったら、アカデミー内だけで極秘裏に研究するって方法もあるじゃない。それを、治癒師の間ですら秘密にするなんて、おかしいじゃない」
ああ。
この子、本当に頭いいな。
妄想癖さえなけりゃ、完璧だ。
「おそらく、高度な治癒魔法技術それ自体が漏洩するリスクを、最小限にしたいんだろう。使える治癒師が多ければ多いほど、それだけ秘密を保てなくなる。発展するメリットよりも、漏洩するデメリットの方が大きい、と判断しているんじゃないか」
「漏洩って、誰によ。治癒魔法は、治癒師にしか使えないわ。漏れたところで」
ヒューゴは、とっくに冷め切った甘いコーヒーを静かにすすった。
「きっと、外にさ」
「何よ、それ」
しばらくの沈黙の後、ヒューゴがぽつりと言った。
「ルーシー、一つ約束してくれないか」
「うん、何かな?」
「俺が君に教える知識は、二人だけの秘密にして欲しいんだ」
「え、そんな。私の村には、女の子と秘密を結んだ男性は、その娘をめとらなければならないという」
「嘘をつけ」
ヒューゴはこめかみを押さえて、頭痛に耐えた。
「さっきも言ったとおりだ。君が高度な治癒魔法を使えるということが外部に知れ渡るのは、多くの意味で得策じゃない。敵にも、そして恐らくアカデミーにも、狙われることになる。自分を守るためだと思って。分隊のみんなにも、この件については口止めしておく」
ルーシーはやや考えていたが、きっぱりといった。
「そうね、わかったわ。だけど、目の前で苦しんでいる人に出し惜しみする気はないわ。不言実行、で行かせてもらうから」
「ああ、それでいい。それが、いい医師の条件ってやつだ」
「いし? あ、またわからないこと言った! まさか、鉱物の事じゃないわよね!?」
ヒューゴは笑いながらも、良心の呵責を感じていた。
やはり間違いない。
彼女は、最高の素材だ。
俺は彼女を、自分のために利用しようとしている。
「ルーシー、クラッカーとコンビーフの缶詰が少しばかりあるんだが。君、料理は出来る?」
ヒューゴは、迷いを振り払うようにそう言った。
こうなることは、最初から分かっていた。
覚悟なら、この世界に来る前にとっくに決めていたはずだ。
「ふっふーん、隊長さん。私、できないことなんてないわよ。うんと美味しいもの作ってあげるから、これからもいろいろと教えてね」
ルーシーはそう言うと、バックパックから十徳ナイフを取り出し始めた。
ヒューゴは、後ろを向いた彼女のポニーテールが振り子のように左右に揺れているのを、ただ見つめることしかできなかった。
こんにちは、ウィルといいます。分隊で、突撃兵をやってます。
何だか、治癒師のルーシーさん、ヒューゴさんになれなれしいですよね。
軍隊なんだから、けじめはつけて欲しいと思うんですけれど。仮にも、僕より年上ですし。
え? お前は、隊長の事をヒューゴさん呼びでいいのかって? まあ、それはそれです。
それでは、第五話「突貫講義」で、またお会いしましょう。
でも、ルーシーさん……いえ、何でもありません。
変な人。