第三三話 オルタナティブ
尖塔が地の底に沈む轟音が、遠く離れた城壁の上の回廊にも響いてきた。
ルーシーは何とか首を曲げると、音の聞こえてきた方角を見た。
時折、稲光にも似た閃光を発しながら、塔が崩壊していく。
もうもうと立ち上る土煙を見ながら、ルーシーはすべてを悟っていた。
「隊長さん、『クレイドル』と一緒に、消滅したんだ。きっと、それしかなかったのね」
ルーシーのそばにかがんでいたウィルが、呆然とする。
「消滅って、そんな。どうして分かるんですか?」
「分かるわよ。もう隊長さん、この世界にはいない。私が転生遺伝子を、隊長さんに組み込んだから」
ルーシーは、ぐっと目を閉じた。
「なによ、そう簡単にはくたばらないなんて言っといて。馬鹿」
ルーシーの言葉がどうしようもない事実であることを、ウィルは受け入れざるを得なかった。
先ほどのドノヴァンとの会話で、うすうす気付いてはいたけれど。
やはり、転生遺伝子を自分に。
しかし同時に彼は、ヒューゴならきっとそうするだろうとも思った。
ヒューゴさん。
僕たちを守るために、異世界に戻ることを選んだんですか。
僕はあなたに、そんなことをしてもらいたくなんかなかった。
もっと一緒に、いて欲しかった。
少年は空に向かって、その名を声の限りに叫び続けた。
やがて、周囲は静かになった。
二人がいる回廊を、柔らかな午後の日差しが照らしている。
ウィルはルーシーの頭を持ち上げると、黙って自分の膝の上に乗せた。
「ちょっと、危ないってば、ウィル君」
「頭にも顔にも、血液はついてませんから。いつかのお返し、させてください」
ルーシーの呼吸は、落ち着いているように見えた。
恐らくは自身の治癒魔法で、決定的な瞬間を何とか引き延ばしているのだろう。
しかし、その顔の美しいまでの白さが増していくことが、ウィルには怖かった。
「ふふ。男の子に膝枕してもらうってのも、悪くないわね」
そしてルーシーは空を見上げると、ぽつりと言った。
「ウィル君、私ね。転生遺伝子を、自分にも組み込んじゃったんだ」
「……!」
衝撃に、息をのむウィル。
「でも、ルーシーさんもウィルスに感染しているのなら、転生遺伝子は消滅しちゃうんじゃ」
「大丈夫。あらかじめ、ちゃんと抗体を体内に生成しておいたから。わたし天才だもん、そこのところはぬかりなしよ」
ルーシーは、にかっと笑った。
「隊長さんには、もちろん内緒なんだけれど。ユークロニアで私が捕まっちゃったら、大変なことになるもんね。向こうで隊長さんに出会ったら、すごく怒られるだろうなあ」
ルーシーの目は、もう何も見えなくなっていた。
「……だけどね、ウィル君。隊長さん、独りにしておけないじゃない。きっと二人なら、どんな時でも強くなれると思うんだ。それにやっぱり、好きなんだもん」
「それ、ストーカーってやつですよ。転生してまで追いかけるなんて、怖いなあ」
ウィルは、無理に笑顔を作った。
「ルーシーさん。僕、ルーシーさんのことが、好きです」
ルーシーはちょっと驚いた表情をしたが、かすかに微笑を返した。
「ん。なんとなく、そうかなって。でも私、二股できるほど器用じゃなくて。ごめんね」
ルーシーは、あははと笑った。
「大丈夫。ウィル君なら、すぐにいい彼女ができるって。だから……この世界のこと、頼むね」
「ルーシーさんこそ。向こうの世界でも、ヒューゴさんのこと、頼みます」
「うん」
ウィルの涙が、眠りについたように穏やかなルーシーの頬に落ちた。
にらみ合っていた元王国軍とシーカーの魔軍は、彼方から響いてきた轟音に、呆然として立ちすくんだ。
「塔が……『クレイドル』が……崩壊していく」
ケイスは、地に両膝をついた。
すべては、終わったのか。
グレースはうつむくと唇を強く咬んで、感情の高まりを懸命にこらえた。
「ヒューゴ。きっとルーシーも、一緒なのですね。私には、止めることが出来なかった……」
グレースはきっと顔を上げると、ケイスにつかつかと近づく。
彼女は金属製の小手を脱ぐと、それをがらんと乱暴に放り投げ、右手をケイスに差し出した。
「こんなことは、やめにしましょう。少なくとも私は、もうたくさん。あなただって、そうでしょう?」
セミロングの茶色い髪を駄々っ子のように振り乱しながらまくしたてるグレースを、ケイスは呆然と見つめていた。
「いつまでそうしているのです、さっさと立ちなさい。立つことができたら、歩く。歩くことができたら、走る。走らなければ、何も変わりません。ここは、私たちの世界なのですよ?」
グレースは、ケイスの腕を強引にとって立たせた。
彼の頭に積もった砂塵を、ぱんぱんとはたいて払い落とす。
「私も、一緒に走ってあげますから。今はゴールは見えませんけれど、どこかには近づいていくはずです」
ケイスは、うつむいたままだった。
「……少し時間をいただけませんか、女騎士殿。私も多くのものを失い、少し混乱しています。いま、しばらく」
グレースは、にっこりと笑った。
「もちろんです、時間はたっぷりあります。スタートはその時に」
グレースは振り返ると、かたわらに控えていた通信兵に号令した。
「全兵に伝達。敵味方問わず、負傷兵の救護を最優先に行うように。ぐずぐずしない!」
はっと敬礼を返した通信兵は、耳に手を当てながらグレースに別の報告をした。
「大隊長。第七独立分隊のエリック通信兵から、伝達が。……ご無事なら、城壁の上で一緒に昼食でも? なんだ、このふざけた通信は」
エリックの名を聞いたグレースは、はっと振り返ると安堵の表情を浮かべた。
ひそかに顔を赤らめながら、通信兵に命じる。
「通信が途絶がちなので、急ぎ帰隊し直接に報告するように、と伝えてください」
ウィルはルーシーの頭を膝の上にのせたまま、うつむいていた。
どのくらい、そうしていただろう。
二人の上に、人影が落ちた。
「ルーシー姉。ごめんなさい、間に合わなかった」
少女の声に、ウィルは顔を上げた。
なぜか、懐かしい響きがそこにはあった。
「……君は?」
水色のケープ。たけの低い毛皮の帽子。
ツインテールにした黒髪に、黒い瞳。
安らかなルーシーのその顔を、彼女は静かに見つめていた。
「私は、エミリーといいます。フリーの、治癒師です」
「治癒師……」
「はい。先だってのムーングロウの戦いの折、ルーシー姉とご一緒に仕事をさせていただきました」
「そうだったのか」
エミリーは自分の水色のケープを脱ぐと、血に染まったルーシーの身体にそっとかけた。
「あ、君。血に触っちゃ……」
「大丈夫です、ルーシー姉の魔法はもう効力を失っています。不活化したウィルスは、もはや脅威ではありません」
この子。僕と同じくらいの年なのに。
それに、あのたれた黒い瞳。
「君、ひょっとして」
エミリーは、ウィルの言葉をさえぎるように立ち上がった。
「分隊員さん、彼女をみんなのところへ連れて行ってあげてください。ルーシー姉はユークロニアへ行ってしまったけれど、あなたにとってのルーシー姉は、この世界での思い出が全てです。その想いを、いつまでも大事にしてあげてください」
エミリーは、帽子を押さえて表情を隠した。
「私も、そうやって生きていきます。ルーシー姉と、お父さんとの思い出を、決して失わずに」
「! やっぱり、君は」
エミリーは振り返ることなく、城壁の上を去っていった。
「クリスティン、遅くなってすまなかった」
「ハリソンさん!」
クリスティンはハリソンにまっすぐ走りよると、飛び上がって抱き着いた。
ハリソンのコンポジットアーマーに、頬を寄せる。
「やっぱり来てくれたんですね。それに、おじい様まで一緒に」
「たまたま、君の部族の領土に迷い込んでしまってな。君が族長の孫だと聞いた時は、驚いた。この白金のネックレスがなければ、俺は八つ裂きにされていただろう」
「本当に、偶然でした。役に立って良かったです」
ハリソンは笑ってうなずいた。
「必ず返すと、約束したからな」
そう言って彼は、ネックレスを首から外そうとした。
それを押し戻す、クリスティン。
「ふっふっふ。それはもう、返却不可能なんです」
「? どういう事だ?」
「おじい様から聞きませんでしたか? そのネックレスは、代々の族長に伝わるものなんですよ。村を出た時は私が次期族長でしたので、それを受け継ぎましたが。それを、ハリソンさんが受け取ったということは」
勘の鈍いハリソンにも、ようやく事態がのみ込めてきた。
「おい、ちょっと待て。俺は、なにも聞いてないぞ」
そこへ、白髪の老紳士が歩み寄ってくる。
獣人族の族長、シャルタットであった。
やや老いたとはいえ、その姿は威風堂々たるものである。
「ハリソン君、心配には及ばない。先ほどの戦いで証明された君の戦いぶりに、けちをつけるものはおるまい。我らの部族とて、人狼、人虎、人熊など、様々な種族が含まれている。人間の君が族長となっても、特におかしなこともない」
シャルタットは、クリスティンの方を振り向いて言った。
「たから、我が孫娘よ。立派な跡継ぎを産んでくれよ」
「やあだ、おじいさまったら」
照れながら、祖父の胸をぽんと叩くクリスティン。
硬直したままのハリソンの戦いは、まだ始まったばかりであった。
「ちょっと、誰か忘れてない?」
四肢の腱を切られたクゥシンは、いまだに城壁の上の回廊で、うつぶせに横たわっていた。
少しずつ、日が傾いていく。
「私、このまま死ぬのかしら……美人の魔導士がこんな死に方するなんて、あり得ない……」
と、前方の回廊から、足音が聞こえてきた。
クゥシンの目の前に立ったのは、短い帽子に白いコートの少女。
「あれ、真っ赤な魔導士が、こんなところで野垂れ死にしてる。だっさ」
「死んでない!」
クゥシンは、首だけで上を見上げた。
黒い瞳のたれ目の少女は、クゥシンを値踏みするように見た。
「おっと、生きてましたか。どれどれ……これはすごい。動脈も骨も無事なのに、腱だけ切られています。いやー、凄腕の相手にやられましたねー」
「あなた、治癒師なの?」
「はい、フリーの治癒師です。エミリーと呼んでください」
「腱組織なんて知ってるの? 普通の治癒師じゃあないわね」
「そういうあなたもその知識。ふーん。シーカーの、スペシャルさんですか」
この子何者、と考えるのも面倒になったクゥシンは、ぞんざいに返事を返した。
「まあね」
「で、どうされます? このまま死にますか?」
「何言ってんのよ! 腱を治すほどの実力があるのなら、さっさと治してちょうだい」
「じゃあ、そうですね……腱四本で、十二万ダインでどうでしょう」
「! お金、取る気?」
「仕事ですから」
エミリーは、悪魔のような微笑を浮かべた。
クゥシンは、自分に選択権など与えられていないことを思い知った。
「参ったな……この戦況だと、どうやら私無職になるかもしれないし。あの、出世払いでどう?」
それを聞いたエミリーは、やれやれと首を振った。
「あなたも出世払いなんですか? 魔導士さんって、私の中で信用できない職業ナンバーワンです。払わないと、地の果てまで追いかけますよ?」
そう言いながら、エミリーはクゥシンの傷に手をかざした。