第三十話 想い
黒人の大男が、静かに川の水面を見つめている。
わずかな手ごたえ。
素早く竿を合わせると、やがて大きな川魚が水面に姿を現した。
慎重に取り込み、びくに放り込む。
後ろからの足音に、マシューは振り返った。
「副長、お邪魔でしたか」
「アイリスか。いや、すでに夕食分の魚は確保できた」
マシューは、白い歯を見せた。
「見事なお手並みです」
「そうだろう? 息子や娘に、もう少し教えてやりたいものだが。特に娘の方が、魚が嫌いでね。女の子は、やはり魚なんか、気味悪がるものなのかな?」
女の子の一般的な感覚を、私に求めているのか。
アイリスは、何となく申し訳なさを感じた。
「副長には、お子さんが?」
マシューは、照れたように笑った。
「ああ。女房と、息子に娘。息子の方はまだ十歳だが、これが悪童でね。俺は教師だが、存外、自分の子供に教えるというのは難しいものだな」
アイリスは、怪訝な顔をした。
「教える。記憶を、継承させるということですか?」
マシューは釣り具を片付けながら、アイリスに笑いかけた。
「転生者だっていう、お前さんらしい考え方だな。それは、ちょっと違う。教育というのは、様々な出来事を通して、自分で考える力を養ってもらうことさ。そうやって、そいつだけの人生が作られていく。子供の人生は、親のものじゃあないからな」
アイリスは、ふむ、と腕を組んだ。
「私たちの同胞は、なるべく情報を共有し平たん化することによって、データベースを大きくしてきました。情報の細分化とは、我々と逆の発想ですね」
マシューは、少し真顔になった。
「アイリス。俺は、お前が異世界の、ただの端末だとはどうしても思えないんだ。お前は、お前さ。他の誰でもない」
アイリスは戸惑った。
彼女には、珍しいことだった。
「……個人と社会的自我については、その認識も解釈も様々ですが。率直に言えば、私は自分自身の特別な感情というものが、有るのか無いのかよく分からないのです」
「お前はそうでも、俺たちはお前に対する想いというものを持っている。それは、やはりお前だけのものだと、俺は思うぞ」
マシューは、ぽんとアイリスの肩を優しく叩いた。
「私だけの?」
「そうだ。お前は、俺たちの仲間なんだ。おまえがどう思おうと、な」
アイリスは、少し笑った。
「なんだか、穏やかな気分です。これが、嬉しいということなのでしょうか」
マシューは目を細めた。
「お前はそういう風に、笑っていた方がずっといい。隊の皆も、そう思っているよ」
アイリスは、マシューが釣った大量の魚を両手で抱えると、踵を返して颯爽と歩き去った。
深紅の魔導士。
城壁の上か。
アイリスは、眼前のヒッサーに前蹴りを食らわせた。
リザードマンの副長が、たまらずにもんどりうって後方に吹き飛ぶ。
それを確認することなく、アイリスは、城壁へダッシュした。
城壁を形成する石組みの、わずかなくぼみ。
そこへ指をかけると、体を引き上げ上方へ跳躍する。
治癒魔法で腕を強化しなければ、なし得ない業だった。
ものの数秒で城壁の上に飛び上がり、着地する。
クゥシンとの距離は、ほんの三十メートル程度。
「クゥシン様、お下がりください!」
彼女についてきた通信兵が、身を挺して前に出た。
その兵を、クゥシンはやんわりと後ろに押し戻す。
「ありがとう。でも、あと一撃なら間に合いそうだわ。あなたは早く逃げなさい」
私のライフ・フォースも、これで尽きるわね。
クゥシンは前に出ると、右手をアイリスの方に突き出した。
左手の指を複雑に交差させると、呪文を紡ぐ。
「お願い、倒れてよね! ヘルファイヤー!」
らせんを描く業火が城壁の幅いっぱいに広がり、アイリスを襲う。
細い城壁の上は、退避する場もないように思われた。
アイリスは、静かにつぶやいた。
「魔装具『Bウイング』、励起」
四肢の魔装具が、金色の輝きを帯びる。
「バリアウイングを、使う」
アイリスは、両のこぶしを構えた。
前方の空間が歪む。
彼女は襲い来る炎へと、ためらうことなく突進した。
二、三度深呼吸すると、肘を後ろに引く。
そこから繰り出されたのは、超高速の連打。
アイリスの前方の空間が、崩壊する壁のように削り取られていく。
魔装具「Bウイング」の空間歪曲能力と、ルーシーの治癒魔法による腕の強化。
シンクロニシティが、クゥシンの投射魔法を散らして完全に無効化した。
「!」
深紅の魔導士の眼前でアイリスは大きくジャンプすると、宙返りしながら背後に着地する。
振り向く間もなく、クゥシンは両の手首と足首に激烈な痛みを感じた。
「つっ……」
踏ん張ることもできず、彼女は城壁の石づくりの床に、前のめりに倒れ伏した。
アイリスが、静かに歩み寄ってくる。
「手関節の屈筋腱と、アキレス腱を切断した。もうお前は、魔法を行使することも、移動することもできない」
クゥシンは首を曲げて、アイリスを見上げた。
アイリスの表情には、驚くべきことに、明らかな怒りが含まれていた。
「……今の間合いなら、首をはねることもできたのに。すぐに殺さなかったのは、私が憎くて、なぶり殺しにしたいから?」
あの黒人の分隊員を殺したのは、自分だ。
復讐されるのは、当然だろう。
しかしアイリスは、クゥシンの予想に反して、寂しそうに彼女を見つめた。
「私には、憎しみや悲しみなどというものが、いまだに分からない。だが、もうこの世界で誰も殺したくない。お前が想っている者、あるいはお前を想っている者が、この世界にはいるのだろう?」
クゥシンの脳裏に、額に傷のある、あの少年の顔が浮かんだ。
「それらの想いは、一体どこへ行くのだ? 転生することでリセットされるなどと、簡単なものではないはずだ。その資格があるとも思えないが、もしも私にも想いというものがあるのならば」
一陣の強い風が、アイリスの銀髪を舞い上げた。
「たとえ転生しても、私は、それを失いたくない」
クゥシンにはアイリスの境遇は知るべくもないが、彼女の言葉には同意できた。
私はスペシャルだけど。
この世界が、この世界に生きる人が、好きだ。
「それに、お前にはやってもらうことがある。それを果たすまで、命は預けておいてやる」
アイリスの冷たい声が、クゥシンの頭上から降ってきた。
「え、何?」
「お前が殺した黒人の分隊員は、名前をマシュー・ケージという。お前は『島』に渡って、彼の家族を探し出せ。妻に、息子と娘が一人ずついるはずだ」
クゥシンは、ふんと笑った。
「探し出してどうするの? ごめんなさいって言って、それで済む問題かしら?」
「彼の息子と娘に、魚釣りを教えてやれ」
「は? ちょっと、何言って……」
アイリスはクゥシンの右ほおをかすめるように、手刀を超高速で床へと突き刺した。
クゥシンの長い黒髪が、ごっそりとえぐり取られる。
アイリスの目が、凶暴に光った。
「これは命令だ。命を懸けて、やり遂げろ」
クゥシンは、息をのんだ。
そうか。
何故だかわからないが、これはきっととても大切なことなんだ。
「あなたの命令なんかに、従う義理なんてないけれど」
クゥシンは、アイリスの目をにらみ返した。
「約束だって言うのなら、守るわ。命に代えて」
アイリスは石床からゆっくりと手刀を抜くと、手を振り砂を払った。
「いいだろう」
アイリスは、もう興味はなくなったとでもいうように、くるりと背を向けた。
うつ伏せのままのクゥシンが、あわてて言った。
「ちょっと。手足切られて、動けないんだけれど」
「運が良ければ、この戦いが終わった後に助けが来るだろう。そこまで、私は知らん」
「えー、そんなあ」
クゥシンの嘆きを一顧だにせず、アイリスは立ち去った。
残されたクゥシンは腹ばいのまま、大きなため息をついた。
「参ったなあ。私、魚釣りなんて、一度もやったことないんだけれど」
スカラブレイの街の正門は、混乱の極みにあった。
グレース少佐の本隊が接近したときには、すでにデュカキスは亡く、副長のヒッサーが率いるリザードマン隊や、街の中から防衛のために進出してきた魔族の予備隊が、大門の前で王国の兵たちと乱戦を繰り広げていた。
グレースは素早くバスタードソードを構えると、ヒッサーに向けて突進する。
副長を守ろうと前に出たリザードマン達が一振りでなぎ払われ、地に伏した。
相対する二人。
「暗黒騎士殿は……残念でしたね」
グレースが沈痛な面持ちで、ヒッサーに声をかける。
「貴国の黒人の装甲兵も、あの赤毛の大男も、戦士として立派な最期を遂げられました」
ヒッサーも手に持った曲刀を縦にささげて、死者への礼をとった。
グレースが、ヒッサーを上目づかいににらみながら問う。
「どこまで続けるのです。どちらかが、全滅するまでですか」
ヒッサーが口を開こうとしたとき、門の奥から返答があった。
「我々の理想を共有していただけるまでです、勇敢な王国の指揮官殿」
よく通る声とともに進み出てきたのは、白いスケイルメイルの青年、ケイスだった。
グレースが、驚きを含んだ声で尋ねた。
「あなたが、シーカーの指導者ですか。私は、白いローブの方だとお聞きしていましたが」
ケイスは、沈痛な表情を浮かべた。
「残念ながら、今は私がその任を代行しています。代表は……亡くなられました」
魔族の軍勢に、動揺が広がる。
「亡くなられた? いったい何故?」
「転生を悪用しようとする、卑劣な裏切り者の手によってです。だがそれは我が身内のこと、あなた方がご懸念に及ぶことはありません。我々の理念は、もうご存知ですね?」
グレースはうなずいた。
駆け引きの段階は、とうに過ぎ去っている。
「転生者を利用することによって、来るべき異世界からの侵略に備える、というのがその主旨だとうかがっていますが」
「その通りです。そして、我々に協力してくれているスペシャルも、すでに複数人います。我々の理想は、少しずつ現実に近づいているのです」
グレースは、毅然として言った。
「あなた方の危機感は、理解できます。ですが、そのために誰かを犠牲にすることには、同意できません」
ケイスは、わずかに冷笑した。
「何を甘いことを。戦争とは、常にそういうものです。故郷を、家族を、愛するものを守るために、兵となってその身を捧げる。そこに、何の違いがありましょうか」
そして、ゆっくりと片手を上げた。
数に勝る魔族たちの攻囲が縮まる。
「降伏してください。自国の兵を切り捨てるような国に仕えていても、むなしいとは思いませんか? あなた方の世界を救いたいという気持ちは、本物と見受けられる。我々に、力を貸してください」
グレースの表情は、揺るがない。
「力で統一された総意など、総意ではありません。それは、異世界が他の世界を優位な技術や知識で侵食することと、何も変わらない」
ケイスは、うつむいて首を左右に振った。
「残念です」
本心だろう、とグレースは思った。
バスタードソードを構える。
ケイスが手を振り下ろしかけた、その瞬間。
獣たちの咆哮が、遠くから響き渡った。




