第二八話 離反
スカラブレイの街を見下ろす尖塔の最上階の一室。
やや白髪の混じった初老の男が、窓から外を見つめている。
初夏の空は晴れ渡っていたが、正門の方角から立ち上る黒煙と戦いで湧き上がる砂煙が、彼の視界をわずかにぼやけさせていた。
「遠路はるばるご苦労様でした、サムラック代表」
音もなくするりと室内に入ってきたのは、道化師ドノヴァン。
相変わらずの黒いシャツに白いネッカチーフ、ジーンズにカウボーイ・ハット。
「奴らの狙いが『クレイドル』であることが明確になった以上、我ら全員でここを守らねばなるまい。『クレイドル』が、あるいはスペシャルが、我らの希望なのだからな」
代表と呼ばれる男、白いローブに身を包んだサムラックは、ドノヴァンに厳しい顔を向けた。
街の城壁越しに、戦いの喚声が彼らの部屋まで届いてくる。
「して、お前はこの期に及んで、わしに何用かな」
サムラックは、ドノヴァンを試すように尋ねた。
「本日は、おひまをいただこうかと思いまして」
ドノヴァンは、カウボーイ・ハットのひさしを下げて表情を隠した。
しかし、その口の端に浮かんだ嘲笑は、まぎれもない。
「ふむ。我らシーカーから離脱する、ということだな?」
サムラックはさして感慨もない様子で、そう言った。
ドノヴァンは手を挙げて、彼の言葉を押しとどめる。
「いえ、別にシーカーが嫌になったわけではないのですよ。あえて言えばそうですな、この世界が嫌になった、とでも申しましょうか」
サムラックの表情に、初めて動揺が浮かんだ。
「貴様、まさか。転生遺伝子を手に入れたのか」
ドノヴァンは今度こそ、にやりと笑う。
「左様です、代表どの。すでに私は弟子の治癒師に命じて、転生遺伝子を自分の身体に組み込ませました。もはやいつ死んでも良い、という心持になったわけでして」
今やサムラックは、侮蔑の色を隠そうともしなかった。
「なるほど、貴様にはこの世界がお気に召さなかったというわけか。しかし、今この世界を守ろうとしているデュカキスやクゥシンは、もしユークロニアに戻れると知ったとして、果たしてどうであろうかな」
「おそらく戻りますまい、彼らは愚かですので。この世界で生きていくうちに、つまらん感傷に囚われてしまったのですな。世界など、どこにでもあるのに」
侮蔑に侮蔑で返す、ドノヴァン。
サムラックは、大きなため息をついた。
「ドノヴァン。私は、お前を憐れむ。確かにお前はどこにでも行けるが、それはどこにも帰る場所がない、という事でもあるのだぞ。お前は誰にも受け入れられず、理解されず、共感もされない。永遠の、孤独」
サムラックの声は、そこで途切れた。
白いローブの背が、みるみる赤く染まる。
まるで、クゥシンのそれのように。
「神は、常に一人だ。多神教の神は、神ではない」
串刺しにした鉄棒を掲げ、サムラックの身体を宙に吊り上げる。
「この世界で俺の役に立ったのは、結局のところ治癒師だ。お前たちシーカーなど、しょせん道化なんだよ。道化師の俺が言うのも、何だがな」
ドノヴァンが哄笑した。
轟音と共に部屋の扉が蹴破られ、反対側の壁に衝突して粉々になる。
白いスケイルメイルの青年が、疾風のように部屋に飛び込んできた。
「代表! ドノヴァン、貴様」
そのブラウンの瞳は怒りに燃え、黒い髪が逆立っている。
「これはこれは、ケイス坊ちゃん。お父様の事は、お悔やみ申し上げます。正直彼の事はどうでもよかったのですが、まあ、冥途の土産とでも言いますか」
ドノヴァンはサムラックの身体を放り投げると、鉄棒をぶるんと振って血のりを払った。
「何故、こんなことを」
「どうせ死なねばユークロニアに戻れないのであれば、壊せるだけ壊してから死のうと思いまして。まあ私の、この世界に生きた証ってやつです」
ドノヴァンは自分の言葉に、くっくと笑う。
「この狂人が……」
ケイスが、ぎりりと歯噛みをした。
「ん、やりますかな? 『クレイドル』など私にとってはもはやどうでもいい代物ですが、あなた方にとってはそうではありますまい。敵が、すぐそこまで迫っておりますよ?」
「もちろん『クレイドル』は守る。貴様を葬ってからな!」
ケイスは、スケイルメイルの腰背部に差してある二本のロングソードに手をかけた。
両腕を交差しながら、同時に抜き放つ。
「魔装具『雷電』『斑鳩』、励起!」
ケイスの双刀の刀身が、金色に発光する。
ドノヴァンが、初めて驚愕の声を発した。
「何っ。バラージ・シリーズの魔装具、それも二本とは!」
ケイスは回転しながら、一直線にドノヴァンに飛び込んだ。
二本の剣先が、ドリルのように空間に溝を刻んでいく。
ドノヴァンは後退しながら、二本の鉄棒を眼前で交差させた。
金属の摩擦による火花が、二人の眼前で絶え間なく飛散し続ける。
ドノヴァンは地面に伏せると、ケイスの顎をめがけて真上に蹴りを放った。
ケイスはとっさに地面に二本の魔装具を突き刺すと、その上で倒立し、これをかわす。
そのまま宙返りし後方へ着地すると、彼は素早くドノヴァンと距離をとった。
さすがのドノヴァンも、額に汗を浮かべている。
「やりやがるなあ。甘やかされた坊ちゃんだと思っていたが、ちょいと認識を改めた方がよさそうだ」
「貴様だけは許さん。転生などできないように、消滅させてやる」
ドノヴァンの偽りの慇懃さがかなぐり捨てられ、凶暴な本性がむき出しになる。
「馬鹿が。転生は、意識と肉体の接続が失われた瞬間に発動する。細胞内に遺伝子が組み込まれた時点で、お前らに俺を止めることはできないんだよ」
「黙れ!」
ケイスが、左手の「斑鳩」でドノヴァンに切りつける。
「雑魚が、死ね」
ドノバンは右手の鉄棒で「斑鳩」を外側に軽くいなすと、もう片方の棒をケイスの胸板に鋭く突き出した。
「転換、闇」
ケイスが、半眼でつぶやく。
ドノバンの右腕が、重さを急に増した。
「!」
異常を感じたドノヴァンは、右腕を引くと、左腕の鉄棒を素早く振り下ろす。
「転換、光」
横に払った「斑鳩」が左の鉄棒に触れた瞬間、今度はドノヴァンの左腕の感覚が麻痺した。
ケイスはその隙を逃さず、右腕の「雷電」で突きを放った。
「ボンバー!」
「雷電」の刀身を中心に爆炎が拡前方に投射され、まともに食らったドノヴァンは後方へと吹き飛んだ。
「左と右、過去と未来、理想と現実……対となるものは、すべからく、光と闇。『斑鳩』の前では、相対的な価値は無になる。貴様は、絶対を持たない。ゆえに、俺の敵ではない」
つぶやくケイスは、しかし驚愕に目を見開いた。
黒煙の中で、揺らめきながらドノヴァンが立ち上がっていた。
カウボーイ・ハットから、ジーンズから、薄い煙が棚引く。
「……くだらねえ。絶対だの、信念だの、ただの錯覚だ。多元世界が平行して存在しているのが、その証拠さ。神とは、絶対的な存在じゃあない。全てにして、無だ。絶対神ではない、唯一神なのだ」
「世迷い事を!」
ドノヴァンは、薄く笑った。
「お別れだ、坊ちゃん。お前はせいぜい、この世界と心中すればいいさ。仲間同士で、あるいは異世界と、喰い合いながら楽しく暮らしてくれ」
ドノヴァンはそう言うと、素早く窓から中庭へ飛び降りた。
慌てて窓へ駆け寄るケイス。
「しまった……」
中庭は、敵を迎え撃とうとしている魔物の群れでごった返しており、ドノヴァンを特定することはもはや困難であった。
あんな奴に、この世界が利用されるのか。
ケイスは血がにじむほど拳を握ると、窓枠に大きく打ち付けた。
「副長。あと二十秒で、接敵します」
アイリスが疾走しながら、隣を駆けるマシューに報告した。
「よし、戦闘準備。後続のギルバートが到着する前に、進路を開く」
マシューは背負ったメイスとヒーターシールドを取り出すと、前方に構える。
装甲兵であるマシューは突撃兵のアイリスよりも、本来の移動速度には劣る。
しかし、早朝にルーシーに施してもらった脚の強化によって、いまやアイリスとの並走までも可能になっていた。
ギルバートについては脚の強化は行っておらず、彼らからは後方にずいぶんと離れてしまっている。
「しかし、やはり息が切れるな。歳はとりたくないもんだ」
マシューがこぼすと、
「いえ、副長。これは純粋に、両脚の酸素消費量が増大しているからです。脚は強化していても、心臓と肺は元のままですから。妙な表現ですが、戦いながら呼吸を整えるのが、よろしいかと」
「お前さん、簡単に言うなあ」
リザードマンの一隊が、もう目前に迫っていた。
「魔装具『Bウイング』、励起」
アイリスの両手のガントレット型装具と両足のブーツ型装具が、それぞれ金色の光を帯び始めた。
前方に、三匹のリザードマン。
全員が漆黒のレザーアーマーで統一されている。
リザードマン達はめいめいが前方に円形のラウンドシールドを並べて、防御態勢をとった。
三匹の横陣。
側方に回り込むのは不可能。
マシューは、内心で舌を巻いた。
デュカキスに近づけさせないつもりか。
よく訓練されているし、その忠誠心にも疑いがない。
アイリスが、静かにつぶやく。
「スターリングシルヴァーウイングを、使う」
アイリスの両腕の周囲の空間が、銀色に輝き出す。
魔装具「Bウイング」の、空間歪曲・凝集能力の発露だった。
真ん中の一匹に、時速四十二キロで接近。
眼前で跳躍し、盾を踏み台に、更にジャンプ。
六メートル八十センチの高みに達する。
驚愕しながら頭上を仰ぎ見る三匹。
アイリスは宙返りしながら、銀色に輝く左右の手刀を、側面を固めている二匹のリザードマンの頭上へと、正確に左右四十五度の角度で振り下ろした。
危険を感じた二匹は、とっさに頭にラウンドシールドを掲げて防御する。
アイリスの手先から伸びた銀色のエアカッターは、鋼鉄製の盾を貫通し、リザードマン達の頭部を切り裂いた。
そのまま一回転し、リザードマン達を飛び越して後方に着地する。
両脇の仲間が崩れ折れるのを目の当たりにした中央のリザードマンは、背後のアイリスを呆然と振り返った。
そこへ、マシューがメイスを後頭部に振り下ろす。
最後の一匹が、どうっと地面に倒れ伏した。
二人の前方には、破壊された正門と、それをふさぐように仁王立ちしているデュカキス。
マシューとアイリスを睨んでいるデュカキスの目は、隊員たちを倒された憤怒に彩られていた。
「すまない、副長、アイリス。ここからは、俺の出番だ」
後方からようやく二人に追い付いてきたギルバートが、巨大なウォーハンマーをゆっくりと構えた。
正門の城壁上にたどり着いたクゥシンは、眼下でいままさに、暗黒騎士と赤毛の重攻兵の死闘が始まろうとしているのを見た。
「例の分隊員たちか。ショートボブの女と黒人の副長は、魔装具持ちが確定。赤毛の大男の大槌も、恐らくは魔装具ね。デュカキス、無理しちゃって」
クゥシンは胸壁のそばにかがむと、投射魔法を使用するタイミングを計り始めた。