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第二五話 再会と別離

 ドノヴァンとローガが去った森は、葉ずれの音がわずかに聞こえてくるのみで、再び静まり返っている。

 しかし今のルーシーには、その静けさすら恐ろしく感じられた。


 目を閉じたヒューゴは、まるで眠っているように見える。

 しかし、その喉に開いたざくろのような傷口からは、赤い生命の流れと時間が、刻々と失われていた。


「落ち着け、私。思い出すんだ」


 ルーシーはヒューゴの頭を膝の上に乗せたまま、自分の両手とヒューゴの傷口を浄化する。


「急ぐものから。総頚動静脈。頚髄。第四から第六頸椎。食道。気管……」


 時間がない。

 右手と、左手。同時に複数の臓器を再生する。

 いくら治癒師だとはいえ、常人の技ではなかった。


 ルーシーの額に汗がにじむ。

 呼吸が荒くなる。


「くっ。間に合うの? 脳の血流が遮断されてから、どのくらい経過してるの? 脊髄神経も、果たしてどこまで周囲環境と適合できるか。末梢神経のようにはいかない……」


 断裂した頸動脈が再開通し、拍動を確認できた。

 頸椎の脱臼骨折も修復され、首の支持性も得られた。

 食道も気管の傷も、閉鎖できた。

 あとは筋と皮下組織、皮膚を修復すれば。


 そうして、ヒューゴの頸部損傷の治療が終了した。


 見た目には、何の痕跡もない。

 ヒューゴの胸は、ゆっくりと上下している。

 循環も、呼吸も、安定しているはず。


 しかし、ヒューゴは目を覚まさない。

 四肢も、ぴくりとも動かない。


 ルーシーは短期間で学んだ医学から、その力には限界があることを知っていた。

 たとえ、治癒魔法とのシンクロニシティを得たとしても。


 損傷した組織を修復するだけでは、本来不十分なのだ。

 臓器自体が単一細胞の集合体ではもちろんなく、その臓器同士も内分泌系、免疫系、神経系、脈管系、様々なネットワークを構築している。

 一度崩れた恒常性が、組織再生だけで完全に修復できると考えるのは、傲慢だった。


 ルーシーは疲労も濃いまま、ヒューゴの耳元に口を近づけてささやいた。


「隊長さん、治療終わったわよ。あなたはまだ、ここにいるのかな」


 隊長さんの記憶も、意識も、私の手の届かないところへ運ばれて。

 どこか知らないところで、誰か知らない人として、転生してしまったのか。


 ルーシーはヒューゴを両腕で抱えたまま、うなだれた。


 死ぬって、そういうことだ。

 誰かの記憶は、決して自分のものにはならない。

 誰かが、自分の記憶になるだけ。


 ルーシーにはそのことが、我慢できなかった。


 失いたくない。

 そんな結末、絶対認めない。


「いい加減起きなさいよ、馬鹿! まだやること、いっぱいあるでしょ! エミリーちゃんと会って、この世界を戦争から救って、それから……」


 ルーシーは、精一杯、欲張った。


「私と一緒に生きてよ、ヒューゴ」


 ルーシーは、彼女の隊長の名前を、初めて呼んだ。


 ヒューゴの唇が、かすかに動いた。


「……ルーシー?」


 もはや強さなど、彼女には必要なかった。


 ルーシーはヒューゴを抱き起すと、目を閉じて唇を重ねた。

 涙が、ルーシーの頬からヒューゴの頬へと伝う。


 ヒューゴも、いったん薄く開きかけた眼を、再び閉じた。

 涙の、唇の、熱さを感じる。


 俺は、生きているんだ。

 この熱さが、生きている証なんだ。


 お互いに身を預け合ったまま、時が静かに流れて行った。






 やがてヒューゴは再び薄く目を開けると、ルーシーの膝から頭をもたげ、起き上がった。


 ルーシーは、安堵した。


 よかった。

 手足、きちんと動いてる。


「ルーシー、君が治してくれたのか。俺は、ドノヴァンに?」


 ルーシーは、ヒューゴをやさしく見つめながら言った。


「あいつ、やっぱり強いわ、隊長さん。特殊能力っぽいの持っていないのに、あのスピード。魔法や魔装具じゃない分、厄介すぎるね」


 こんな当たり前の会話ができることが、ルーシーには何よりうれしかった。


 ヒューゴは喉をさすりながらつぶやいた。


「俺は、首をやられたらしいな。よくこんな、複雑な治療を」


 ルーシーは、首を左右に振った。


「出来ることを、やっただけ。後は、患者さん自身の体力次第だったわ」


 ヒューゴは、記憶の中を探った。


「君が俺を呼ぶ声が、聞こえた」


 え?

 まさか、一緒に生きて、ってやつ?


「そ、空耳じゃない? ほら、人間死にかけると、幻聴が聞こえたりするらしいし」


 赤くなりながらそっぽを向くルーシーを見て、ヒューゴはくっくと笑った。

 つられて、ルーシーも笑い出す。


 笑いながら、二人は再び唇を重ねた。






「えー、こほん」


 遠慮がちな咳払いが、少し離れた茂みの陰から聞こえた。


 え、うそ。

 あわてて顔を上げるルーシー。


「ごめんなさい、盗み見するつもりはなかったんですけれど。ルーシー姉」


「エミリーちゃん!」


 白いコートの上に羽織った、水色のケープ。

 頭にはいつもの、たけの低い毛皮の帽子。


「ルーシー、あの子は」


 言いかけて、ヒューゴは驚きのあまり絶句した。


 いたずらそうな黒い瞳の輝き。

 中学三年生になっても続けていた、ツインテール。


 容姿は異なっていても、間違えようがない。

 遺伝子が、記憶が、共鳴している。


「……絵美里か」


 エミリーは、にっこり笑った。


「お父さん、こっちの世界でも、あごひげ生やしてるんだ。わっかりやすいなあ。でもそれ、自分で思ってるほどかっこよくないんだよね」


 昔のままの、やりとり。


 ヒューゴは立ち上がると、エミリーと向き合った。


「あの朝、出かけるときに別れて以来だな」


 自転車の鍵をさんざん探して、慌てて出て行った彼女の後ろ姿が、まるで昨日の事のようにヒューゴの脳裏をよぎる。


「うん」


 エミリーはヒューゴを見て、まぶしそうに笑った。


「元気だったか、というのもおかしな話だが。この世界で、その、うまくやってるのか?」


「治癒師って仕事もあるし、とりあえず、食べることには困ってない」


「そうか。お前、治癒師に転生を」


「お父さんは、たしか装甲兵だったわね。まあ、優柔不断なお父さんには、悪くない仕事かな。ねえ、ルーシー姉」


 ヒューゴがルーシーを振り返る。


「え? お前たち、知り合いだったのか?」


「ムーングロウの街で、怪我した人たちの治療を助けてくれたの。娘さん、凄腕よ」


 と、突然にエミリーの目がすうっと細められる。


「お父さん。私に、何か言いたいことがあるんじゃないの」


 それはもちろん、ある。

 お前がいなくなってから一年間、それこそ尽きないほどに。


「絵美里。お前、元の世界に戻りたくないか? お前さえ望めば、ユークロニアの元の身体に戻れる。俺も、一緒に」


「ふーん、素敵な話ね。それで?」


「お前はどうしたい? あんな形で突然死んだんだ、やり残したこととか……」


 エミリーは、大げさにため息をついた。


「ルーシー姉にも言ったけれど、お父さんってほんと、救い難い馬鹿だわ」


 彼女の声は、氷のように冷たい。


「お父さん。私がお願いしますって言うなんて、本気で思っていたわけじゃないでしょうね。もしそうなら、絶縁だわ」


「……」


「お父さん、私の身体を保存してもらうかわりに、治癒師を連れてくるって、取引したんでしょ。それでよりによって、ルーシー姉を誘うなんて」


「……お前、そこまで知っているのか」


 エミリーは、ヒューゴを鋭くにらんだ。


「じゃあ、もし私がユークロニアに転生して元の生活に戻りたいって言ったら、お父さんはどうするの? ルーシー姉を連れて行って、奴らに渡すの?」


 それは。


「考えてもみてよ。ルーシー姉を犠牲にして、それで私たちが、平気な顔をして幸せに暮らせるはずがないじゃない。私、ルーシー姉を悲しませてまで、笑いたくなんかない」


 エミリーは、寂しい微笑を浮かべた。


「突然お父さんと別れることになったのは悲しいけれど、私は今、この世界で生きてる。人間が勝手に運命を巻き戻しちゃ、いけないと思うの。一度きりの人生だから、精いっぱい生きるんじゃない」


 エミリーは、目を閉じた。

 自らの思いを、振り払うように。


「転生なんかに惑わされないで、お父さん。もう答え、出てるんでしょ? 一番大切なものなら、すぐそばにあるじゃない」


 ヒューゴは、振り返った。


 少し離れたところで、ルーシーが黙って彼を見ていた。


 泣くのでもなく。

 怒るのでもなく。


 ただ、寂しそうに立っていた。

 雨に打たれた、迷子のように。


「大丈夫。ルーシー姉、すごくいい人だもん。お母さんだって、ルーシー姉ならきっと許してくれるわよ。いつまでも男やもめなんて、私もお母さんも心配でしょうがないし」


 ルーシーは、はっとした。


 男やもめ。

 隊長さん、奥さん、亡くしてたんだ。


 エミリーはルーシーの方を見ると、両手を合わせてお願いするしぐさをして、明るく笑った。


「そういうわけで父を頼みます、ルーシー姉。父は甘党で、ルーシー姉はブラックだけれど、二人とも似てるところあるし、きっとうまくいくわ」


 ひときわ大きな風が森の中を吹き抜け、ざあっと滝のような葉ずれの音が響いた。


「絵美里。お前は、これからどうするんだ」


 ヒューゴは、やっとそれだけを尋ねた。

 エミリーは、寂しそうに笑った。


「梯絵美里も、梯彪吾も、ずっと前に死んでるわ。ここにいるのは、エミリー・カケハシと、ヒューゴ・カケハシ。フリーの治癒師と、装甲兵の分隊長よ。ただ、それだけ」


「……そうだな。そうだった」


「それじゃあ、私、もう行くね。お健やかに、あごひげの分隊長さん」


 エミリーは、ヒューゴに背中を向けた。


 ヒューゴはエミリーに駆け寄ろうとして、踏みとどまった。

 すでに訪れていたはずの、別れだった。


 エミリーは立ち去ろうとした足を止めると、鼻声で言った。


「……突然でお別れも言えなかったから、会いに来てくれて、うれしかった」


 エミリーの頬を、涙が伝った。

 ヒューゴには、見えない。


「ありがとう。さようなら、お父さん」






 森を抜けたところで、腕を組んで木にもたれていたローガが、エミリーに声をかけた。


「これで良かったのか。おそらく、もう二度と会えんぞ」


「うん。また話すことができただけでも、十分」


「分かった」


 ローガはそれだけ言うと、黙って遠くを見た。

 エミリーも隣に立つと、やはり遠くを見つめる。


「ところで、あなたはこれからどうするの、ウルフファング。やっぱり、ドノヴァンをぶっ殺しに行くの?」


「そうしたいところだがな。どうやら、静止期に入りつつあるらしい」


 ローガは、苦虫をかみつぶしたような顔をした。


「嘘、もうGゼロ期なの。こんな大切な時に。何ともあなたらしく、間の悪い」


「こればかりは、自分ではどうにもならん。奴を殺すのは、一年後ってことになりそうだ」


「何言ってんのよ。その頃には、とっくに決着がついてるって」


 ローガは、口をゆがめて笑った。


「ふん、それは残念なことだ。まあ、くだらないことを考える奴はこれからも出てくるさ。その時は俺が、満を持して登場ってやつだ」


 エミリーは、ぷっと噴き出した。


「悪ぶっちゃっても、隠し切れないなあ。さすがは、水戸黄門野郎ね」


「? だれだ、そりゃ」


「ユークロニアに存在した、悪人がはびこったときに現れる、デウス・エクス・マキナの老人」


「老人扱いか、いけてねえな」


 ローガは大声で笑うと、エミリーの肩をぽんと叩いた。


「一年間、俺の身体のメンテ、頼めるか?」


 エミリーは、値踏みするようにローガを頭のてっぺんからつま先まで見た。


「あら、私、高いわよ。フリーの治癒師なんて、この『大陸』にはそうざらにいないから」


 エミリーのシビアな交渉に、さすがのローガも鼻白んだ。


「参ったな。出世払い、ってのはどうだ」


「何が出世よ。フリーターのくせに」


 エミリーは、ローガの背を小突いた。






 わたしは、元気でやっています。

 お父さんも、元気でね。


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