第一九話 距離
「お待たせー、隊長さん」
ヒューゴのいる天幕をめくって、ルーシーが入ってきた。
カンテラの灯りが、ゆらめく二人の影を映す。
「いや、特に待っていたわけではないが」
「嘘、待ってたでしょ。隠さない、隠さない」
見透かしたように、いたずらっぽく笑うルーシー。
いでたちは、いつもの布製のアンダーとスリムパンツ。
もう少し、警戒してくれてもよさそうなものだが。
ヒューゴは目を泳がせながら、努めて冷静に言った。
「明日は街に行って、負傷者の治療を頼めるか? みんなが護衛についてくれるはずだが」
「もちよ、それが私のお仕事だもん。でも、護衛なんて必要かしら。シーカーの軍勢って、いったん退却したんでしょ? 何も残ってない街を占領する意味なんて、ないものね」
「治癒魔法、独りでも使えるか?」
ルーシーはヒューゴの隣に座り込むと、膝を抱えてにっこりと笑った。
オレンジ色の灯りが彼女の肌を健康的な褐色に染めて、ヒューゴの目には眩しい。
「多分、大丈夫。難しい症例は、大隊の通信兵さんを捕まえてエリックさんに連絡するわ。明日はエリックさんと二人で、グレース少佐のところに行くんでしょ?」
「いや、クリスティンも一緒だから三人だ。それじゃあ、治療は任せていいな」
少しの間、沈黙があった。
「あのさ」
「あの」
二人が同時に、口を開きかける。
「先にいいよ、ルーシー」
ヒューゴは、熱いコーヒーが入ったマグカップを手渡した。
「あ、えっと、ありがと」
ルーシーはコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら、ぽつりと言った。
「隊長さん、みんなには話さなかったね。本当は、元の世界に戻れるってこと」
自分のコーヒーを口に運ぼうとしたヒューゴの手が、止まった。
「……どうしてわかった?」
「ローガが言ってたじゃない。私がいなきゃ、転生できないって。だったら私がいれば、転生できるってことだよね?」
そうだったな。
ルーシーが、あの男の言葉の意味に気付かないはずがない。
「……さっき、異世界転生に必要な因子と、記憶情報を継承するための因子の、二つがあるって話、したよな?」
「異世界情報DNAと、記憶継承用パスワードRNAね。あのドノヴァンが言ってた通りだわ」
ヒューゴは、今度はコーヒーを取り落としかけた。
彼女、どうして遺伝子の存在を知ってるんだ?
「晩ご飯の後に少し時間があったから、分子遺伝医学、読んでみた。凄いね。人間の体の中に、設計図があるなんて」
すでに新しい知識を仕入れていたルーシーは、してやったりといった表情で満足そうに笑っている。
俺が覚書で書いた遺伝学のメモと、ドノヴァンの短いつぶやきだけで、異世界情報がDNAに含まれていることや、記憶継承能力がRNA支配であることを理解するなんて。
規格外すぎる。
「あー、驚いてるね? 美人で料理上手で、おまけに天才なんだもん。いまさらー」
ルーシーは照れながら、ヒューゴの背中をばんばんと叩いた。
天才はおまけなのか。
ヒューゴは気を取り直して続けた。
「その二つの遺伝子構造が、ユークロニアで最近になって同定されたんだ。ただしその構造式がどこからもたらされたのかは、今のところ不明だが」
「不明って……」
「もちろん、最高機密さ。そしてユークロニアでは、ただちに実験が始まった。その二つの遺伝子を人間の細胞に組み込む実験だ。しかし、それはいまだに失敗し続けている。これも理由はわからないが、拒絶反応が出て細胞が自然死してしまうんだ。だからユークロニアでは、スペシャルを人工的に創造する技術は、まだ確立していない」
ふうん、とルーシーがうなずいた。
「そっか。じゃあ、隊長さんがスペシャルなのは、全くの偶然なんだね」
「その通りだ。一方でこちらの世界では、これらの遺伝子構造自体が解明されていないらしい。ドノヴァンが、ユークロニアには戻れないと言っていたのが、その証拠だ。だから、この世界においてもやはりスペシャルを創造する技術は、確立していない」
ルーシーは少しためらった後、上目使いでヒューゴにたずねた。
「じゃあ、私が転生に必要な理由は?」
「恐らくこの世界の治癒魔法なら、拒絶反応なく遺伝子を組み込むことができる」
「……嘘」
「俺は、ユークロニアへ転生する世界情報DNAと、記憶継承用パスワードRNAの塩基配列を、それぞれ記憶してきた。それらを君の治癒魔法で俺の細胞に組み込んでもらえれば、戻れる」
「そっか。隊長さんの持っているユークロニアの遺伝子情報と、この世界の治癒魔法が組み合わされば、自由に転生できるんだ……」
ルーシーにも、事の重大さがようやく呑み込めてきた。
ただ単に、転生して他世界を侵略できる、とかいうレベルじゃない。
記憶を持ったまま、転生を繰り返せるという事実。
それは、不老不死をも意味するのではないか?
ルーシーは、大きく深呼吸をした。
「私たちが危険な組み合わせだってことは、わかったわ。じゃあ、もう一つの本題、聞いてもいいかな?」
ヒューゴは、覚悟を決めた。
来るべき時が来た、それだけのことだ。
「俺がこの世界に戦争をもたらす、って奴だろう?」
「言いたく、ないでしょ?」
私だって聞きたくない。
けれど。
ヒューゴはやおら立ち上がると、ルーシーに背を向けた。
その表情は、彼女には見えない。
「ルーシー。俺の本当の任務は、『クレイドル』を破壊することじゃない。俺の属していたユークロニアの組織も、それが俺一人で出来るとは考えていないだろう」
「じゃあ、隊長さんの本当の任務って、何?」
「治癒魔法を、ユークロニアに持ち帰ることだ」
ルーシーは、息をのんだ。
「この世界で、俺自身と治癒師に例の二つの遺伝子を組み込み、ユークロニアに戻る。そして持ち帰った治癒魔法でスペシャルを量産し、他世界に侵略する。これが、ユークロニアのお偉方の筋書きなんだ」
「私を、ユークロニアに連れて行くって事? 異世界間での戦争を始めるために?」
「そうだ。それが、俺の任務だ」
沈黙が、天幕の中を支配した。
隊長さん。
何言ってるのよ。
なぜ、自分に嘘をつくのよ。
ルーシーは立ち上がると、ヒューゴを無理やりに振り向かせ、彼の肩をつかんで強く揺さぶった。
二つのマグカップが甲高い音を立てて、地面に転がる。
「それって、本当に隊長さんの本心なの? 私がうんって言わないことぐらい、隊長さんだって分かってるんでしょ? どうして、そんな任務に従ってるのよ!」
ヒューゴは、ルーシーに答えてやることができなかった。
彼は、目をきつく閉じた。
ルーシーのまっすぐな瞳を、正視することができなかった。
ルーシーは目に涙を浮かべると、両の腕で、黙っているヒューゴを強く抱きしめた。
「どうしていつも、大切なことを話してくれないの? そんなの、優しさじゃあないよ。苦しんだって、迷ったって、隊長さんと一緒なら、私……」
ルーシーは、それきり言葉を飲み込んだまま、うつむいた。
隊長さんの体温まで、感じられるのに。
どうしようもなく、遠い。
寂しい。
ヒューゴは目を閉じたまま、動かなかった。
「……ルーシー。少し、時間をくれないか? その時が来れば、必ず話すから。約束だ」
ヒューゴはようやく、それだけの言葉を絞り出した。
ルーシーは顔を上げると、涙目のまま笑顔を作った。
「もう、あいまいな約束。その時ってのが死ぬ間際だった、なんて落ちはいやよ」
「すまない」
ヒューゴは目を開くと、ルーシーの視線を受け止めた。
やはり、俺は最低だ。
女の子一人安心させることもできないで、何が医師だ。
ルーシーはヒューゴから腕をほどくと、探るようにたずねた。
「謝罪の気持ちがあるのなら、おわびに私からのお願い、きいてくれるかな?」
「ああ」
ヒューゴは罪の意識から、うっかり内容も確認せずに承諾してしまっていた。
「じゃあ。私、今夜は隊長さんに添い寝するから、そのつもりで」
「わかっ……おい!」
変人だとは分かっていたが、言動があまりに唐突すぎる。
「言っとくけれど、変なことしたら大声出しちゃうからね。ウィル君がすっ飛んできて、『達人』と『抜群』で、隊長さん切り刻まれちゃうんだから」
添い寝だけで、充分変だろうが。
ルーシーはさっさとスリムパンツを脱いで下着姿になると、毛布に滑り込んでヒューゴを手招きした。
「たまにはこういうのもいいじゃない。修学旅行だと思って」
どんな倫理感の欠如した修学旅行だ。
「それじゃ隊長さん、お休みー」
ルーシーが、カンテラを吹き消した。
ヒューゴは、ため息をついた。
なるようになれだ。
装備を外すと、ルーシーのいる毛布に自分ももぐりこむ。
暗く狭い天幕の下、二人の腕が、脚が触れ合った。
暗闇の中で、ルーシーがぽつりと言った。
「私ね、両親がいなくなったあと、独りで生きてきた。ずっと、怖いものなんてないと思い込んできた。だけどね、あのローガが言ってたの。それは自分が壊れないための、防御反応だって」
ヒューゴは、黙って聞いていた。
「だけど今、私にも怖いものができた。私、隊長さんがいなくなることが怖いの。きっと私、これまでよりずっと弱くなってる。だけど、そんな今までと違う自分が、すごく大切に思えるの」
ヒューゴは、ルーシーに触れたいという衝動を抑えきれなかった。
「髪だけで大声は出さないでくれよ、ルーシー」
指で、ルーシーの長い髪に、そっと触れる。
ルーシーは目を閉じて、ヒューゴのなすがままに任せた。
そして、いつしか二人は眠りに落ちていった。
古城の中で、一番高い尖塔。
その一室で、白いローブに身を包んだ初老の男がテーブルに向っていた。
比較的質素な造りのその部屋に、ノックの音が響き渡る。
「開いているよ、入りなさい」
とりたてて警戒することもなく、部屋の主は来訪者を招き入れた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、まだ若い青年だ。
ざっくりとした黒い髪に、茶色の瞳。
切れ長の目は軽く伏せられ、年齢に似合わない思慮深さを感じさせる。
よく磨かれた白いスケイルメイルに身を包んでいるが、二振りの長剣を腰の背に互い違いに差しているのが、ひときわ目を引いた。
その所作はきびきびとしており、隙といったものはまずうかがえない。
「ケイスです。お仕事中申し訳ありません、代表」
代表と呼ばれたローブの男は、読んでいた書物を閉じると顔を上げた。
「この部屋では父でよいが、ケイス」
「普段から代表とお呼びしないと、公の場でうっかり父さんと呼びかけそうになりますので」
ケイスと呼ばれた青年は、快活に笑った。
「戦況をご報告いたします、サムラック代表」
表情を引き締めると、ケイスは直立不動の姿勢で報告を始めた。
「海岸線に上陸したミルダール王国の二個大隊のうち、北岸に上陸した第一海兵大隊は、ベヒモスとサラマンダーを中心とした我が軍により、ほぼ全員が死亡」
シーカーの代表者であるサムラックは、戦勝の報告をとりたてて喜ぶでもなく、ただうなずくのみであった。
「王国は、彼らの退却を許さなんだか。機密保持のために見捨てられた兵士達こそ、いい面の皮だな。して、南岸に上陸した第二海兵大隊は?」
「ムーングロウの街に誘い込んだところで、ドノヴァンが魔法で壊滅的な打撃を与えました。残兵はわずか三百程しか残っておりません。ただし」
つかの間言いよどんだケイスに、サムラックは眉をひそめた。
「ただし?」
「全滅を狙ったデュカキス司令と配下のリザードマン軍団にそこそこの損害が出たとのことで、一時郊外に撤退し再編を行っております。それと、ドノヴァン子飼いの魔導士四人が倒されたと」
サムラックはペンを置くと、椅子に座り直した。
「魔導士が一度に四人も? 敵の大隊にも魔導士が?」
「いえ。ドノヴァンの話では、魔装具だと」
ケイスは、自分の長剣をちらりと見た。
「……魔装具。狙いは、わしらの首か」
「そこまではわかりません。ドノヴァンは敵のスペシャルとも接触したようですが、そのスペシャルは、なぜか我々の仲間になることを拒否したと」
それを聞いたサムラックは、くっくと笑った。
「ドノヴァンにかかれば、まとまる話もまとまらんからな。あの男は、勧誘などという任務には最も向いとらんよ」
ケイスは、表情を険しくした。
「代表。私は、ドノヴァンこそもっとも警戒すべき男だと思います。あの男は、自分の利益しか考えていない」
サムラックはうなずいたが、その表情には陰りが含まれていた。
「だが、我々の世界を守るためには、あの男の知識が必要だ。お前が納得がいかない事は十分わかっているが、いまは曲げて呑んでくれぬか。わしは、お前やお前の子供の代に未来を残す義務がある。そのためなら、利用できるものはすべて利用する」
必要悪。
あるいは、毒を以て毒を制す、か。
ケイスはひざまずいて、こうべを垂れた。
「私も微力ながら、最善を尽くします。父上」
「おい、起きろ」
ううん。
もう少し。
ごいん。
頭部に鈍い衝撃を感じ、ルーシーはあたりを見回した。
天幕越しの空はまだ暗いが、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
「ええっと、ここは……た、隊長さん!?」
下着姿のルーシーは、あわてて毛布を体に巻き付ける。
「馬鹿、声が大きい。まだ早朝だが、早くここを出て行かないと、誰かに目撃されるぞ」
ヒューゴは、すでに革鎧以外の装備を着用し終えていた。
「そうか。私、隊長さんのところに泊まってたんだ」
「ようやく思い出したか。毎回このパターンだが、今日は時間がないので、手早く起こさせてもらった」
ルーシーは顔を赤くすると、上目使いにヒューゴを見上げた。
「思い出した。……私、初めてだったんだけど。その……どうだった?」
思い出していなかった。
のみならず、またもや記憶が改ざんされていた。
初めて、とか言うな。
「お前は、頭痛で俺を殺したいのか。いいから、早く着替えて自分の天幕に戻れ」
「これが朝チュンかあ。私も大人になったなあ。いやあ、感慨深いなー」
「早く!」
「はいはい、また朝ごはんでね」
ルーシーはそそくさと服を着ると、手をひらひらとふって天幕の外へと姿を消した。
完全に爆睡してやがったな。
こっちは、ほとんど眠れなかったというのに。
ヒューゴは苦笑すると、顔を洗いに川の方へと降りて行った。
異世界の奴ら、ごきげんよう。俺の事は、ローガとでも呼んでくれ。
まったく、あのお嬢ちゃんには困らせられるぜ。恋は盲目、とはよく言ったもんだ。
まあ俺は、他人を利用しようなんてふざけた奴らを、片っ端からつぶすだけだがな。
そんじゃ、第二十話「決意」も楽しみにしてくれ。
それにしても医師ってのは、ろくな奴がいねえなあ。