第一六話 白金のネックレス
ウィルとハリソンは、森の中を駆けていた。
二人の落ち葉を踏みしめる足音だけが、規則正しく響く。
夜はほぼ明け、周囲は明るさを取り戻しつつあった。
「ウィル、西の丘まであと少しだ。俺より君の方が足が速い、先行するか?」
ハリソンが長い白髪をなびかせながら、息も切らさずにたずねた。
彼のやや前方を走っていたウィルは、振り向くこともなく答える。
「いえ、単独では伏兵に対処できません。このまま一緒に進みましょう」
「了解だ」
的確な判断だ。
ウィルは、いい指揮官になるだろう。
もっとも、ウィルが軍人として生きていくことを、あの隊長は好ましくは思わないだろうが。
そんなことを考えながら走っていたハリソンは、突然立ち止まると、聞き耳を立てた。
確かに、森の中で悲鳴が聞こえた。
聞き覚えのある、少女の声。
やや遅れてウィルも急停止すると、耳を澄ます。
「ハリソンさん。あの声は」
「……クリスティンだ。間違いない」
そういえば、このあたりの森の景色には見覚えがある。
人狼の少女、クリスティンの小屋の近くだ。
青ざめたウィルは、息せき切ってハリソンを急かした。
「ハリソンさん、行きましょう。彼女、襲われているかも」
その通りだ。ただ事ではない。
クリスティン。
満月を背にした、銀色の妖精。
つかの間、彼女と出会った時の幻のような光景を思い出していたハリソンは、しかし苦渋に満ちた表情で、しぼり出すように言った。
「ウィル、俺達は軍人だ。今の俺達には、魔導士を倒すという重要な任務がある。こうしている間にも、仲間の兵士達が火球で焼かれているんだ」
ハリソンの言葉を聞いたウイルは、歯ぎしりした。
分かっているさ、そんなこと。
でも、ルーシーさんから聞いたんだ。
あの子は、あなたを必要としている。
あなただって、きっと。
少年は血相を変えると、ハリソンに怒鳴った。
「何言ってるんですか。目の前の人を救うこともできないで、世界を善くすることなんてできるはずがない。あなたが行かなければ、僕が行きます。邪魔です、そこをどいてください」
ハリソンは後悔した。
またしても、ウィルに言いたくないことを言わせてしまった。
「すまない。俺は、臆病な男だ。クリスティンを助けに行こう。手伝ってくれるか、ウィル」
ウィルは、安心したように笑った。
「僕の周りは素直じゃない人たちばかりだから、今更気にしていませんよ。魔導士は、隊長たちがきっと何とかしてくれます。さあ、急ぎましょう」
ウィルは駆け出しながら、額の傷にそっと触れた。
素直じゃないなんて言っちゃって。
他人事じゃあ、ないよなあ。
ルーシーの笑顔が、ウィルの脳裏をちらりとよぎった。
「何ですか、あなた達は。ここには私以外、誰もいません!」
大勢の兵士に囲まれながら、クリスティンは一歩も引かなかった。
澄んだ青い瞳が、怒りに燃えている。
「だから、お前が怪物の手先なんだろ? 町の住民の中に、お前が満月の夜に狼になるところを見たっていう奴がいるんだ」
クリスティンは目の前の兵士をにらみつけながら、ぐっと唇をかんだ。
兵士たちの鎧には、鷹の紋章が刻印されている。
王国軍の兵士だった。
「黙ってんのは、本当だってことだよな。いま街が奇襲を受けているのも、お前たちの手引きがあったからじゃないのか?」
「そんな、誤解です!」
「だとしても、お前が怪物であることには違いない。殺られる前に、殺らせてもらう」
囲んでいた兵士の一人が、下卑た笑いを浮かべた。
「殺るまえに、やっちまうってのはどうだ? もったいないくらいのかわい子ちゃんだぜ」
「そうだな。人間と同じ反応かどうか、じっくり確かめねえとな」
じりっと後ろに下がったクリスティンの犬歯が、ぐぐっと伸びる。
ワーウルフを含むライカンスロープと呼ばれる獣人は、生命の危機を感じれば、自分の意志でも短時間の変身が可能である。
兵士の一人が息を荒げながら、クリスティンの胸元に手を伸ばす。
彼女は身をひるがえすと、その伸びた爪で兵士の頬をさっとひっかいた。
ぎゃっと悲鳴を上げた男の顔の爪痕から、ゆっくりと血がしたたる。
「……貴様ぁ。やはり正体を現したな、人間の敵が!」
兵士は、持っていた盾でクリスティンの横顔を張った。
クリスティンの口の端から血が飛び、草むらにどうっと倒れこむ。
「おいおい、こいつも血は赤だぜ。俺たちと同じ色とは、むかつくな」
クリスティンは地面に突っ伏したまま、小さくつぶやいた。
両手が、細かく震えている。
「どうして、こんな……あなた方は、私が憎いのですか」
兵士は無表情に、ロングソードを抜き放った。
「別に。異物を排除するのに、理由が必要か?」
その時、兵士の背後から別の低い声が響いた。
「その通りだ。ごみを捨てるのに、何のためらいもあろうはずがない」
振り向いた兵士の顔面に、鋼鉄のこぶしが叩き込まれた。
仰向けに倒れた兵士に馬乗りになった全身鎧の男が、二度三度と鉄拳を叩き込み続ける。
兜ごと原形をとどめない顔面となった兵士は、そのまま二度と動くことはなかった。
血のりの付いた小手をぶるんと振るうと、男はゆっくりと周囲を見回した。
「ハリソンさん……」
クリスティンが信じられないという顔で、彼女をかばうように背中を向けているハリソンを見上げた。
頬を殴られても見せなかった涙が、彼女の目にわき上がってくる。
兵士たちの間に、動揺が広がった。
「お、お前、王国軍の兵士だろ? 仲間のお前が、何だって俺たちにこんな真似を」
「仲間だと? 俺とお前らに、何の共通項がある」
ハリソンは、話すのも汚らわしいとでもいうように吐き捨てた。
「抑圧され差別される者の気持ちなど、お前たちには永久に理解できまい。他人を見下すことでしか自分を確認できない、クズどもが」
こおっと息を吐くと、ハリソンは背に吊った大剣を抜き放った。
波打った両刃から放たれる異様な殺気を感じ取った兵士たちが、ハリソンの周囲から一斉に逃れようとする。
「魔装具『デスブリンガー』、励起」
クリスティンが、あわてて立ち上がろうとする。
「ハリソンさん、いけない!」
フランベルジュの刀身が、金色に輝き出した。
「……必殺、旋風剣!」
突如巻き起こった剣圧にクリスティンは顔を上げることもできず、地面に押し付けられたまま動くこともかなわない。
「で、やああっ!」
ハリソンを中心に円を描いたフランベルジュ型魔装具「デスブリンガー」は、その軌跡に存在していたすべての物体を、刃の厚みだけ完全に削り取った。
兵士も、大木も、空間までも、両断される。
一瞬の後、すべての固体は分割され、液体は飛散し、気体は何事もなく再び混じり合った。
ウィルは、ただ成り行きを見守ることしかできなかった。
それほどまでに、ハリソンの怒りはすさまじかった。
クリスティンはようやく立ち上がると、ハリソンの前に回り、彼の顔を正面から見つめた。
ハリソンの目は、限りなく暗かった。
「これが俺達、『島』の人間の本性だ。人間たちは、自分たちの王国でも、この『大陸』でも、愚かなことを繰り返している。俺はいっその事、人間など滅びればいいとさえ思う」
イッチェル議長のかつての言葉が、ハリソンの頭の中でこだました。
人間の、業。
ハリソンはやるせない表情で血のりの付いた小手を放り投げると、その大きな手のひらで、クリスティンの口元を優しくぬぐった。
「怖い思いをさせて、すまなかった。俺たち人間を、許してくれとは言わない。いずれ人間は互いを食い合い、自滅するだろう」
クリスティンは黙ってハリソンを見ていたが、やがて怒ったように言った。
「ハリソンさん。私は、そんなお話を聞きたかったんじゃありません。あなたは人狼という種族が哀れだから、人間が憎いから、私を助けてくれたのですか?」
ハリソンは、虚を突かれた。
「……俺は、君を助けたかった。それだけだ」
「だったら、誰かを憎んだりするのは、もうやめましょう。ハリソンさんの優しさ、私にはそれだけで十分です」
そしてクリスティンは、両の腕をハリソンに回した。
「あはは。身長が違いすぎて、腰しか抱けません。でも私、まだまだ成長期ですから、もう少し大きくなりますよー。楽しみが、増えましたか?」
ハリソンはとまどった。
伝わるはずのないぬくもりが、コンポジット・アーマー越しに感じられる。
クリスティンは目を閉じてハリソンの胴にしばらく頬を当てていたが、ゆっくりと離れた。
「ごめんなさい。私のせいで、同族殺しの汚名を着せてしまいました。これから、どうするんですか?」
「分からない。だが、もう分隊にはいられないな」
言葉とは裏腹に、ハリソンの顔は明るく晴れていた。
迷っていた今までの自分が、とるに足らないものに思えた。
「ハリソンさん、そんなことはありません! ヒューゴさんも、グレース少佐も、理由を話せばきっとわかってくれます」
ウィルが珍しく狼狽している。
ウィルが言ってくれていることは事実だろう、とハリソンは思った。
しかし、彼は首を横に振った。
「ありがとう、ウィル。だが、しばらくは身を隠して、色々なものを見てみようと思う。この『大陸』について、そして何より俺自身について、少し考えてみたいんだ」
ウィルはもはや、ハリソンを引き留めることができないのを悟った。
結局。
人は、自分で自分の道を探すしかないのだ。
そしてそれは、誰にも奪うことはできない。
「それじゃあ、私も一緒に」
クリスティンが、能天気に言った。
その言葉を予想していたのだろう、ハリソンは厳しく拒絶する。
「君は、だめだ」
「どうしてですかあ。料理が、下手だからですか」
ハリソンは、思わず噴き出した。
再会して初めて、クリスティンに見せた笑顔だった。
「よくわかってるな、その通りだ。腹痛で行き倒れになっては、かなわないからな。治癒師殿に、料理をうんと習うがいい。ウィル、クリスティンの事を頼めるか?」
「……わかりました、ハリソンさんの依頼なら」
クリスティンを危険にさらしたくない、というハリソンの気持ちが、ウィルには痛いほどわかった。
クリスティンは、そんなウィルをじろりと見た。
「え。君、子供じゃない。ハリソンさんのそばにいた方が、絶対安全」
「何言ってるの。君、僕と同じくらいの年だろ? どうしてそんなに、上から目線かなあ」
ウィルとそんなやり取りをしつつも、クリスティンにはわかっていた。
今のハリソンには、一人の時間が必要だ。
そして、必ず再会できる。
クリスティンは、首にかけていた水晶の付いた白金のネックレスを外すと、ハリソンにかがむように言った。
言われたとおりに頭を低くしたハリソンに、自分のネックレスをかける。
「私の部族のお守りです。父のものでしたが、お預けします」
「君の、父君の……」
「私の父は、戦争で死にました。それはそれは、最強のワーウルフだったんですよ」
ハリソンは目を閉じた。
クリスティンは何も言わないが、彼女の父は、恐らく人間との戦いの中で倒れたのだろう。
父を人間に殺されてさえ、同じ人間の俺を、受け入れてくれている。
ハリソンはゆっくりと目を開けると、輝くネックレスを握る。
「確かに、預かった。命に代えても、必ず返しに来る」
ハリソンは、クリスティンの美しい銀髪に、一度だけそっと触れた。
ハリソンは厳しい顔つきに戻ると、ウィルに向き直った。
「すまない、ウィル。クリスティンと、そして隊長の事を頼む。隊長たちは、もう西の丘にたどり着いているかもしれない。俺はせめて、疎開した街の人々に被害が及ばないよう、村々を訪れてみる」
ウィルも、内心では気をもんでいた。
西の丘。
魔導士だけとは思えない。
必ず、指揮をしている奴がいる。
「分かりました、ハリソンさん。……また、会えますよね」
「俺と君の目的地が同じであれば、必ず」
クリスティンも、精いっぱいの笑顔を作った。
「ハリソンさん。いつか、私の部族の族長に会ってくださいね。ちゃんと紹介しないと」
ハリソンは、一瞬困った顔をした。
「ハリソンさん、着々と既成事実を固められてますね。うらやましいなあ」
「おいおい、ウィル」
二人は顔を見合わせると、くっくと笑い合った。
「それじゃ。行くよ、クリスティン。少し走るけれど、大丈夫?」
「私、狼ですよ。それに変身しなくても、脚には自信があります」
「その意気だ。なるべく早く、隊長たちに合流してやってくれ」
三人はうなずき合うと、それぞれの方向へと駆け出した。
こんばんは、クリスティンです。
なんとなんと、ハリソンさんが助けに来てくれました!
もう会えないかも、なんて思ってましたけれど、窮すれば通ず、ですね。
再びしばしのお別れですが、私、ちょっと期待しちゃいます!
それでは、第一七話「無世界主義者」で。
ルーシーさんにも、早く会いたいなあ。




