第一一話 狼の少女
水辺に降りてきたその獣は、川で喉をうるおすと空を見上げた。
銀色の美しい体毛が、そよ風に揺れる。
狼であった。
夜明け前。満月が今まさに西の空に沈む、その時。
獣の四肢の体毛は徐々に薄くなり、頭部の毛は逆に直毛となって長く伸びた。
歯が、爪が、骨格が、あり得ない速度で変化していく。
前足で軽く地面を押すと、ついには後ろ脚だけでまっすぐに立ち上がる。
喉をそらして天を仰ぎ見たその表情は、いつしか若い人間の娘のそれへと変わっていた。
少女は静かに目を開けると、かたわらに用意しておいた衣服をまとう。
「ふう。月に一度だけなんだけれど、やっぱり面倒よね。帰ったら、ひと眠りしよ」
川辺から土手を登りかけて、娘はぎくっとしたように立ち止まった。
上から、誰かが見ている。
少女の視線に気付いたのであろうか、その人影は大胆にも彼女の方へと降りてくると、意外なほどの丁寧さで声をかけてきた。
「失礼した。怪しいものではない」
背の高い、男の兵士だった。
娘は返答に窮した。
「えっと。フルアーマーでしかも背中にのこぎりみたいな大剣を背負った銀髪長髪のハンサムさんが早朝に現れて、怪しくないとでも」
男はおやと頭をかきながら、しげしげと自分の風体を確認する。
「ん。やはりフランベルジュではなく、通常のロングソードの方が威圧感が少なかったか。これは私としたことが、うかつだった」
うーん。
この人、ずれてる。
「ところで、あの……見ました?」
それを聞いた不審者、もとい重攻兵ハリソンは、顔を赤くして答えた。
「い、いや。暗くて、かろうじて女性だとわかった程度だ。ほぼ見ていない、本当だ」
「……女性だとわかったって、身体、しっかり見てるじゃないですか。いや、裸がどうとかじゃなくて。私が変身したところ、見ました?」
ハリソンは胸をなでおろした。
「なんだ、そのことか。そのことならすまない、見てしまった。君は、ワーウルフなのだな?」
なんだ、って。
そこは、あっさりスルーしちゃうんだ。
変わった人。
「ところで君に一つ、訊きたいことがある。ムーングロウの街に忍び込む方法が、あるかな」
「え。こんな時間にそんなこと、訊きに来るなんて。あなた、最近街で噂になっている、『島』からきた兵隊さんですね?」
ハリソンが驚いて訊き返した。
「ほう、君は鋭いな。かなり訓練された諜報員と見たが?」
「いやいや。忍び込むなんて言っちゃった時点で、侵入者確定でしょう」
娘はため息をつくと、上目づかいにハリソンを見た。
「ところで、あの。兵隊さんは、私を襲ったり、倒したりとかしないんですか?」
ハリソンは不服そうに答えた。
「なぜだ? 私が、女性を暴力で支配するような男に見えるのか?」
「そういう意味ではなくて。先ほど見たとおり、私、人狼なんですよ? 『島』の人たちって私たちのことを、怪物とひとくくりに呼んでいるんでしょ? 問答無用で攻撃して来るって、聞きましたけれど」
それを聞いたハリソンは、さも意外だという表情をした。
「君は、街の人たちを傷つけたり、殺したりしたことがあるのか?」
「とんでもないわ。売り物の山菜の目方を、少しごまかしたりしたことはあるけれど」
「そいつはいい」
ハリソンはくっくと笑うと、真顔に戻った。
「誰も傷つけていない君を、傷つける理由があるかい? 兵士でなく民間人らしいし、君も、俺と戦う理由などないだろう?」
あら。
いい人、みたい。
「『島』の兵隊さんが、みんなそうだといいんですけれど。善人過ぎると、早死にしますよ?」
「俺は、善人なんかには程遠い。だが、卑怯者ではないつもりだ」
ふーん。
ちょっと、格好いいかも。
「ところで、さっきの話ですけれど」
「なんだ。街に、秘密の裏口か何かがあるのか」
息せき切ってたずねたハリソンを、娘はあわてて押しとどめた。
「街に忍び込む必要なんかありません。街の議長さんが、他国の兵隊さんに出会ったらすぐに知らせるようにと」
「それはそうだろう、戦争中なのだ。他国の軍隊を発見したならば、至急連絡せねばなるまい」
「いえ。交渉をしたいから、街に案内してください、って」
娘の小屋は、街の濠から離れた森の中にあった。
「えー、九人も。私、一人暮らしなんですよ。みんな入りきるわけ、ないじゃないですかあ」
「あ、お構いなく。うちの男の人たち、屋外でくつろぐのに慣れてるから」
きちんと正座をしたルーシーが、にこにこと会釈などしている。
そういうお前は何故、人の家にちゃっかり上がり込んでいる……
ヒューゴは頭痛を懸命にこらえた。
「初めまして、クリスティンです。ハリソンさんから聞いていると思いますが、あの、ワーウルフです」
小屋の主人である若い娘は、少しどぎまぎしながら自己紹介をした。
ヒューゴは、にわかには信じることができなかった。
銀色の美しい長髪。澄んだ青い瞳。
どう見ても、十五歳くらいのきれいな女の子にしか見えない。
「ちょっと、なに見とれてんのよ。セクハラの次はロリコン?」
ルーシーがヒューゴを、肘でどんとつつく。
「馬鹿、失礼だろ。こほん。ところで早速ですが、交渉というのは?」
「私も、詳しいことまでは。でも今の状況なら、降伏、ということでは?」
クリスティンという子、なかなかに賢い。
「その、議長殿ですか? まだ俺たちの本隊も到着していないのに、やけに状況判断が早いですね。エリック、その辺りはどうなんだ?」
同席していた通信兵のエリックが答えた。
「ようやく昨夜通信がつながりましたが、情報が錯綜していて何とも。一部の部隊が前線を突破しつつあるのは、間違いないようですが」
ヒューゴは短い顎髭を撫でながら考えこんだ。
「当然だが、俺たちは交渉についての全権を与えられているわけじゃない。どうするかな」
「話し合いたいって言ってくれているんだから、行こうよ。何も決まらなくったって、あちらさんの希望を、とりあえず本隊に伝えればいいわけだし」
ルーシーがあっけらかんと言った。
「そうだな。伝令くらいの役目は務まるか」
ヒューゴも、意外にあっさりとそれに同意する。
「ちょっと、隊長も、お嬢さんも。罠かもしれませんよ」
エリックがあわてて注意を促したが、ヒューゴは首を横に振った。
「俺たち数人をはめたところで、状況は何も変わらんさ。それよりも今は、『大陸』の内情を少しでも知りたい」
「内情、ですかあ。ここ、そんなに悪いところじゃないですよ。戦時下だから、多少の不便はありますけれど」
それまで成り行きを見守っていたクリスティンが、不本意そうに言った。
実際、彼女の小屋の中は特に荒れた雰囲気もなく、小ざっぱりとして快適だった。
食料の備蓄も十分なされているようである。
「クリスティンちゃん。あなた、街から離れたこんなところで、独りで暮らしているの?」
ルーシーが周囲を見回しながら、心配げに問う。
「あ、私、仲間から逃がしてもらったんです。私たち戦闘能力のある種族は、強制的に徴兵されちゃうから。戦争で全滅したら種族ごと絶滅してしまう、それは防がねばならん、なんて言われて。でも子作りなんか託されても、困っちゃうなあ」
「じゃあ街の人たちは、あなたがワーウルフであることを知らないのね?」
「そうです。でも月一回の満月の夜は、どうしても変身しちゃうので。街中だと人目に付いちゃうから、こうして森の中に住んでます」
ルーシーが感心したように言った。
「そっか、しっかりしてるわねえ。私も寮で一人暮らしだったから、親近感わいちゃうなあ」
「でも私、あまり料理が得意ではなくて」
「まっかせて! お昼、一緒に作っちゃおうか?」
などと、日常味あふれる会話に興じる二人。
「うーん、こういうのもいいですねえ。俺も、なんか家庭を持ちたくなりましたよ」
エリックが、うんうんと腕を組みながらうなずいている。
「……お前は、家庭には一番不向きだと思うがな」
不満そうなエリックを尻目に、ヒューゴはクリスティンへと向き直った。
「ゆっくりしている時間はありません。本隊が来る前に、議長殿と面会したい。クリスティンさん、案内お願いできますか?」
「あ、私でよければ、喜んで。でも、九人全員で街には入れないと思います。代表の方、三人くらいで」
「じゃあ、俺と……後はマシューとエリックかな?」
それを聞いたルーシーは、ヒューゴに食ってかかった。
「ちょ、隊長さん、何言ってるのよ。交渉事には、女性を入れるのがセオリーでしょ。警戒心も解けるし、スムースに会話が進むと思うわ」
「普通の女性だったらな」
「どういう意味よ。とにかく、私も行くからね。治癒師権限を行使します」
完全に、職権乱用だ。
拒否するのが面倒になったヒューゴは、次の人選を考え始めた。
そこへクリスティンが、おずおずと口を挟んだ。
「あ、あのう。ハリソンさんなんか、どうでしょう?」
ん? という顔をしたのもつかの間、ルーシーがにっこりと笑った。
「あー、そうなんだ。クリスティンちゃん、やるう」
クリスティンは、予想通りのルーシーの言葉に、赤くなりながらも反論した。
「ご、誤解しないでください。あの人、強いんでしょう? のこぎりみたいな剣、持ってるし」
「まあ、腕は折り紙付きですが。あなたがそう言うなら、断る理由はありません。じゃあ、準備を」
ヒューゴはけげんな顔をしながらも了解を伝え、立ち上がると扉の方へと向かった。
クリスティンも、慌てて部屋の片付けを始める。
ハリソンさんは、私の素性を知っても、変わらない態度で接してくれた。
そういう事が、これからの交渉には大切になるかもしれない。
自分の顔のほてりについては、クリスティンはこの際無視することにした。
ヒューゴ達はクリスティンと共に分隊が待機していた森の広場に戻ると、交渉のために街に向かうことになったいきさつと、先ほど決定した人選について、隊員たちに簡潔に告げた。
隊員たちに、特に異論はなかった。
「隊を二つに分けるのであれば、私は残っていた方が都合がいいでしょう。周囲の偵察も必要ですし」
と、マシュー副長もヒューゴの決定に同意を示した。
ただハリソンだけは、
「なぜ、私が選ばれたのでしょうか? 取り立てて、交渉術に優れているわけでもありませんが」
と疑問を口にしたが、
「いいの、いいの。いろいろと、頼りにしてるわよ」
と、笑顔で彼の肩をぽんぽんと叩くルーシーに、いぶかしがりながらもうなずいた。
そのルーシー自身の参加については、みんなただ苦笑するばかりであった。
「あなたがクリスティンね。私はアイリス、よろしく」
そう挨拶をしたアイリスは、やはりいつもの無表情である。
「あ、始めまして、クリスティンです。種族は、ワー……」
ぼうっとしながら、クリスティンは挨拶を返しかけた。
ルーシーさんは可愛いけれど、この人はきれいだなあ。
その彼女の言葉を、アイリスが軽く片手を挙げてさえぎる。
「言いたくないことは、言わなくてもいいのよ。これまでも、きちんと隠してきたんでしょう? 本来、隠すようなことでもないけれど、無用のトラブルは避けた方がいい。くだらないことだけれどね」
アイリスは、かすかにほほ笑んだ。
それが非常にまれなことに、クリスティンは気付かない。
「『島』の人たちって、私たちのことをどう思っているんですか? 情報っていうんですか、そういうの、まったくなくて」
「情報がないのは、こちらも同じ。あなた達の場合は、どう?」
クリスティンはかすかに眉を曇らせた。
「私たちは、『島』の人たちは、人間以外を根絶やしにするために上陸して来る、って昔から教えられてきました。本当にそうなのですか?」
「当たらずとも遠からず、ね。我々は、『大陸』では怪物たちが人間を管理し奴隷にしている、と考えている。だから我々王国軍は、人間を開放するために上陸した正義の軍隊である、と主張している」
クリスティンの顔が、さっと青ざめた。
「そんな。まったくの誤解です」
「そうね。無知って、最大の罪だわ。お互いのことがわからないから、相手のことを恐れ、否定する。だから」
アイリスはその水色の瞳で、クリスティンをじっと見つめた。
「私たちはあなたたちのことを、もっとよく知らなくてはいけない。あの三人のこと、よろしくお願いするわね」
クリスティンは唇をぐっと引き結ぶと、こくんとうなずいた。
人間の皆さん、こんにちは。ワーウルフのクリスティンです。
「島」からの兵士が攻めてくるっていうので、凄く心配していましたけれど、とりあえずなんだかいい人達みたいです。
この先どうなるかは分からないけれど、やっぱり、戦争なんて嫌ですしね。
それじゃ、第一二話「大義」で。
もう少しだけ、ハリソンさんと一緒にいれそうです。
い、いえ、別に。頼りになるかなあって。それだけです!