マヨイガ~或るオカルト記者の体験~
「こういう雑誌を読む奴らは信憑性がなくったって有り難がるんだよ。君みたいにいちいち裏を取ってたんじゃお話にならない」
「しかしっ……! ――はい、またネタを探してきます」
本当は新聞記者になりたかった。金持ちや政治家が揉み消した悪事をすっぱ抜いて、正義を名乗りたかった。
幼少期の俺は、他の奴等よりもうんと、正義のヒーローに憧れていた。それはある程度成長しても変わらず、周囲の人間からはよく馬鹿にされた。
体力のない俺が、警官や消防士、自衛官になれるとは思えなかった。残念なことに、理系科目もあまり得意ではなかった。
国語ぐらいなら俺にもできる。だから幼い俺は軽率に新聞記者を志した。
結果がこのザマだ。
眉唾……いや、明らかな嘘を書いて端金をもらう屈辱的な毎日。
都会で三流私大にしか行けなかった人間が職にありつけているだけでも奇跡だろう。
俺がいるのはさして有名でもないオカルト雑誌の編集部。
織田信長の死の真相だとか、アメリカにいる未確認生物だとか、どこかの国が怪しい実験をしているだとか、そういうことばかりを記事にして一部のマニアに売りつけている。
俺がよく担当させられるのはホラー関係だ。廃墟や廃線、トンネルなどに行ってはバシャバシャと意味もなく写真をとりまくっている。知り合いを立たせて目線を入れると、何もおかしなところがなくても印刷の関係でそれっぽく見える。
その土地の言い伝えや過去の出来事を少し織り交ぜて話を作ればそれはこの雑誌の中では“真実”になる。
このご時世だ。わざわざ作り話を書くためだけに県をまたげば俺が記事にされかねない。
生憎近場の心霊スポットは狩り尽くしてしまったので、俺はネタに困っていた。
そこで俺はネット上の噂を集めて記事にしようと思った。今どきネットをやらない人間の方がまれだが、ネット上にいる人間がこんな陳腐な雑誌を読むとも思えなかった。
つまり、層が被らないのだ。
小さな火種で大袈裟な話を書くのはこの職場にきてから慣れっこだった。
掲示板のオカルト板やブログ、そういった人気が下火になってきたところの方が掘り出し物が手に入る。SNSだとあまりに身近すぎて恐怖を感じないのだ。
トンネルや公衆電話、踏切、廃墟……人が恐怖を感じるのは日常から少し外れたものだ。
異世界程遠くなく、自宅程近所でない。
ないと言い切れない程度に程よく離れていれば、まったくないと言い切れるものよりも恐怖が増す。
世代じゃないが歴史でもない。そんな身近さが、オカルトをより輝かせるのだろう。
夜遅くまでネタを探していると、ある気になるサイトを見つけた。
HTMLタグを並べて素人がせっせと拵えた拙い個人サイト。そういえば俺が小学生ぐらいの頃、パソコンで自分のサイトを作るのが流行ったな。
サイトの見た目からてっきりここも“廃墟”だと思っていたが、つい最近更新された形跡があった。最新のブログの日付が、今年の夏頃だ。
そのブログは、不可解な失踪事件について語っていた。
毎年秋頃になると、必ず誰かが謎の失踪をする。その人物は急にいなくなるような人ではなく、最後に会った人達も、彼等に何ら不思議な点はなかったと語っているのだ。
正直、こんなものはネタにはならないだろうと思った。失踪事件ならいくらでも起こっている。わざわざ謎の……と頭に付ける程特徴的なところはなかった。
ブログの最後はこう締め括られていた。
“彼等は全員、この世界から抜け出してしまったのだろう。マヨイガに誘われて”
「マヨイガ……?」
そのたったひとつの単語にひっかかり、俺はすぐに意味を調べた。成程、家の怪異か。
突然ふらっとあるはずもない場所に現れ、迷い込んだものに富を与える。
何故このブログを書いた者はマヨイガの仕業だと思ったのだろうか。
そして何故失踪者の名前や地位などを知っているのだろうか。警察関係者という訳でもないだろうし。さては俺の同業者か。
時計を見るともう丑三つ時だ。
布団に入っても眠れる気がしなかった俺は、寝巻きからジャージに着替えていつもの割烹料理屋に足を運んだ。
*********
「相変わらず、この店は儲かる気があるのか?」
割烹翡翠――深夜零時から朝方の四時頃までしか営業しない、不思議な料理屋だ。
年齢のわからない美しい女将さんがたったひとりで切り盛りする、本当に小さな店。開いている時間や椅子の数から知る人ぞ知る隠れ家的存在だと認識している。
「アラ、いらっしゃい。珍しいわね、こんな時間に」
女将さんは俺の顔を覚えていた。まあ、忘れる程客がきていないということだろう。
ここを見つけたのはとある校了後のことだった。締切がある仕事ってのはどこもこんなものだろう。締切の直前は死ぬ程忙しい。
飯も食わず働いた俺は、深夜に煌々と明かりを照らすこの店に蛾のように吸い寄せられた。
それ以来、深夜に飯が食いたくなれば必ずここにきている。
女将さんは優しいし、酒が入ればすんなり仕事の愚痴も出てくる。余計な詮索もせず、かといって否定もしない女将さんのことを俺は気に入っていた。
「女将さん、いつもの頼みます」
「やだわァ、まだそんなに通って貰ってませんよォ」
そう茶化しながらも、女将さんはいつものを作る。
生姜と刻み葱の載った厚揚げ豆腐に、温かい白だしをたっぷりと。
硬めに茹で上がった枝豆。
女将さんの地元の味だという筑前煮は、手羽元が入っている。
昼間はまだ暑いが、朝晩は冷やという気候でもなくなってきた。
女将さんは「判ってますよォ」とぬる燗を出してくれた。
空きっ腹に入れるのも躊躇われ、筑前煮に箸を付けた時、ふと奥の椅子に男がひとり座っていたことに気付いた。
狭い店内。カウンターと椅子にスペースを取られ、ほぼ一方通行のこの店で、一番奥に座っているということは、俺よりも先にここにきていたということだ。
しかし、何故か俺は筑前煮に箸を付けるまでその存在に気付かなかった。たった椅子三脚分だぞ。気配どころかどうしたって視界に入るはずだろう。
俺が訝しげに無遠慮な視線を送っていたからだろうか、男はふいとこちらを向いた。
一瞬、時が止まったように感じた。どこか幻想的な……実際に目の前にいるのに実在が不確かな程の美丈夫だった。
翡翠を嵌め込んだような瞳は、あまりの美しさに義眼かと思ったが、キョロキョロと動かしているのを見るに、どうやら本物らしい。
混血の先祖返りか……。随分と珍しいものを見たな。
「お前は――」
男が声を発する。声までも耽美だ。どう見たって女には見えないのに、美しいという形容詞が一番しっくりくる。
「――煩いな」
「……は?」
男は顔を顰めて煩い煩いと唸った。
そこまで大きな音を立てたつもりはないし、口数もそう多くはなかったはずだ。
「アラ、お客さん、ごめんなさいね。このヒト、ちょいとばかし不思議なのよ。変なコトを言うかもしれないけれど、気にしないで頂戴ね」
この男は女将さんの知り合いなのか?
「女将さんのお知り合いで?」
「やだワ、そんなンじゃないの。そうねェ、ここの出資者……かしら?」
女将さん本人が疑問形では答えらしい答えとは言えない。
「ねェ、アナタはどう思うかしら。アタシとアナタの関係ってなァに?」
女将さんは男にそう訊ねた。男は雪解けのように顔を柔らかくして、君の好きなようにと答えた。
「僕は君が望むなら何にだってなるよ。情夫の枠はまだ余っているかい?」
「ヤダァ、もう、イヤらしいコト。好きなようにってアナタの好きなようにじゃない」
古い探偵小説のような口調は、彼の外見によく似合っていた。
つまり、冗談を言える気安い仲なのか、それとも本当に身体の関係があるのか。
「誤解しないでネ、お客さん。このヒトったらアタシを揶揄って虐めてるのよ」
「人聞きが悪いなあ。僕はいつだって本気さ」
男はケラケラと笑い、軽薄な言葉を紡ぐ。
「ところでさっきの“煩い”ってのは……?」
「ああ、このヒトね、ちょっと不思議なのよ。特別に耳がいいっていうか……。例えばアタシ達は普通、ここに筑前煮があることは“視えて”いるでしょう?」
女将さんはすっと筑前煮を指さす。俺は無言で頷いた。
「でもねェ、このヒトは“聞こえる”って言うのよ」
「だって本当のことなんだから仕方ないじゃないか」
「どういうことです?」
「このヒトね、目があまりよく見えてないみたいなの。それで、耳で確かめる癖がついちゃってるみたいで」
成程、蓋を開けてみれば不思議なことなど何もない。
視力を失うと補うように聴力が増すと聞いたことがある。彼もつまりそういうことだろう。
「つまり俺は身動ぎが多かった訳ですね」
「ンー、そんなンじゃないのよ。何て言ったらいいのかしら……。材質とか、そういうモノが煩いって言うの。アタシにはよく解らないワ」
多分、視力がある人間には理解できないだろう。彼等には彼等にしか解らない感覚というものがある。
「――十月三十一日午前三時丁度」
「――はい?」
男がふと、遠くを眺めてそう言った。向こうに何かあるのかと見てみても、ただ壁があるだけだった。
「――この店の裏手に林がある。そこにお前が探してるものが出てくるだろう。捕まえてやってくれ」
男は声を一段低くしてそう言った。男の視線はずっと一点を見つめたままだ。ちらりともこちらを見やしない。
「高度な文明はあいつが嫌がってしまうから、フィルムカメラと豆電球の懐中電灯。それから、機械式腕時計だけを持っていくといい」
「それはどういう……」
男はそこでふっと糸が切れたように椅子にもたれかかった。
「お客さん、記者さんなの?」
「えっ? まあそうですが……あまり上等な身分じゃ……」
果たして記者と呼んでもいいものだろうか。少なくとも俺は胸を張ってそう言えるだけのことをしてこなかった。
端金のために嘘を書き続ける日々。幼い日のあの感情はそうそうに捨て去ってしまった。
「ところで、裏の林に何があるって言うんですか」
「今はまだいないのよ。あの子も気まぐれだから……。ただ、最近はハロウィンの話を聞いてから、自分も参加したいって張り切ってるの」
子供か? でも夜更けの林にいるとしたら不自然だ。
「彰人さんも意地悪ね。こんな風に伝えたら誰だって珍紛漢紛よ」
男の名前を初めて知ったがそんなことはどうでもいい。本当にそうだ。抗議のために彼の方を向くと、そこにはもう誰もいなかった。
「あれ……? お会計は?」
「アア、いいのよあのヒトは。うちの料理なんてアタシが何遍言ったって食べやしないんだから。ただここにきてボーッとするだけ。嫌んなっちゃう」
それにしても出ていくなら一言声をかけて行けばいいのに。
俺はすっかり冷たくなった料理を急いで口に突っ込み、会計をして出て行った。
空はもう遠くの方が紫になっていた。
*********
「いいなぁ、先輩、今度俺も連れて行ってくださいよ」
あの料理屋のことを後輩に話すと、意外に食い付きがよかった。若者はもっとこう……ラーメン屋なんかがいいんじゃないか。それにあの店は上品ではあるが、人目を惹く……所謂“映え”というものは何もない。
「次の残業でてっぺん越えたら連れて行ってやるよ」
俺はあの日からずっと考えていた。ハロウィンの夜に何があるのだろうか。そして、彼に言われた道具に一体何の意味があるのだろうか。
一応親父の書斎から全部くすねてきた。
フィルムカメラはかなり古いがちゃんと撮影できた。
時計は螺を巻いて時刻を揃えた。
懐中電灯は電池を替えて豆電球も替えた。
なんというか、おあつらえ向きだ。オカルトの基本をきちんと押さえている。
それに、あの男のことも気になる。何故ああも作り物めいた見た目をしているのか。何故俺にあんなことを言ったのか。
考えても仕方ない。非現実に筋を求めるのも野暮だ。俺はそうやって自分を納得させた。
男が指示したハロウィンまではあと数時間だ。
今回の締切には間に合わないが、次回のネタとしては申し分ないだろう。
「そういえばお前は最近何を特集しているんだ?」
「俺は今どき流行りの異世界ですよ。やっぱり流行りには乗っておいた方がいいっスよね」
異世界か……特に目新しい訳ではないが、最近素人がやたらめったら異世界異世界と騒いでいるから、まあ需要はあるのだろう。
「きさらぎ駅……はお前にはちょっと古いか。ナルニア国物語なんかもそうだな。あの世も含めると日本神話にもあるぞ」
「知ってますか? あっちの食べ物食ったら、もうこっちには帰ってこれないらしいですよ」
まあそれも有名な話だろう。誰が思いついたのか、帰ってこれないならこちらの人間にそれを伝える手段がないだろうに。
「大体、そんな得体の知れない場所に行っておいて呑気に飯なんて食うか?」
「ははっ、そっスね。俺も気味が悪いっス」
異世界がこの世界と似ているのもいかにも創作といった感じがするし、面白がる分にはいいだろうが本気で信じている奴は子供を含めどこにもいないだろう。
時計を見るともう四十五分だ。やばいな、つい話し込んでしまった。仕事に間に合うといいが……。
後輩はさして焦った様子もない。やっぱり世代の違いだろうか。こいつにも“努力より実力”といった価値観があるようだ。
「ゴチになります!」
「またかお前……。中々いい性格してるな」
「へへっ、よく言われます」
まあいい。たかがワンコインだ。この不況でも流石にかけ蕎麦程度ではそう高くはならないだろう。
「約束の日って今日の夜っスか?」
「ああ、一体何があるっていうんだ」
後輩にもあの話をした。もし俺に何か良くないことが起こった時に気付いて貰えるように。いくら成人男性とはいえ、流石に深夜の林で待っていろと言われて恐くない訳ではない。例えば刃物を持った集団が待ち受けていたとして、丸腰で武術を知らない俺にできることはないのだ。
じゃあ行くなと言われてしまえばそれまでだが、俺は焦っていた。何としても次のネタを手に入れたかった。新聞や芸能雑誌のスクープとまではいかないが、何か掴めたら俺の会社での地位に関わるのではと思っているのだ。
「ひとりでこいとは言われたが、もし俺が朝になっても帰ってこなかったら探してくれ。場所は俺の家の角を右に曲がったところから――」
「先輩んちの近くですね、了解っス」
一応後輩に相談しておく。何かあったらお前が代わりにネタを追ってくれ。
*********
懐中電灯で時計を照らし、時間を確かめる。俺が普段からいかに文明の利器に頼っていたかよくわかった。
ぽっかりと大きな口を開けて俺を誘っている林。豆電球の懐中電灯で照らしたところで、行く先が明るくなることはなかった。
深夜、誰もいない林、よく知らない古い道具。恐怖を煽る演出としては充分すぎた。
そもそも現代人である俺は、スマホを忘れただけでも不安で仕方ないというのに。
持ってくるなと言われたら、もうそれだけで恐怖だろう。
料理屋の明かりが届かなくなるまで林を進み続けた。なんとなく、明るい場所は彼が示した場所ではないだろうなと思ったからだ。
どんどん視界から情報が奪われていく。あの男も、こんな暗闇を感じて生きているのだろうか。そもそも、暗いという言葉の意味を理解できるのだろうか。
全盲とは言われていなかったが、俺はよく知りもせず、そう思った。人は誰かを憐れむ時、優越感に浸る。俺も例に漏れずそのうちのひとりだった。
自分が発する懐中電灯の光さえ心許なくなった時、どこからか大きな柱時計の鳴る音が聞こえた。
ゴーンという重たい鐘の音が三回。きっと三時を知らせる鐘の音だ。しかし、こんな林の真ん中に、手入れが大変な柱時計など置くだろうか。
「うわっ!」
腕時計を確認してからもう一度前方に光を当てると、そこにはいつの間にか古びた洋館があった。
――これが、マヨイガか。
入らない訳にはいかないだろうな。それがそもそもの目的だから。
気圧の関係か、やたら重く感じる扉を開けると、暗闇に慣れた目には眩しい明かりが飛び込んできた。
……シャンデリアか。よく見るとそういうデザインの電気だ。海外セレブの家によくある。
「いらっしゃいませ。こちらはお客様にリラックスしていただくための店となっております。コースはいかがなさいますか?」
中に人がいた驚き。その人に話しかけられた驚き。ここが店だった驚き。様々な理由から驚くことしかできなかったが、俺はやっとここにきた理由を思い出した。
「このお店を取材させて頂いたいのですが……」
「当店はそのようなことは……」
俺に話しかけた五十以上ありそうな男が断ろうとした時、奥から女性の声がした。
「アラ、いいじゃないの。うちだってこんなやり方じゃずっと閑古鳥よ。こちらの記者さんに面白おかしく記事にしてもらいまショ」
聞き覚えのある声だ。しかし、何故か思い出せない。どこで聞いたのか、誰の声なのか。知っているということだけ、理解できている。
「――では、こちらへ。カメラは」
「ああ、これです。ちゃんとフィルムカメラですよ」
練習に数枚翡翠を撮らせてもらったが、フィルム自体はわざわざ本物の新品を買ってきた。
レンズ付きフィルムではない、本物のカメラだ。
それにしてもこの男性、顔に特徴がないというか……ちょっと目を反らすとどんな顔だったかを忘れてしまう。
奥の方に数人控えている女性達もそうだ。なんでこう、顔がはっきり見えないのだろうか。
「この店は大雑把に言うとマッサージ店の括りになりますか……。若い娘にはエステとか言われていますが、ようは揉みほぐしです」
俺が金を払わないとわかったからか、男は先程よりもフランクな口調になった。
「この建物に何かこだわりは?」
「こだわりという程でもありません。ただ、お客様に非日常を味わって貰えればと、それだけです」
俺の記憶が正しければそういう店は南国のような内装になっていた気がするが、こちらは西洋風だ。
多分、流行った時期の問題だろう。バブルあたりに建てられたそういう店はみんなバリを意識していた。
「成程、確かに場所も相まってかなり非日常が演出できていると思います」
俺は許可を得てから店内を撮影した。撮ってすぐ確認できないことがこんなに不便だったとは……。ほんの二十年程前まではそれが普通だったのに、慣れというのは恐ろしい。
バシン、バシンと派手な音を立ててフラッシュが焚かれるのもより非日常に拍車をかけていた。自分だけ過去にタイムスリップした気分だ。
内装は大正時代の洋館のようだが、やっていることは比較的最近のエステだ。そっち方面は詳しくないが、アロマだのヘッドスパだのというのはそんなに昔からなかった気がする。
一通り取材を終えて、では帰らせて頂くというところで、実際に体験してみてはと提案された。
「日々のお仕事でお疲れでしょう。うちはリーズナブルとは言えない値段設定ですが、単品での注文も受け付けています。おひとついかがでしょうか」
「いや、この時間からそんなことをされたら寝過ごしてしまいそうですから、結構です」
男は残念そうに肩を落として、俺を見送った。なんだ、ちゃんと帰れるじゃないか。
*********
翌朝……というより数時間後といった方がましか。
俺は普段通り出勤した。なんてことない日常を送り、昼に後輩に何があったかを説明した。
「え、本当に行ったんですか? それで、どうでしたか?」
「どうもこうも……ちょっと変わってはいるが普通のマッサージ店だったよ。翡翠に慣れていたからか、商売をする気がなさそうな店にあまり驚かなくてな」
後輩は納得がいかないといった顔をした。お前が望む結果にならなくて悪かったな。
「それより、写真はどうなったんスか? 何かヤバいものが写ってたりして……」
「お前は知らないだろうが、フィルムカメラってのは最後までフィルムを使い切ってから現像するもんなんだよ。まあ途中でできなくもないが、折角新品のフィルムを買ったんだ。他にも色々撮ってみてから現像するよ」
そうは言ったものの、果たして何を撮るべきか……いや、何でもいいだろう。次の取材も写真をあれで撮るか。雰囲気が出ていい。
「じゃあ翡翠の女将を撮ってきてください。どんな美人か気になって気になって……」
「そういえば翡翠は外観しか撮っていないな」
早速撮るものが決まった。あの人が許してくれるかはわからないが、いい機会だから撮らせて貰おう。ついでにあの人間離れした男も撮ってやったら、こいつは腰を抜かすだろうか。ただの美丈夫とは訳が違う。あれは……例えるなら人の欲望のままに創られた蝋人形のような不気味さだった。
そういえば人は人に限りなく似た人形に恐怖を感じるそうだ。不気味の谷と言ったか……。
ロボットが一向に人間に似てこないのも、それが理由かもしれないな。
なぜ後輩が翡翠に執着するのか疑問だ。そんなに気になるのならひとりで行けばいい話だろう。子供じゃないんだから門限が……なんてことはないだろうし。
「お前……そんなに気になるならひとりで行ってもいいんだぞ。俺にばかり頼りやがって」
「――それは……。いやぁ、場所がね、ちょっと入り組んでいて迷っちゃったんスよ。今度先輩が連れて行ってください」
後輩は一瞬だけ不安そうな顔をしてから図々しいことを言ってきた。
「仕方ないな。今日の夜連れて行ってやる。現金を用意しておけよ。あそこはカードには対応していないからな」
「あざーす」
今回の支払いも俺が持ったんだ。お前が散々行きたがっていた翡翠ぐらい、自分で払えよ。
*********
「ひぃ、暗い……。こんな時間に出歩くなんて正気じゃない」
「お前の時代は違ったのか? 俺が子供の頃はよくコンビニにヤンキーがたむろしていたもんだ。それに、残業した時はこのくらいの時間に帰るだろう?」
「そりゃそうっスけど、駅も街灯もないようなところは通りませんよ……」
電球もない大昔とは違うのだ。いくら街灯が少ないとはいえ、ある程度の光源はある。ここは住宅街だから、防犯のために玄関の電気をつけっぱなしにしている家庭も多い。
そういえば確かに繁華街ならともかく、こんな家しかないようなところで深夜に食事を提供するメリットはないな。あの店は何のためにあんな場所にあるのだろうか。
「ほら着いた」
「――えっ……先輩?」
後輩が信じられないといった顔で俺を見る。
どうした、お前が行きたがっていた場所だぞ?
「どうしたんだ? 入らないのか?」
「あ、いや、入ります」
暖簾をくぐって引き戸を引いて、マットを踏むともうそこは上品な小料理屋だ。
「女将さん、きましたよ」
「ハイハイ、いつものね」
女将さんは待ってましたとばかりにいつもの料理を用意する。
そういえばここにはお品書きというものがない。壁に何かが書かれているという訳でもない。
……最初にここにきた時、俺は何を見て料理を頼んだのだろうか。
「今日は後輩を連れてきましたよ。こいつ、ずっとここにきたがってて……」
「アラ、ありがと。それじゃあ、その後輩さんも、同じのでいいかしら」
お前も俺と同じのでいいよなと後ろを振り返ると、そこには誰もいなかった。
あいつ、どこに行ったんだ。
「すみません、あいつどこかに行ったみたいで……」
「イイんですよぉ。“そういうコト”は結構ありますから。ホラ、お客さん、座って頂戴な」
女将さんは気にした様子もなく、いつも通り俺に筑前煮を用意してくれた。
筑前煮に箸をつけた時、またあの男が現れた。この男は筑前煮の化身か何かか?
「……あーあ、後ちょっとだったのに」
「いいじゃないですか。こうしてお客さんはきてくださったんですから」
「――何が後ちょっとだったんですか?」
ふたりだけの会話に勝手に入り込むのもどうかと思ったが、少し気になったので聞いてみた。
「新しいお客さんがきてくれると思ったンですよぉ。この人はずっと、新しいお客さんが欲しいって言ってましたから」
「成程、先程は後輩がどうもすみません。普段はあんなやつじゃないんですけどねえ……」
「弾かれちゃったんだろうね。元気な若い子は難しいか」
男がよくわからないことを言う。
「そういえばあそこはいかがでした?」
女将さんがこの前の夜のことを聞いてきた。
「ああ、中々上等なところでしたよ。立地さえ変われば今よりうんと儲かるはずです。ここと同じくね」
「場所はいつも変えてるんだけどなぁ」
男は困ったような顔をして言った。訳がわからない。
「ところで、カメラはどうしたのかしら?」
「ああ、まだフィルムが残っていたのでここの内装を撮らせてもらおうと……あれ? どこにやったかな」
あんな大きなカメラを見失うはずがない。どこかに忘れてきたか。
「いいんですヨ、気にしなくて。お客さんはもうこちらの人ですから」
「――え?」
そういえば女将さんの顔を思い出せない。不安に思って入口の引き戸を開けると、見たこともない路地に繋がっていた。妖怪が跋扈するような非現実的な場所ではないが、俺がこの店に入る前とは景色が違うから充分非現実的だろう。
ゆっくりと振り返る。目の前で女将さんが黒い霧になって消えた。アレはきっと……人間ではなかった。
男が口を開く。次の言葉くらい、嫌でも想像がつく。
「――ようこそ、マヨイガへ」