第13話 お金の価値
おじさん達との交流を終え、組合を出たのは既に日が西に傾き始めている頃だった。
まだまだ夕暮れという時間には早いが、今夜の宿を探さなければならないのであまり時間的な猶予はない。良さそうな宿の場所はおじさん達に教えてもらったのだが、ここからやや遠いらしいので私が今夜中に探し出すとなると少々問題があるのだ。
城壁の門の前まで行った方が道が分かりやすいとのことなので、とりあえず城壁に向かって歩き始める。
一度通った見覚えのあるような道をすたすた右へ左へと歩いていくと、突然目の前に人だかりが現れた。
何だ何だと興味本位で覗いてみれば、そこはあの神殿の前だった。
血だらけの男が誰かを背負って歩いているのを、足を止めた人々が遠目に見ている。その視線が同情なのか侮蔑なのか分からないが、そこから温かさを感じることはない。
男は簡素な革鎧を身に着けていて先を急ぐように足早に進んでいたのだが、神殿の前まで来ると背負っていた人を下ろして中にいた誰かを呼び出した。
背負われていた人はぐったりとしていて動かない。遠目には呼吸すらしていないように見える。
「頼む、どうか……」
男は自身も傷を負っているようだが、そう深くはなさそうだ。背中に流れる血はほとんど倒れている男のものである。
男の声を聞いて神殿から真っ先に出て来たのは、一人の女の人だった。神官長と似た服を着ているが、ちょっと色が違う。おそらくは立場の違いなのだろう。神官の……補佐とか?
女性は倒れている男の傷に驚くと、すぐに駆け寄ってその場に跪いた。
「あれは……」
女性の周りに光が舞い、それが倒れている男の傷を覆っていく。
魔法だ。それも傷を治す魔法。魔法の中ではかなり高等なはずのそれを、中年に差し掛かったような年齢の女性が使っているのだ。
私はその事実を確認すると、デッキから二枚のカードを取り出して使用する。
エンゼルとスター。その二枚のカードは、あらゆるものを見通す目を示す。
魔法を使うと視界が一変した。普段は何となく感じることしかできない魔力が、はっきりと見えるようになったのだ。他にも簡単に相手の体調なども見ることができる。尤も、見えたものが何を意味しているのかは経験則なので、何でもかんでも見ただけで分かるわけではないのだが。
「……随分、乱暴な治療をするのですね」
「アヤさんなら治せますか、あの人」
「やろうと思えば。助ける理由も特にありませんが」
ぽつりと呟いた言葉に、ミロが反応する。今の所、私が彼を助ける義理はない。頼まれて相応の対価を示されれば考えなくもないが、杖なしで魔法を使うのは疲れるのだ。それにあの男がどんな人物なのかも知らないし、何でも治せるわけでもない。
私が魔力を読んで分かったことは、あの女性が使っている魔法の拙さだ。
拙いというよりも原始的、もしくは簡略化されていると言った方がいいだろうか。術者の負担を減らすならあの方式が一番効率がいい。私のキュアの魔法とほぼ同等の魔法で、簡単に扱える反面、火傷や傷口を塞ぐくらいの効果しかない。
対して患者はと言えば、思っていたよりも傷口が深く、既にそんな応急処置で助かる段階ではない。逆に魔法によって患者の体力を奪ってしまって、死期を早める結果になるだろう。
私が無駄な努力……いや、患者を痛めつけているだけの彼女を止めるか否かを迷っていると、もう一人私と同じ判断を下した者がいた。
「……」
神殿の奥から出てきた神官長は、治療とも言えない行為を続けていた女性神官の肩に手を置く。
そして振り向いた彼女に向かって小さく首を振った。彼女が操っていた魔力が消えると、神官長は呆然とする男の前に膝をつく。
「大変残念ですが、この方にはもう手の施しようがありません」
「そんな……どうにかなりませんか、金なら……! 俺の師匠なんです! そうだ、ここでダメなら治療できる医者を……」
「……もう、亡くなっておられます」
静かな、そして耳に残る声だった。
それを聞いた男は呆然と黙り込み、ぽたぽたと涙を落とした。
***
どこかで弔われるために男の死体が回収され、治療のために神官長に差し出されかけていたお金は“師匠”の棺桶代に消えて行った。この神殿は日本の神社と同じく、お墓や埋葬などには手を出していないらしい。この時代の葬儀には多少興味こそあるが、野次馬しに行く気分にはなれなかった。
おぼつかない足取りで、それでも前に歩いていく男性の背中を見送ってから、私は一人で血だまりを掃除する神官長の前に立つ。
彼は一瞬驚いたような顔を見せてから、昼前にも何度か見せてくれた柔和な笑顔を見せた。どうも彼は、意図的に笑みを見せようとするとこの顔になるらしい。人当たりがよさそうに演じるのも大変そうだ。
「またお会いしましたね」
「そうですね。……さっきのようなことは、この神殿では良くあることなのですか?」
服を血で汚さないように座っていた神官長は、私の問い掛けに深く息を吐いてから頷いた。
「……治療用の魔法は高度で使用者が限られますから、皆様医師か神殿に駆け込まれます」
「ああいう死に掛けの人も、結果としてよく来ると?」
「その通りです」
私はそんな“世間話”から始めて、男が歩いて行った方向をちらりと見やる。
「ところで、どうしてもう死んでいるなどと嘘を吐いたのですか?」
「噓ではありませんよ。例えまだ生きているのだとしても、我々にはもう何の手段も残されていませんから」
「死んでいるのと同じだと言うのですね。残された人が自分の無力さを前にして傷付かないように」
私の言葉に彼は小さく頷く。少し瞬きすれば見逃してしまうような小さな動作だったが、おそらくは肯定の意味なのだろう。
別に、真実を告げるのが正しいなんてことは思っていない。
“まだ生きているのだが、あなたにも私にももうどうすることもできないのだ”とあの場で説明して、一体誰が喜んだだろうか。もしかすると、一縷の望みを賭けて回復の魔法を施してくれと頼んだかもしれない。
それが患者にとってどれだけの苦痛であるかも考えずに。
回復魔法の痛みは、傷口を無理に塞ごうとする時に起きる、避けようのないものだ。
言うなれば、麻酔なしで皮膚を縫っている感覚に近い。魔法という乱暴な、不自然な方法を使っている以上もっと酷いかもしれない。
患部が広ければ広いほどに耐えられないような痛みが走るし、痛み以上に体力が失われていくので非常に苦しい。呼吸すらまともにできなくなるほどだ。病気に応急処置用の魔法を使ってはいけない最大の理由がそれである。
私も態々そんなことで無駄に苦痛を与えず、死に時に殺してやる方が人道だと思う。基本的にあそこまで傷が深いと、もうあの方法では助からないのだから。
あの女性が行っていたことは、傷だらけの怪我人に鞭を打つような無意味な行為だった。精々、多少死体が綺麗になるくらいの効果しかない。
「……ちなみに、ああいう手合いからはお金は取らないのですか? お布施を出そうとしていましたが」
「怪我の多い職業の方からは、硬貨を10枚ほど頂戴しています。どうしてもお金がないならば無償で治療することもありますが……」
私はしばらく予定になかった神官長との話をしてから、再び宿へ向かうのだった。
***
この街に来て最初の宿は、思っていたよりもずっと綺麗な所だった。昨晩は関所の廊下、その前は夜通し歩き続けていたので感動も一入である。
内装や調度品も、冒険者組合に比べて凝っている。本来は冒険者ではなく、商人や貴人が来るような場所なのかもしれない。冒険者のおじさんの紹介だが、扉が施錠できて浴槽がある部屋と限定して聞いたのが大きかったのだろうか。
ちなみに一晩の宿泊料は3カペラ。一番安い硬貨三枚分だ。
誰かの横顔が描かれた意外にしっかりした造りのこの硬貨。1カペラがどの程度の金額なのかといえば、おじさん達から面白い逸話が聞けた。
その昔、カペラという通貨を作った王様が、平民にもこの通貨制度を使わせようと考えた。
しかしこれがどうにも上手く行かない。人々は物々交換や労働力の提供、つまりは“助け合い”によって狭い共同体の中で生活すること止めようとしなかったのだ。
そこで王様は国にたった一人いた平民上がりの財務官に、平民が通貨を使わない理由を調べさせる。すると、財務官は何も調べずにこう言った。
「王様、平民が一日に消費する物は、金額に換算して1カペラ以下なのです」
この話はつまり、貴族や王様視点で物事を見ている連中は意外に頭が悪いみたいな教訓であり笑い話なのだが、もう一つ重要なことがある。
カペラという通貨単位は異様に“高い”のだ。平民が一日に硬貨一枚分にも満たない消費しかしない程度に。
現在は流石に物価も変わり、多少は使える硬貨になってきたがそれでも高い。
パン一個だと通貨で買えないので、大抵のパン屋は3個から5個、多いところは10個くらいを纏めて1カペラで売っている。宿屋に来る途中で覗いた料理屋ではどんな料理も大皿一枚につき1カペラで、計算のできない客や店員も皿の枚数と硬貨の枚数を見比べれば精算できるようになっていた。そう考えると中々便利そうな通貨である。
ちなみに5カペラ硬貨や10カペラ硬貨もあるので、一応お釣りという概念はある。その辺のお店で高い硬貨を使うと嫌な顔をされるらしいが。
そんな相場なので、料理なしの素泊まりで3カペラというのは微妙に高い……らしい。正直まだピンとこないのだが、この都市には自分の家を持たない平民も多く、宿屋借家などが普通はもっと安いのだそうだ。
私がマビから渡されたお手伝い料金、依頼の報酬の半分は全部で75カペラ。このままでは一月ほどで全部消費してしまうわけだが、この金額から上級冒険者の収入について類推することができる。
この城壁都市フジャラからあの農村までは、片道車で3,4時間。私達は歩いたわけだが、移動手段があれば一泊二日の仕事だ。
依頼料の半額を私達に持たせてくれたのだから、元々150カペラの仕事だ。上級冒険者は日給にして75カペラ稼ぐことになる。あの依頼が相場よりも高いのか低いのかは分からないが、個人に払うには結構な額だ。
出費の方は、冒険者向けの(鍵、トイレ、風呂無しで汚い)宿舎というものがあり、そこは十日で3カペラほどの安い宿だそうで、冒険者の宿代は一日0.3カペラ。一日の食事代を多少多めに見積もって5カペラ使ったとして、5人で割っても使わない硬貨が一日10枚近く手元に残ることになる。
もちろんそっくりそのまま懐に入るわけではなく、防具や武器なども消耗品として消えて行くのだが、こうして考えてみると結構な稼ぎである。一月で二十日間働いたとして、食費と宿泊料を除けば140カペラほどの稼ぎだ。二日に一回働いて、一日五食食べても普通にプラス収支になる計算だ。上級冒険者は高給取りだという話がよく分かる。
では低級はと言えば、一日の稼ぎが一人当たり一番安い硬貨一枚という事も多いらしい。多くても3枚。貯蓄などできるはずもなく、剣が折れたら素手で戦えと言われるほど。凄まじい格差社会だ。
そして私のいる中級はと言えば、日当換算で硬貨10枚行かないくらい。たまたま安い依頼が続くこともあるのであまり当てにならないらしいが、生活費を除いても収入の半分ほどは自由に使えるお金だ。
こうして聞くと、“紹介状”という存在がどれだけ有難いのかがよく分かる。
有望株に貧乏人と同じ生活をさせてはならないという組合の判断なのだろう。そうでもなければ低級から這い上がってやろうとは絶対に、少なくとも私は思えない。
ちなみに、税金という存在がこの時代にもあるらしいのだが……何と、私には国民資格がないので納税義務はない。というよりも、職業によって納めなければならい税額が違うらしく、冒険者は組合側が勝手に所属人数分を払ってくれているらしい。
まぁ、その分紹介料という名の中抜きがあるわけだが、それも仕方ないと思える。現にこうして職にあぶれた者が食い扶持を持つ程度には支払ってくれているわけだし。
とにかく、明日からは仕事だ。
私は魔法でお湯を張った白い猫足のバスタブに体を沈めると、そのまま呼吸せずに目を閉じるのだった。