プロローグ 受け継ぐ力と憎しみと
いつもは家族連れやお年寄りが散歩している公園は、その非常事態を表すかのような静けさだった。嫌な空気が停滞するように風がなく、草木も声を潜めている。
そんな通行人が誰もいない町の一角で、がらりと音を立てて瓦礫が崩れた。
公園の管理者が使っている倉庫だった建物は完全に崩れてしまい、直前に受けた衝撃の強さを物語っていた。
土煙の上がる瓦礫が押しのけられ、その瓦礫の中から一人の少女が姿を現す。
鍔の広い帽子に、丈の長い白衣のようなコート。几帳面に締められたネクタイに丈の短いスカートと黒のオーバーニーソックス。
学生のようにも学者のようにも、そして時代を超えてやって来た魔女のようにも見える格好だが、彼女の背丈と顔立ちを見れば誰もが学生なのだと判断するだろう。
事実、彼女はつい昨日まで学校に通っていた。尤も使っていた戸籍も名前も出鱈目で、正規の学生ではなかったし、昨日やめてきたばかりの所なのだが。
瓦礫を押しのけて服に着いた土を払った彼女は、自分を投げ飛ばして倉庫を破壊した張本人を睨む。その顔は苦痛と怒りで大きく歪んでいた。
「……一応聞いておきます。何のつもりですか」
「裏切者の粛清に来た、と言えば理解していただけるでしょうか」
少女の視線の先にいたのは、奇妙な格好をした二人組だった。
彼女の問い掛けに答えたのは、眼鏡をかけた燕尾服の男だ。顔立ちは整っており、服装だけ見れば誰かのコスプレのように見えたかもしれない。
しかし彼は大きな槍をその手に握っていた。銀に輝くその槍には見る者の心を凍てつかせるような冷たい輝きがあり、その男の異様さを際立たせている。
もう一人はもっと奇妙だ。
全身が茶色の毛で覆われていて、まるでおとぎ話に出てくる狼男のようである。一応とばかりにジーンズを着用してはいるものの、着る時に長い爪で苦戦したのか引き裂いたような穴がそこかしこに空いていた。
少女はそんな二人の元同僚を見て、虚空に手をかざす。すると一瞬光が歪み、次の瞬間には彼女の手元に一本の杖が現れた。
その杖は少女の身長を優に超える長さがあり、先端は天秤のようになっている。
少女が支度を整えるまで待っているつもりのない狼男は、瓦礫の中の彼女に跳びかかった。
しかし外敵を排除するように突然浮き上がった瓦礫に撃ち落され、彼は憎々しげに少女を睨む。興奮する狼男を見て、彼女は大げさにため息を吐いた。
「裏切り? 人違いではありませんか? 記憶にありません」
「ふざけるな! 組織に黙って進めていた研究、見させてもらったぞ」
「おや、見ただけであなたに理解できたのですか? それはすごい」
杖の用意が整った彼女はコートの中に手を入れると、二十数枚のカードを空中にばらまく。タロットカードのようなそのカードの表面には、内容を示す絵柄と0から22までの通し番号が書かれていたのだが、敵の存在を感知するとすぐに消えて両面が裏側の絵になった。
カードは主に使ってもらえることを喜び、二つの輪になって少女の周囲を回転し始める。
それだけではない。そのうちの二枚が輝くと白と黒の獣になって少女の足元に寄り添ったのだ。
その動物の耳は長く、体はすらりと長い。ウサギと猫の合いの子のような彼らは、敵対者を見て低く唸る。体こそ小さいが、勇敢な戦士たちである。
少女は一応現在可能な範囲で撃退の準備を終えると杖を構える。
その姿は気楽なようにも見えるが、油断はしていない。二人のことを良く知る彼女はここが正念場だと気合を入れ、そして単純で気が早い狼男を嘲った。冷静になって眼鏡の男と連携されれば勝ち目はないと踏んだのだ。
「そもそも私は研究のための場所を借りているだけで、別に最初から与していたわけではありません。知らなかったのですか?」
「よくもぬけぬけと……! 俺様の爪で引き裂いてやる!!」
少女の言葉に激昂した狼男は、再び少女に突撃する。
しかし迎撃の体勢を整えた彼女は、手にした杖で一枚のカードを叩いた。
「サンダー」
選択されたカードはその絵柄を表すと、突然雷鳴が響いて幾筋もの光が狼男に殺到する。
物理法則を無視して横向きに飛ぶ神速の矢を前に、彼は大きく跳躍した。魔法の雷は彼の足にすら掠りもせずに直進する。凄まじい速度ではあったが、それでも彼の動きを止めることはできなかったのだ。
しかし少女としては彼に一直線に突進されなければ、それだけで良かったのである。
「フライト」
周囲を回るカードの中から再び一枚選択すると、鳥のカードは自分の意味を示す絵柄を持ち主に見せる。
ふわりと少女の体が浮き上がったかと思うと、空中にいた狼男の爪を易々と躱して数mの高さで止まった。そのままふわふわと眼下にいる二人を見下ろす少女は、二枚のカードを選択する。
「デビル・ウィンド」
悪魔と風のカードが力を開放して、下に見える遊歩道に深々と傷跡を残す。
しかしその凶悪な疾風は、肝心の狼男には避けられ眼鏡の男にはかき消されてしまった。
それを見て少女は小さくため息を吐いた。思っていた通り面倒そうだと。
戦闘要員として連れてきた頭の悪い狼男を相手に、十分な動きで戦う少女。
想定してはいたがそれ以上の動きをする彼女を見ていた眼鏡の男は、普通に投げても当たらないと分かっていながらも持っていた槍を構える。
「あー、ドクター。こちらとしてもあまり手荒なことはしたくないのですが……」
「出会って早々私をぶん投げておいてよく言いますね。そっちがさっさと帰れば別に追いかけはしません」
少女は下から跳躍して何とか爪を伸ばす狼男を迎撃し、油断なく構えていた。眼鏡の男が彼女に向かって槍を投擲する。
「下りてこい! 臆病者!」
「はいはい……」
少女は飛んできた槍をあっさりと避け、狼男の罵声を聞き流す。そして彼女は、次のカードを使おうとした。
しかしその途中であることに気付く。
数枚のカードが消えているのだ。
いつの間にか眼鏡の男の手元に戻っていた槍の穂先には、見覚えのあるカードが三枚。
槍はカードに掠りもしなかったはずだが、それにも拘わらず取られたのだ。槍の性質を理解している少女はそれを見て歯噛みする。
「面倒な使い方を……」
「狙った的は外さない、いや、外れても当たったことになる槍。貴方は失敗作だから自由に使えと仰いましたが中々の使い勝手ですよ。ただ、碌なカードが取れませんでしたね」
「いいや! 地面に下せば十分だ! 後は俺様がやる!」
翼が敵の手に渡り徐々に高度を落とし始める魔法の鳥を、下で今か今かと待ち構える獰猛な狼。
それを見て少女は一つ、覚悟を決めた。
(逃げることもできなくなりましたね。迂闊でした)
少女はタイミングを見てから一気に地面へと降り立つと、襲い掛かる狼に向かって二枚のカードを使用する。
「噛み砕いてやる!!」
「メタル・ウォール!」
少し距離を取る様に斜めに降りた少女と、その細い首筋に牙を突き立てようとする狼男の間に黒い金属製の壁が出現する。少女の使った防御用の魔法だ。
自分の本領はその前進の速度と爪や牙の鋭さだと考えている狼男は、迂回など考えずにその鉄板を爪で引き裂いた。
事実としてその行動は跳躍よりも迂回よりも素早く壁の向こうへと彼を導いた。
そして残念なことに、彼の選択肢の中で唯一少女の白い肌に傷をつけることができなかった行動でもあった。
壁を生み出したその時から準備していた魔法が、左右を鉄板に囲まれて逃げ場のない狼男に殺到する。
「エンゼル・ファイヤ!」
壁諸共狼男を焼き尽くさんと、地面から白い炎が吹き上がった。
あまりの熱量と空気の膨張を前に、少女は二歩三歩と後ろに下がる。そして煉獄の炎の中で苦悶の絶叫と共に踠く人影を見て顔を顰めた。
このままでは殺してしまうだろう。
やはり無力化する程度に焼いて解除を……そんなことを考えていた時だった。
ぞわりと総毛立つのを感じて身をよじると、それと同時に顔を槍が掠めていく。
少女はそれが何なのかを確認すると、自らの頬を撫でた槍の柄に指先をそっと這わせた。
目にも留まらぬ速さだった槍は即座に速度を落とし、少女の手の中に納まる。
「凝りもせずにまた投げて……これを作ったのが誰なのか、忘れているんですか?」
「仲間を助けるために仕方なくですよ」
眼鏡の男の想定通りに集中が切れ、狼男を捕らえていた魔法が霧散する。中の様子はもはや手遅れに近かった上に、このやり取りがなければもっと早く解放していたのだが。
灼熱の炎で全身を焼かれた人型の炭に、眼鏡の男が青色の薬を投げつけた。全身の毛も皮もなくなっていた焼死体は、時が戻る様に即座に健全な肉体を手に入れて動き出す。
「くそ! 熱かったぞ! でも大丈夫だ! 俺様は無敵だからな!」
「自分が死んだことを理解できない幽霊みたいですね……」
ほぼほぼ死んでいた、というよりも現代医学的な意味では心肺停止でご臨終だったはずの狼男に、少女はそっとため息を吐く。それは敵が増えたことへの落胆であると共に、こうして多少の縁がある生き物を殺さずに済んだことへの安堵でもあった。
ただ、状況がいいわけではない。
三人は元々立場上は同格であり、そして実力も隔絶した差があるわけではない。それぞれが自分のことを一番優秀だと考えているが、二対一で絶対に勝てるというほどの自信はないのだ。
少女は狼男に槍を投げつけると、同時に杖で一枚のカードを叩く。
「ファントム!」
狼男が槍を避け、槍の効果で胸に大穴を開けながらも少女に飛び掛かる。回避しきれずに爪で引き裂かれた少女は煙のように消えて行った。
いつの間にか周囲を取り囲むように立っている少女を見て、狼男はその犬歯を露にして唸る。
「幻か……全部殺してやるぜ!」
そこから激しい戦いが始まった。
少女は狼男を近付かせないように魔法で攻撃し、彼は強靭な肉体で多少無理にでも彼女に迫る。その接近を許せば、何とか攻撃を往なしてカウンターで大きくその巨体を弾き飛ばした。
炎が、風が、岩が、爪が、牙が……そうして戦いが続くにつれて、平和だったはずの公園は次第に荒れ果てていく。
一方的にやられているばかりではない狼男の攻撃が次第に少女の肌に傷をつけ始めた頃、一人の女の子が戦場に足を踏み入れた。
学生服を着たその姿を見て、戦っていた二人の動きが止まる。
「アヤメちゃん……どうして……」
彼女が少女の名前を呼んだ。
そう大きくはない声だったのだが、この場にいた誰もが聞き逃すことはない。争っていた三人にとって、聞き覚えのある声だったという事もあるのだろう。
「あなたの相手をしている暇はないので、帰って欲しいのですが」
「俺様は構わん! どっちもかかってこい!」
公園で何かが起こっているの見て駆け付けた学生服の女の子を前に、アヤメは血で濡れた顔を嫌悪に歪ませる。狼男は彼女とは対照的に好戦的な笑みを見せた。
状況の理解できない女の子は、昨日挨拶もなく消えてしまったクラスメイトとその仲間に向かって叫んだ。
「どうして!? あなた達、仲間じゃなかったの!?」
「どうしてだと? 裏切者の粛清だ! 俺様を騙しやがったこいつを、この爪で引き裂いてやるのだ! こんな風にな!」
迫り来る爪を躱しきれずに、アヤメは浅くない傷を負う。
しかしそれにも負けじと彼女は魔法を使用した。突如として吹雪が吹き荒れて身を隠すと同時に、狼男の動きを封じる。
アヤメの動きを目で追う学生服の女の子は、狼男の言葉に息を飲む。敵から裏切ったという言葉に、昨日別れてしまった友人との関係にささやかな希望を見出したのだ。
「裏切ったって、それって……」
「勘違いしないで下さい」
そんな彼女の言葉を遮ったのは、冷たい拒絶の声だった。
少女の声は恐ろしいほどに凍えていて、触れる者すべてを傷付けるかのような響きを持っている。
「私は私の目的を達成するまで止まらない。誰にも馬鹿にされないために、私は私だけの居場所を作るんです。……もうこいつらと協力する理由も消えました」
「俺様を裏切っておいて居場所だと? ふざけるな! そんなものはない!」
「ないから作るのです! 私を誰も馬鹿にしない、誰もが認めて称賛する世界を!」
吹雪を抜けて迫り来る爪を前に、少女は杖を構える。状況は劣勢だ。魔力を消耗していくこちらに比べて、向こうはまだまだ体力が有り余っている様子だ。このまま戦っても勝ち目はないのかもしれない。
それでも彼女は戦うのだ。もう二度と惨めな思いをしたくはないから。理想のために、ここで膝をつくなど許されないから。
そんな仄暗い、そして前向きな覚悟を決めた彼女の目の前に、一人の少女が立ちはだかる。
黄色のドレスに、宝石のようなブロンドの髪。その姿を彼女は良く知っていた。昨日まではクラスメイトをしていたし、直接会う以前から敵性存在として組織から情報は貰っていた。そして何より、ついさっきまで学生服を着てそこで騒いでいた人物である。
彼女は狼男の咢を星の付いたステッキで防ぎながら、呆けた顔の“友達”を笑顔で振り返る。
「……私にも、アヤメちゃんの夢応援させて」
「ハナビ……」
「友達でしょ?」
気勢のある声と共に狼男を投げ飛ばした彼女は、少女に手を差し伸べる。
その手を見て一瞬迷った少女は首を横に振ると彼女を睨み付けた。
「それは今じゃありません。せめてあいつをどうにかしてから」
「そっか……そうだね。うん、頑張るよ私!」
起き上がった狼男は、姿勢を低くして二人に襲い掛かった。
「友達だと!? 騙されていたのがまだ分からないのか! 頭が悪いやつだ!」
「騙されてない! 私がそう思ってるんだから放っておいて!」
ハナビの参戦によって劣勢になっていた戦いは、再び拮抗し始める。
やや消耗しているとはいえアヤメの魔法は異形と戦うのに十分な力を持っているし、ハナビの魔法もそれに劣らない効果を持っている。狼男も深く集中して目の前の敵を殺すためだけに動く。
誰一人として一切の手を抜かない攻防は、薄氷を履むような緊張感を持ちながらも、いつまでも続くような均衡を保っている。
少なくとも戦っていた三人はそう感じていた。虎視眈々と標的の消耗を待っていた彼を除いて。
視界の端できらりと何かが光った瞬間、アヤメは咄嗟に魔法を使う。
「ウィンド!!」
「えっ!?」
ハナビは突然の後ろからの突風に煽られて、数歩前へと進む。信じていたアヤメからの魔法に驚き、後ろを振り返った彼女が見たのはそれ以上に信じられない光景だった。
白銀の槍が、鮮血を巻き散らしながらアヤメの胸を貫いている。
傍にいたはずの二匹の動物もカードに戻り、地面へと散らばっていく。的確に心臓を穿った槍は直前まで自分のいた場所を抜けて、どこかへと消えて行った。
その光景を見て足を止めるハナビ。
アヤメは傷一つない彼女を見て少しだけ笑い、地に伏した。
「アヤメちゃん……?」
「……」
「アヤメちゃん! しっかり、しっかりして!」
どくどくと流れ続ける自分の血を見て、アヤメは思う。
あの眼鏡、つくづく嫌な奴だなと。
止血を試みる“友達”や、瓦礫の陰から血で濡れた槍を手に姿を現す元同僚、そしてにやにやと自分の傷を見て嬉しそうに距離を詰める元ペット……この中で何らかの感情が浮かぶのは、もはや一人だけだった。
ついさっきまで抱いていた敵意や憎しみなど、彼女が傷付かなかったというたった一つの安堵で搔き消えてしまった。
「放っておいて大丈夫です……回復用の魔法、ありますから。それより……」
アヤメは何とか止血しようと胸を泣きながら押さえるハナビの手を、そっと退けた。
彼女の体は心臓が無くなっても即死しないくらいには頑丈だが、ここから助かる術があるわけではない。そう時間があるわけではないので、一時的に友達を落ち着かせるだけの言葉である。
ハナビは小さなアヤメの声を聞き逃さないように、真剣に彼女の言葉に耳を傾けた。アヤメはそのことに心の中で感謝すると、手にしていた杖と二枚のカードを彼女に差し出す。
「これ、使ってください……多分、そのおもちゃより多少はマシですから……」
「アヤメちゃん……?」
渡そうとした手は思ったよりも力が入らず、彼女の手の高さまでも届かない。
いつもは羽根のような軽さの杖はずしりと重く、からりと音を立てて転がる。それを追うように二枚のカードも自分の血だまりへと沈んでいった。
徐々に暗くなる視界の中で、アヤメは自分の単純さに少し笑う。
目的を果たせずにここで死ぬというのに、そんなに悪い気ではないのだ。それはきっと彼女の目的が……。
「アヤメちゃん……!」
ぽつり、ぽつりと雨がこぼれる。
ハナビの絶叫に、アヤメからの言葉はもう帰っては来ない。
一人戦場に残されたハナビは目元を乱雑に拭うと、天秤の杖を手に取った。
激しく降り出した雨を気にせずにアヤメの元へとやって来る眼鏡の男。
「因果の改変、使用者と対象の魔力量で結果が変わるので使えないという話でしたが、消耗したあなたを処刑するには十分な代物でしたね」
「はっはっは! 無様なやつめ、自分の失敗作に殺されるとはな!」
そんな嘲りの言葉を聞いて、ハナビは二枚のカードを血溜まりの中から拾い上げる。
水を弾くように加工されているカードは、主の血に塗れて尚も新品のように綺麗なままだ。
ようやく、友達になれたのに……。
そんな言葉を小さく呟くと、ハナビは勢いよく立ち上がって二人を睨み付けた。
「絶対に、許さないから……」