~あなたもそのうち出くわす話(くろす駅)~
「くろす駅(五)」
……ほんの一瞬だった様に磯部は思う。
遠くで「大丈夫か、おいしっかりしろ」
と言う声が聞こえ、それが段々近づいてくる気がして、目を開けた。
見た事のない男の顔が目前にある。その男は磯部の右肩をそっと叩いていた。
「おお。目ェさめたか、大丈夫か?」
「あら良かった、生きてるのね」
年配の女性の声もする。少し視線をずらすと視界にその女性の顔が映り込んだ。
「……ここは…」
見慣れた景色。
ゆっくり体を起こす。声を掛けてくれていた男性が肩を支えて起きるのをサポートしながら言った。
「あんた、自転車であそこのポールにぶっつかったんだよ?覚えてるか?えらいスピード出してたな」
「救急車呼ぶゥ?」
年配の女性が心配げに訊ねた。
「大丈夫です……あの……」
磯部は2人の顔を交互に見ながら聞いてみた。
「もう1人…大柄な…やっぱり自転車に乗っている男を…どこかで見ませんでしたか?」
「いや…?あんただけだよ?」
「そうですか…」
周囲を見回すと辺りは薄らと明るい。
ガタン、ゴトン。音が響く。
調度目の前の無人の熊野駅に始発の電車が入ってくる所だった。
――車止めにぶつかったから記憶がごちゃごちゃになっているのか?岩居はどこからいないんだ?あれは車止めにぶつかったことで見た悪夢みたいなもんだったのか?
そう疑問に思いつつ、ふと視線を落とし袖口を見る。
袖口の縫い目…。
……ジャケットが、裏返しだ。
それに気付いてあっと声を零すと、介抱してくれた男性が言った。
「あんた、ジャケット裏表逆じゃねぇか…。余程慌ててたかなんかだったのかね?」
じゃああれは夢じゃないのか?
あの時ジャケットを裏返しにしたから……?
「帰って…来られた……?」
駅に停車していた電車が走り出す。
カンカンカンと警笛の音が周囲に鳴り響いた。
「くろす駅(六)」へ続く