第7話B:決意-never forget
遥が決意を新たに学校を脱出してしばらく時が経った。榊原家では家主が起床した。
ソファーで寝るのは要領を得なかったらしく、明人は目覚ましがわりに全身を床にぶつけた。
「ついてねえ……」
不満を垂れながら顔を洗って、歯を磨いて、着替えを済ませた。毎朝何かしら音楽を聴いていたが、今日は静かな雨音がBGMである。
「アイツまだ寝てんのかな」
アイツとは綾瀬のことである。
昨夜はよくわからない内に雰囲気が悪くなり、明人の部屋に逃げてしまった。騒がしいのが居ないのに気付くと途端に寂しさを覚えるものだ。
綾瀬の性格からすれば、今朝はケロッとして起きてきそうだ。そうだとしても何となく罪悪感があった。
「謝っとくか、一応」
悪いのは確実に綾瀬なのだが、彼女から謝罪が聞けることはまず無いと思った。こういう時は謝った者勝ち、ともいう。なんだかんだ言って綾瀬が心配なのである。
明人は自室に足を向けた。
「あれ?」
ドアが開かない。鍵などは付けていないので、中で何かが引っ掛かっているらしい。
「完全引きこもり宣言か」
出会って数時間で人の部屋を我が物顔で使う奴は初めて見た。
「止めといた方がいいか。アイツにも何か事情があるみたいだし」
そう結論づけて、明人は大人しく引き下がることにした。無理に起こしても不機嫌になるだけで大変だろう。
明人はリビングに戻って、思い出したようにケータイを開いた。
「留守電もメールも無し、か。どうしたんだ藍?」
この鬱陶しい天候のせいで、妙な気分になり余計な心配までしてしまう。確かにモーニングコールはほとんど毎日あったが、今日は帰国する日なのだ。
早く家を出なくてはいけないだろうし、実際に会えるのだからしなくても不思議ではない。
「さて、何をするか……」
つくづく自分は独り言が多いと感じた。
今思えば両親が旅行に出かけてから―死が何者かに隠蔽されてから―は特に顕著だったようだ。
犯人はあのゴスロリだろうが、別にどうでもいい。
時間は万病の秘薬。
死体も出ないし、半年間も死んだことを知らずに過ごしていたのだから、今さら実感もない。本当は警察に届け出る必要があるだろうが、そんな気も起こらない。
今はただ藍のことが気になる。この事を知ったらどうするだろう。泣いてしまうだろうか、それとも自分と同じで実感が沸かないのだろうか。
やはり警察に届け出るべきか。だとしても半年経って『親がいなくなりました』等とのたまうのはバカらしい。妙な疑いをかけられては困る。
他に選択肢は何がある?
「……思いつかねぇ」
明人はうなだれた。実は自分が家族のことを別になんとも思ってないことを思い知らされたことに。
「最悪だ」
自分に妹を迎える資格はあるのだろうか。アメリカにいた方が幸せだと思わせてしまうのではないか。負の自問スパイラルに陥り、だんだんと悲しくなってきた。
ガタガタと物を動かす音が聞こえてきた。どうやら彼女の要塞が開放されるらしかった。
片手しかない少女が一体どうしているのか疑問である。
「ふあぁ……、おはよ〜」
怠惰の塊みたいな声が聞こえた。綾瀬が寝ぼけまなこでリビングにやってきた。
「よく寝れたなぁ。むふふ、布団が気持ち良いんだよね、サカキっぽい匂いがして」
明人に聞かせたいのか、綾瀬も独り言患者なのか。恥ずかしくなるような台詞を惜しげもなく言い放っている。
「おかげで良い夢見れたし、体調はバッチリ! 手ないけど」
綾瀬はペラペラと一通り喋ると、Uターンして洗面所に行ってしまった。
「何なんだアイツは」
空気読め、という方が難しいかもしれないが察して欲しかった。
じゃぶじゃぶと無遠慮な水音が耳に響くのに鼻につく。
戻ってきた綾瀬に今の状態を見せたくなかったが、どうにも身体は動いてくれなかった。結局俯いたまま出迎えることになった。
明人を気に掛けているのか、気まぐれなのか綾瀬は無言で朝食の準備を開始した。
トースターでパンを焼いたり、冷蔵庫から何やら取り出して調理を始めた。
明人は顔を上げず、その音を聞いていた。感謝と情けなさを感じながら。
「ブレックファーストは大切だよね。1番を壊す。なんていうの、2番が1番な感じ?」
静寂が嫌いみたいで、綾瀬は一人ボケ始めた。
「意味わかんねえ」
シカトを決め込んでいた明人も思わずツッコんでしまった。
「あ、やっと元気になった♪」
顔を上げると綾瀬がエプロン姿でニコニコと笑っていた。今のが元気になったと言えるなら、気の触れたオウムでも元気なんだろう。
「朝から落ち込んでるなんて不健康だよ。パーッと明るく楽しく行くべきです」
「……そうかもな」
まさか綾瀬に叱咤されるとは思ってもみなかった。明人は照れくさくなって顔を背けた。人に弱みを見せるのは初めてかもしれなかった。
「もうちょいで出来るから待っててよ」
綾瀬は上機嫌だった。加速していく独り言に律儀にツッコむ明人も大変である。
「うむ。会心の出来だね。私の分だけ」
「は?! ちょっと待て。最後辺りに不穏なワードが聞こえたぞ」
綾瀬が運んできたお盆をのぞきこむと、見事なまでの黒い物体が皿に乗っているのと普通に美味そうな朝食の皿がある。両方ともまともなスクランブルエッグが付いているが、見た目は天国と地獄である。
「嫌がらせか。どうやったら一緒に焼いて片方だけ炭化するんだ?」
疑問を投げ掛けつつ視覚と嗅覚を刺激する方の皿に手を伸ばす。
「トースターに嫌われてるんだよ、きっと。見た目悪いけど、ビターチョコだと思えば食べられないことないよ?」
綾瀬は素早くその皿をひったくった。
そしてパンに失礼なくらいジャムを塗りたくった。甘い物が好きというより、悪ふざけにしか見えない。
「じゃあお前食えよ。代わりにその甘党の夢みたいなヤツを貰うから」
「え〜、イイよ」
綾瀬はなんとも簡単に承諾した。
絶対裏がある。表から裏が透けて見えるくらい明らかだ。
「ほらよ」
明人は一応渡してみた。正直、何をしてくるか分からない。
「…ブラックスクエア。ダイオキシンと同じカテゴリーに入るらしい超有害物質。見てこれ、黒いよマジパネぇ!」
「そんな危険なシロモノが家庭で簡単に作れるとは驚きだあね。で、喰えや」
明人が急かすように言った。
「私がこの猛毒で苦しむのがそんなに見たいか! このドSめ」
言ってることが支離滅裂である。
「自分から進んで喰うって言ったろ! このドMめ」
明人は逆ギレに逆ギレで返して、砂糖漬けみたいなトーストを口に運んだ。持っただけで、指がジャムまみれになる。
「これ1斤で1日分の砂糖、って感じだな」
明人は何かのCM風にコメントして、パンを綾瀬の皿に戻した。
「それ、おいしいってこと?」
不思議そうに綾瀬が見てくる。炭は放置されている。
「不味い。頭がどうかしてるって意味だ」
「え〜、糖分は脳を活性化させるってアルファベットの探偵さんが言ってたよ」
「ま、名探偵には必要だろうな。でも頭使ってなさそうなお前にはいらん」
口直しに牛乳を一口飲んだ。甘ったるジャムと混ざってなかなか美味い。
「あ、サカキの味がする」
「ブッ!」
強烈な不意打ちに明人が噴き出した。
綾瀬はそんなことは気にも留めず、サクサクと小気味の良い音を出しながら、ベトベトな甘党専用を平らげていく。彼女も牛乳と交互に食べるのが好きらしい。というか、これはドリンクが無いと拷問みたいな代物である。
「……」
返す言葉が無い。こんなシュチュエーションは二次限定だ。
「……ちょっと! なんか言いなさいよ。こっちがはずかしくなるでしょ」
綾瀬の頬が少し紅潮した。でも幸せそうなのは甘い物のおかげか、間接キスもどきのおかげか。明人には分からなかった。
「デレたな。はずかしい奴」
からかわれっぱなしもつまらないので、明人も反撃した。
「あ、ひどっ! ブラックスクエア喰ってろ、ばーか!」
反撃は予想以上に効いたようで、綾瀬はふいっとそっぽを向いてふてくされてしまった。
「……すまん、調子に乗りすぎた」
非は十割ほど綾瀬にある。なぜ謝っているのか明人本人も分からない。
「食べたらゆるしてあげる」
振り向きもせずに綾瀬が小さく呟いた。
「何をだ?」
薄々気付いているが、聞いてみた。そうでなかったら、という願いを込めて。
「ブラックスクエア」
「やっぱりか。つーか、その名前気に入ってんのか?」
「うっさい、早く喰え。じゃないとサカキの部屋に引きこもるよ」
「マジかよ。じゃあ同棲生活だな」
「それ良いかも」
綾瀬は遠い目をして何か危険なものを空想している。
「じゃあ早いとこ喰って阻止しないとな」
綾瀬のデレを蹴って、大きく一口かじった。
口中をボソボソ感と苦味が占領して――
「ん!?」
炭はとことん甘かった。さっき食べたパンと同じ味だ。
「プッ」
綾瀬が少し噴いたかと思えば、破裂したように笑い出した。
「きゃはははは! サカキはやっぱダメだね。見破れたらスゴいけどさ」
パチンと綾瀬が指を鳴らす。
持っていた炭の塊がぐにゃりと歪んだかと思うと、ビン1つを空けたくらいのジャムがかかった物体に変わった。正確には戻ったというべきか。
「は?」
「おはようサカキ。朝ごはんが黒こげってナイトメア〜」
悪戯がキマったガキの笑顔。単なるガキなら頷けるが、綾瀬は高校生である。その思考幼稚すぎやしないだろうか。
「そりゃ悪夢だろうけど……」
まんまとはめられた。綾瀬は間接キスをゲットし、明人は醜態を晒してさらに喜ばせたに過ぎなかった。
パンの一件は気に食わなかったが、スクランブルエッグはトロトロしていて美味しかった。
「お前が作ったにしちゃ上出来だ」
素直に誉めておく。デレると可愛いし面白い。
「良かったぁ。料理なんて久しぶりにやったから」
綾瀬は心から安堵しているようだった。
だから明人は「まあ、スクランブルエッグなんて誰でも作れるけどな」という意地悪は飲み込むことにした。
「ところでさっきのは幻象ってやつの力か? アレは……」
明人の疑問は真剣みを帯びた声に中断させられた。
「そこで! サカキに言わなきゃいけないことがあるの」
綾瀬が唐突に真摯な態度を取る。しっかり明人を見つめる赤い双眸には強い意志が宿っていた。
「驚かないで見てて。あと、怒ったらヤダから」
忠告もそこそこに、綾瀬は立ち上がって部屋の中央に移動した。
明人が何か言う前に部屋は奇妙な空気に包まれ始めた。蛍光灯の明度が段階的に下がったように感じられる。
「《虚構の楽園》よ、真実を白日の元に曝せ」
綾瀬が仰々しい呪文めいたワードを朗々と唱えた。
すると、ガラスが砕け散るような音がそこらじゅうから聞こえてきた。
「何だよ一体?!」
頭の中がぐらぐらする。視界に音相応の亀裂が走る。眼と耳を塞ぐしかなかった。そうでもしないとイカレてしまいそうだ。
「サカキ、眼を開けて」
綾瀬の柔らかな声に明人は恐る恐る瞼を上げた。
フローリングは黒々とした『ワックス』で塗られている。床のみならず壁、天井、家具類も全て真っ黒だ。
「これが真実」
ゆっくりと振り向くと薄い闇の中に綾瀬がいた。
彼女の周りにはおかしな蝶々が舞っていた。おぼろげに光る体はガラス細工のようで、一目で生物でないのが理解できた。
「まさか……」
明人は絶句した。捨て去った記憶が濁流の如く流れ込んでくる。乾いた血が覆う部屋にいるだけが理由ではない。綾瀬が《虚構の楽園》を解いたことで一部制限されていた記憶が蘇ったのだ。
「ごめんなさい。サカキのここ半年間は私が作った幻実よ」
綾瀬が悲しげに独白し出した。
とうてい冷静には慣れないが、明人は黙って聞くしかない。
「半年前、私はたまたまこの街に来ていた。フラフラ放浪してたから本当に偶然。そこであのゴスロリと知り合ったの。私の力を知ったアイツは懇願してきたわ。『明ちゃんを傷付けずに邪魔な奴等を消したい』って。ちょっとした幻象助けだと思って協力したの。暇だったし。
最初は普通にサカキに会いに行くだけみたいだったけど、何を思ったかサカキの親に会った瞬間アイツは2人を手にかけた。そのままアイツはアメリカに行くとか言って消えてしまった。煉獄のようなこの部屋とサカキを残してね。
私はその後始末を進んでやることにしたの。だからこの半年間は、ずっとサカキの隣で過ごしてきたって訳。理由はよく分かんない。気まぐれだと思ってた。でも違うみたい。私サカキが好き」
綾瀬は凶行に至った経緯を語り、常軌を逸したタイミングで告白してきた。一体どういう思考回路を持った生物なのかと考えたところで、この少女は生きていないし死んでもない。更に常識不適応者だった。
「そうか」
明人は短くそう答えた。綾瀬の願いを聞き入れた訳ではないが、怒りどころか悲しみも湧かない。
「なんで今コレを見せたんだ?」
「だってアイツにサカキを盗られるのは癪だもん。それに昨日の夜、喧嘩別れした原因これだし」
「お前なりに考えてくれたってことか。でも、言っちまって良いのか? これを知ったらアレは何するか分からんぞ」
「何」と言いつつ明人の心配事は1つだった。
ゴスロリの言葉が蘇る。
『藍ちゃんを探し出して、殺すわ』
今朝連絡が無かったのはもう殺されてしまっていたからかもしれない。
「たぶんね。慕ってる人の家族を殺す動機は不明だけど」
明人の心情を知ってか知らずか話は『アイツ』の方に流れていった。
「アイツって言うけど、名前があるだろ。教えてくれよ」
「森谷小夜って名乗ってたわ。幻象としての名前は言ってなかったけど」
「森谷小夜…」
その名前を反芻するとチクリと頭痛がした。
小夜が明人に何か(綾瀬の口ぶりからすれば恋心だろう)を抱いているなら、以前会ったことがあるはずだ。
街でちょっと見かけて好きになったから家族を殺しました、とかならこの国はもう終わりだ。
そういうわけで、思い出せないが案外近くにいた人物なのだろう。明人は自分の過去を顧みない性分を残念に思った。以前のクラスのメンバーなんかろくに覚えていない。
「アイツはサカキへの執着心の塊ね。ず〜っと明ちゃん明ちゃん、って言って未練たらたら。昔仲良かったんじゃない?」
綾瀬は小夜の名前を呼ばない。恋敵と認識しているらしく蔑むような口調だ。
「かもしれない」
「ふ〜ん。で、あの名前に覚えは?」
「さあ、記憶にないな」
明人は両手を軽く上げてみせた。少なくとも高校ではそんな奴は知らない。
「ふふっ、そうなんだ」
綾瀬はちっとも残念そうではないし、むしろ嬉しそうに笑っていた。
「楽しそうだな」
「だってアイツは幻象になってまでサカキを追ってきたのよ。なのに覚えてもらえてないんだもの。かわいそう」
綾瀬は口元を三日月みたいにして嗤った。並びの良い白い歯が覗いた。
「案外黒いなお前」
明人は苦笑した。小夜も普通に出会えたら良かったのに。何も殺人を犯して好感度を地の底に落とす必要はない。
「救われないな」
明人はポツリと呟いた。
「そうだ、アルバム。何か手掛かりがあるかもしれん」
この閃きを実行すべく、再び部屋を見渡して気分が悪くなった。
会話の中で冷やされた頭で見ると、室内は更に陰惨さを増していた。
「そういや、死体はどこへやった?」
「アイツがほうりだして行っちゃったから、あっちの山に埋めた」
綾瀬は窓の外、雨のベールの向こうを指差して言った。
「そうか」
それを聞いてもやはり何の感情も浮かばなかった。
(末期だな、俺も)
「怒らないの?」
綾瀬が不安そうに見上げている。常識から逸脱している幻象の少女からしても、これほどの無感動は驚きなのだろう。
「元からこうなんだ。虚無主義ってやつらしい」明人はやんわりと言った。
十数分後、2人は《虚構の楽園》の力で造られた日常的な非日常に戻ってきた。
綾瀬がこの部屋を再度封印し、入る者の認識をすり替える工作を施した。綾瀬がいなくともこのシステムは半永久的に稼働し続けるらしい。これで虚構は時を経て事実に成り代わる。
明人はそれで満足だった。平和に暮らすなら知らない方が良いことも多い。特に薄皮1枚剥がしたら血まみれルームが顔を出すのは、御免だった。
「サカキは良いとして。妹ちゃんは大丈夫なの?」
パラパラと中学の卒業アルバムを捲りながら綾瀬が言った。
「ああ。帰ってきて親が死んでるって知ったら、どうなるか分からん。永久に応急措置だよ」
アルバムに目を走らせながら明人は隣にいる幻象の説明を思い出していた。
多種多様、禍福も自在。先ほど見た蝶々は綾瀬曰く「血と汗と涙と想像力の結晶」らしい。やたら水分が多い。それを憑依させれば、あとは綾瀬の意志1つで夢幻の虜となる。
幻覚の性能の優劣で言えば、銃弾<蝶<血液や身体の一部ということらしい。
部屋のシステムに加え、帰ってきた藍には家の外用に蝶もつけてもらうことにした。
「ただこの蝶々作るのめちゃくちゃ手間だし疲れるから、いつもはこれよ。ぱぁん!」
綾瀬は手で銃を作って射撃してみせた。
そんなことを言いながら嫌な顔一つしないで協力してくれる。明人は言い尽くせないくらいの感謝を述べた。
「ひっ、さ、サカキ」
綾瀬が怯えた声を出した。
感傷に浸っていた明人は驚いて指されたページを見た。
「……きみわりぃな」
アルバムは中学時代明人の所属していたクラスのページに差し掛かっていた。
クラスメイト全員の顔写真を載せたページのある一ヵ所が黒のマジックで乱暴に塗り消されていた。
「三好、守田、じゃあここは……」
森谷が来るのではないか。2人は同時に結論を導き戦慄した。
「他のページは?」
綾瀬に促され、体育祭とか文化祭等の思い出深い行事のページを開いた。
綾瀬が息を飲んだ。
黒塗りの部分はやはりあった。女子の集団の中に多く見受けられ、意味する所はおそらく黒塗りも女子であろうということ。一緒にはいるがどれもこれも遠くに写っており、女子との仲は良くなかったようだ。
だが消されているのは2年の秋辺りまでで、その後には禍々しいマジックは見当たらなかった。
「消されてないけど、この中にアイツがいるのかな」
ジッと写真を見つめる綾瀬に明人が諭した。
「消す必要が無かったんだろ。この先に森谷小夜はいない」
「そうともとれるけど、何で断言できるの?」
「うちのクラスは36人、行事の度に集合写真を撮ってるようだが、常に1人ほど足りない」
欠席している奴もいるだろうが、どの写真を数えても最高は35人である。
「じゃあ中学2年の秋くらいに幻象になったみたいね」
「すると3年前になるなぁ」
結果としてその程度のことしか分からなかった。嫌な思いの割合の方が大きい。
アルバムは押し入れの奥にしまっておいた。二度と見ることはないだろう。
「あれを塗ったのは誰だろうね?」
綾瀬が分かっているくせにあえて聞いてきた。
「俺がやったんだ。森谷小夜との間に何かあって、衝動的にな」
ここまできて何も思い出せない。明人は不甲斐なさを感じずにはいられなかった。
その後明人は綾瀬の腕の事を思いだし、義手について調べてみた。だが、到底手の出る値段ではないし、綾瀬もいらないと言う。
外へ出られないので談笑していると、いつの間にか雨は止んでいた。
夕方、明人と綾瀬は電車に揺られていた。藍を迎えに空港に向かっているところである。
国際線の出ている空港などもちろん緋森市には無い。幸い隣県にそういった空港があるので、そこへ向かっている。
さっきから綾瀬は席に膝立ちになって窓の外を眺めている。服を持ってないなどとのたまうので、またしても藍の服を借りて着ている。
今は男の子っぽい活動的な長袖Tシャツ、ジーンズという出で立ちだ。
もっとヒラヒラな服が好みかと思っていたが、これも似合っている。アイデンティティなのか、髪はヘアピンで加工されたままだ。
「普段はどうしてる?」
嫌な予感がして聞いてみると、予想通りの答えが返ってきた。
「服以外もお金はないけど、お店から借りてる」
「それは万引きと言って犯罪だ。覚えとけ」
言う割に明人は何とも思っていない。店が潰れようが興味がなかった。
「幻象に人間のルールは適応されない。覚えておきたまえ」
綾瀬は本当に何にも縛られない生活を送っているらしかった。
しかし幻覚が効かない機械は誤魔化せないらしく、監視カメラを筆頭にセキュリティシステムは苦手。でも捕まえに来るのは人間だから遅れは取らない。
雨は昼過ぎに止み、散り散りの雲の隙間から夕陽が射して茜色に染まる街並みは実に美しい。
「日本の車窓から、サンセット殺人事件」
綾瀬は相変わらず奇天烈な独り言を繰り返している。彼女の脳内ではサスペンスの定番BGMと共に血みどろ殺人が起きているに違いない。
(我慢だ、無視だ、他人のフリをするんだ。今に始まったことじゃない。例え他の乗客の前でぶつぶつ言ってても、ツッコんだらダメだ)
同じく独り言が多い明人も人の事を言える立場ではない。だとしても思い付いた妄想を駄々漏れにするほどの重症患者と同列でない事は確かだ。
「おい、お前。傍若無人って言葉知ってっか?」
限界である。決意は虚しく2秒で崩れた。
「傍に若く無い人がいる」
高齢社会をそのまま表した言葉よね、とツッコまれるのを待ちかねていたように綾瀬は勝手な解釈を垂れる。
「オーケー。言葉を変えよう。そのブツブツ止めろボケが!」
「え〜、肌綺麗だと思うんだけど…」
「なら、襲って確「国家権力の出番だね!」」
こんな痴話を繰り広げても乗客達は見向きもしない。それというのも綾瀬が能力を使ってこの車両を《虚構の楽園》で変えてしまったからである。ここにいる人間は誰一人2人を認識していない。
羞恥心を持ち合わせていない疑いのある綾瀬は別として、明人は十数人に囲まれての喧嘩など気が気ではない(楽しんではいるが)
「便利だな。その能力」
「でしょう? 何せ私が自由に楽しく過ごすためのモノだからね」
「なるほど。それがこないだ言ってた1つの思いってやつ?」
すると綾瀬がちょっと目を大きくした。
「意外に鋭いね」
「まあな。多少自分が巻き込まれたモンに興味があるんで」
「それじゃあ、幻象の出生の話でもしてあげる」
綾瀬はキチンと座り直して、語り始めた。
「まず《起源》って幻象がいて、彼が幻象を創るの。あ、創るっていうか人を変身させるっていうか。彼は強い願望がある人の所にやって来て、その周囲の人間関係をぶっ壊した後、最終的に当人を襲って殺そうとするんだって。それで死にかけてパニクった人間に問うの『お前の望みは何だ?』ってね。めっちゃ怖いんだから。まさに死ぬほど。そいで、願いを言ったらそれに見合う幻象になる。でもチャンスは1回。男も女も二言はできない。あくまで最初に言った願望だけよ。だから可哀想なのは『死にたくない』とか『殺さないで』って問われた後に叫んだ奴。そいつらは自分で消滅できない幻象になって、多分地球最期の日までこの世に存在なきゃいけないかも。最初は良いけど段々心が磨耗して最期には狂うらしいよ。それは置いといて、見事幻象になったら急に優しくなって、そいつの幻象名を決めたり、不安でくたばりそうな私達にあれこれ教えてくれるの。案外いい人かもね」
色々と驚かされる内容である。起源の性格にはいささか問題があるように思えた。
要するにその男は人間を試して遊んでる訳だ。願いが叶う人は良い、だがそんな状況でまともに答えられる奴が何人いるだろうか。大概の人は生も死もない存在地獄。無限の苦しみを味わうことになるのだろう。
「だから我ながら凄いと思うんだ。私の精神力」
綾瀬が誇らしげに言った。
「ああ、大したもんだ」
それは本心からの称賛だった。現在の性格がどうあれ綾瀬だって普通の女の子だったはずだ。彼女を取り巻いていた環境がどう変化し、どんな形で命の危機にさらされたかは知りもしない。
だが、そんな中で「自由に楽しく生きる」などと言えるのは心底凄いと思った。
意地悪く裏を返せば死にたくないと同じだが起源には詮無きことらしい。
その一方で目的こそ不明だが人を弄んでいる起源には嫌悪感を持たざるを得ない。
「ねぇ、会ってからずっとだけどなんで『お前』って言うの? 名前で呼んでよ」
「は、何だ? 急に」
シリアスさも抜けきらぬまま、別の話題に飛んだことでちょっと焦った。
「私は明人の彼女だって設定だから。しっかり妹ちゃんに紹介してよね」
「そうか……って、はあ!?」
そいつは初耳だ。
「ほらはやく。練習。綾瀬って呼びなさい」
有無を言わせぬ真面目な雰囲気。心の中ではニヤニヤしているのが丸見えだ。
「改まるなよ。無駄に恥ずかしくなる」
「……」
大きな瞳が上目遣いに明人を見ている。もの欲しそうに見上げてくる。
小動物の可愛さがあった。ここまま大人しくしていれば、普通に美少女で通るであろうに。
「わーったよ。呼べばいいんだろ、呼べば。……あ、綾瀬」
こんな会話今時、中学生でもしねえよと思いながらも、意外に恥ずかしい。
「フッ、その反応。貴様草食系だな」
勇気を出して真っ赤になって言ってみれば、綾瀬は変なキャラを構築して鼻で笑った。
明人は仕返しに黙りを決め込んだ。
「いじけてるの? バカね、名前呼ぶくらい普通じゃん」
「……」
「無視しないでぇ。さみしいと死んじゃうの」
綾瀬は腕にすがり付いてきた。
つい鬱陶しくなって明人は吐き捨てるように言った。
「なら死ね。どうせすぐ生き返るんだろ」
さっきの会話で綾瀬が幻象であることに誇りを持っていることには気付いていたはずだった。なのに完璧な侮辱に当たる発言をしてしまった。
「ひどい……ちょっとふざけただけなのに」
みるまに綾瀬の表情が険しくなる。
泣きそうになりながらも怒りを露にしており、微々たる刺激で決壊しそうなのが分かる。
その悲惨な気に当てられて身動きができない明人を尻目に、綾瀬は別の車両に逃げ出した。同時に綾瀬が造った空間が崩壊し、普通の電車に戻った。リアルな揺れと騒音を体感できた。
戻ってきた日常に何かを感じる間もなく、アナウンスが目的地に到着したことを報せた。
空港の近くということで人の出入りが激しい。明人は押し流されるままホームへ降り立った。
「どこ行った」
明人は人混みから外れてホームの端に移動し、忙しなく流れる人の波に目を凝らした。
電車は止まったかと思えばすぐに行ってしまう。アナウンスがあったのでここで降りることは分かっているはずだが。
あのまま乗っていってしまったのかと考え始めた時、ヘアピンを大量に着けたカラフルヘッドが明人とは反対側の出入口に走って向かうのが見えた。あれはあれで可愛いし、放っておけない感じがするのである。
追いかけようと一歩踏み出した時に、明人は意外な人物の横顔を目にした。
銀のような冷たさと美しさを兼ね備えた幻象の少女。
「霜崎遥」
彼女も同じ電車に乗っていたらしい。
黒のロングコートに身を包み、長いポニーテールを揺らしながら明人とは逆の方向へ足早に移動していく。それの意味する所は火を見るより明らかだった。
「まさか……!」
昨夜の凶悪な記憶が克明に浮かんできた。
一度は死を免れたものの二度とはないかもしれない。そんな究極的な恐怖が、追いかけようとする足を地面に縛り付けた。
その呪縛を解いたのはケータイのバイブだった。慌てて開くと藍からのメールが届いていた。
「無事だったか」
安否を確認できて一息つくも、今は一刻を争う事態である。
『……あと20分くらいで着くよ……』
絵文字で飾られた文章から最低限を読んで即返信した。
『おくれる』
藍には悪いが幻想に堕ちてもらう予定だ。それは綾瀬がいなければ成し得ない。そしてその当人に消滅の危機が迫っている。
「無事でいろ」
明人の決断は早かった。
あえて2人を追わず、すぐ近くの階段を一段飛ばしで駆け降りた。降りた所で明人の正面の出入口に2人の姿が見えないのを確かめ、反対の出入口に突っ走った。そちらの方が人が少ないと感じたからだ。
そこは彼女達が通った階段の行き着く先である。必死の形相で疾走する明人に周囲の人々は驚きと好奇の視線を投げ掛けるが、そんなことを気にしていては守ることなど出来はしない。
(明人のバカ。私の気持ちも知らないで)
一方綾瀬はもうすでに駅から出て、街道を走っていた。
走るのを止めたかったが、追いかけてくるであろう明人に捕まりたくなかった。その想いと矛盾して、早く追い付いて欲しいとも思っていた。
謝ってくれたら一発殴って許すくらいの覚悟は出来ていた。
そのせいか綾瀬の足は遠回りながらも自然と空港に向かっていた。仲直りした後にすぐ2人で藍に会うためだ。
だが、綾瀬は無意識に人気のない小さな道を選んでいた。その選択が自分を追う死神をほくそ笑ませているとは知らず。
「いぐっ!?」
何の前触れもなく綾瀬は右の大腿に衝撃を受け、前のめりに倒れこんだ。初めて感じる焼けるような痛みが身体を抜けた。
「ぐえぁ! がっ!」
ひとまず立ち上がろうとうつ伏せの姿勢から左手をつくと、今度は猛烈な蹴りが胸部を襲った。綾瀬の華奢な身体は為す術なく地面を転がった。
口から血を滴らせながらすぐに身体を起こす。綾瀬はそこで初めて襲撃者の姿を視認した。
涼やかな秋の微風に揺らぐ黒のコートは、徐々に深くなる夕闇と混ざり闇色と化しつつあった。悪魔の槍に似た三ツ又の剣は、微かに残る落日の陽光を受け鈍く光る。
そこにいたのはまさに死神同然の美少女だった。
「昨日は素敵な悪夢をありがとう。おかげでよく魘されたわ」
遥は得物と同じく冷淡な態度で、先ほど跳ね飛ばした綾瀬にゆっくり歩み寄ってきた。
「あら、私の特製幻覚がお気に召して? 何度味わってもらっても結構よ」
遥がたかだか半日程度で立ち直るなど、にわかに信じがたかった。
だが、現に目の前にいる。綾瀬は挨拶もそこそこに左手の『銃』を遥に向けて乱射した。
「ふん」
高速で迫る弾幕を歪な剣で器用に弾きながら、遥は懐から黒い物体を取り出した。
「本物を見せてあげるわ」
「ぐあっ…!」
黒い物体が乾いた音と共に火を噴き、綾瀬の左肩を鉛の弾が貫いた。衝撃で綾瀬は後頭部を地面に打ち付けた。
唯一の武器だった左手は使い物にならなくなり、だらりと地に落ちてしまった。
「きゃああ……うえっ!?」
攻撃手段を失った綾瀬は悲鳴を上げようとしたが、瞬時に遥の手が首を捉え嗚咽にしかならなかった。
「叫ばれても厄介ね」
遥はポケットからタオル地のハンカチを摘まみ出して綾瀬の口腔に詰め込んだ。呼吸がもちろん困難であるが、唾液をハンカチが吸うことで口の中はカラカラになり不快感が増した。
「ふぐぅ…」
遥はうーうー、と苦しげに呻く綾瀬を片手で吊り上げて立たせ、壁に叩きつけた。
「殺す前に痛めつけないと私の気が収まらないな」
しげしげと綾瀬の身体を眺めていた遥の視線がある場所で止まった。
「やっぱり再生しないみたいね」
自分が斬り落とした綾瀬の右手を見る。手首から先はなく血が滲んで袖を染めていた。綾瀬がかけていた『手があるように見える』幻覚は多大なダメージで解けてしまったようだ。
「ここにあったモノが昨日の夢の源か」
遥はイカれているとしか思えない笑顔を浮かべた。
「むむー! うぐー!」
綾瀬はより一層の狂気を感じて、イヤイヤと首を振った。自然と涙も零れ落ちる。
ぐちゅ
獲物の懇願など受け入れられるはずもなく、遥は剣を消して空いた手で無遠慮に丸い肉の断面を撫でた。大きく綾瀬の身体が跳ね、暴れだした。
「動かないで」
遥の警告は耳に届かなかったようで、綾瀬はあらんかぎり絶叫しながら暴れ続ける。
「あくまで、従ってくれないわけか」
ずちゃ
遥は躊躇いもなく、その血が溢れる輪切りの腕をコンクリートの壁に押し当てた。
コツッと骨が壁に当たる音がする。離してみると、スタンプのような後がくっきりと残っていた。
「次はもっと痛いから、ハンカチを噛み締めておきなさい」
言うが早いか、今度は叩きつけるように腕を壁にぶつけた。
身の毛もよだつ醜い音がして肉が潰れ、骨が削がれた。
身に余る苦痛に綾瀬は目を見開いた。その目に涙はあれど光はなく、目の前にいる暴力の化身も壊された手も映ってはいない。
絶望の淵に叩き込まれた瞳だった。
そろそろ殺さないと人が来るかも。そう考え剣を出すため手を離すと、綾瀬は糸の切れた操り人形の如くふしだらに座り込んだ。
「おい! 霜崎!」
遥の予想は早すぎるほどに的中した。おぼろげな光を纏った人影が路地に現れた。
その人物の登場には驚いたものの、それが驚異にもならないことが分かった。
「榊原明人」
路地に入った明人は、例の剣を携え脚立する遥と力無く地面に腰を下ろしている綾瀬を発見した。
「お前が何故ここにいる?」
「どこへ行こうが俺の勝手だろ」
明人は人の形をした死神を恐れることなく歩を進めた。今は綾瀬の無事を祈る気持ちしかなかった。
「俺の大切な彼女を返してくれないか」
明人は遥と1mほどの距離で立ち止まった。彼に付きまとっていた非生物的な蝶々が遥の横を通り過ぎて綾瀬の頭に止まった。
「彼女? お前正気か」
遥がせせら笑ったが、どことなく曇っているように見えた。
「当たり前だ。早く綾瀬から離れろ! さもないと…」
「さもないと、どうするつもりだ? 私を殺すのか」
遥はコートから9mmハンドガンを取り出して銃口を明人に向けた。遥自身は人間を攻撃できないが、これなら無問題であった。
「そんなモンまで……」
明人は少したじろいだ。昨日とは全く別人のような遥の豹変っぷりは、こちらが本性であると分かるものだし、本物の銃はその象徴みたいに見える。
遥が自分を攻撃できないと思いやってきたのだが、そうでなければ勝機などなかった。
「幻象と関わって悲惨な運命を辿る前に私が終わらせてあげる。そのくだらない恋愛を!」
「くそ!」
明人が突進するのと、遥が剣を振り上げ、引き金を引いたのは同時だった。
剣は地面を叩き、遥に殴りかかろうとした明人も止められた。
射撃音だけが尾を引いていた。
「んくっ!」
明人の目の前で綾瀬が崩れ落ちた。
明人に取り憑いていた蝶々を自身に還元し、その僅かなエネルギーで明人を庇ったのだ。
「綾瀬、しっかりしろ」
明人は倒れる綾瀬を受け止め、真っ赤に染まったハンカチを口から取ってやった。
「あ、あきとぉ……、げほっ。ケガ、してない?」
苦しそうに息を荒げながら綾瀬は囁くような声で聞いた。
「ああ大丈夫だ。それより自分の心配しろ」
「良かったぁ。明人が死んだら、きっと妹ちゃん悲しむよ……」
「喋るな」
「嬉しかった、私のこと彼女だなん、て」
その言葉を無視して虫の息で言葉を繋ぐ綾瀬を明人は抱きしめた。
数発の銃弾を受けた綾瀬の背は血がべっとりとついていた。命が流れ出していくようで止めてやりたかったが、どうしようもなかった。
「もう喋らないでくれ。お前が嫌がっても病院に連れていくから、それまで…」
「もう、助からないから、良いよ。それよ、り、妹ちゃんを迎えに行ってあ、ッ…げて」
苦痛のノイズが混じったか細い声。あまりに痛々しく、儚い響きがする。
「藍は無事だ。それより俺のせいでお前がこんなことに」
込み上げる熱いものを明人は必死で堪えた。辛くなって顔を上げると、遥が逃げるように走り去っていくのが見えた。
撃ったのは彼女、撃たせる状況を作ったのは自分。明人はその背中を複雑な思いで見ていた。
「あは、なぐる力もないや……。でも、謝ってくれたし気にしてない、から。わたし、がいなくても、お家には残った蝶々がいる…。完全じゃないけど、事件を隠してくれる」
綾瀬の言葉に視線を戻すと、綾瀬は笑っていた。
「そんなこと言うなって。お前は強いんだから死なないさ」
『どうせ死んでも生き返るだろ』
明人はその言葉が持つ残酷さを理解した。人が死ぬ。それは生き返ろうが何だろうが心を抉る。
それを笑って許してくれた綾瀬は本当に強いのだと感じた。
「結局、明人の彼女だったの1時間も、なかったね。……でも、楽しかった」
「違うな、始まったばかりだ。いつまでも待ってるから戻ってこい」
「明人……。うん、また会いに行くから……」
綾瀬は最期にギュッと抱きついてこと切れた。
力を失った綾瀬の身体は、何ともつかない物質に変化し立ち込める夕闇に融解して消えた。その場に残されたのは彼女が愛用していたヘアピンと藍から借りた服だけだった。付着した血液さえも最初からなかったように無くなりつつある。
「綾瀬……」
止めどなく涙が流れた。悲しい。だが、それも刹那の感情に過ぎない。
俺は過去は振り返らない人間だ。簡単に思い出を捨てられる薄情な男だ。取り返しがつかない両親の死も綾瀬の死にも何の価値も感じない。俺にとって価値があるのは今と未来だ。だから俺が考えるのは常に次何をするか、だ。
綾瀬にいつ会えるのか、そんなもの見当も付かない。それでも彼女と交わした約束が果たされるのは『これから』のことである。
そう思っても完全に立ち直るのは不可能だ。これはガキの強がりなんだ、と心の何処かで誰かが語る。
それでも今は唯一の家族である藍を迎えよう。
「完全に『おくれる』だな。アイツ怒るかな」
涙を拭い去り明人は遺品の服とヘアピンをそっと鞄に仕舞って、路地を後にした。