第5話:再現-return to reality
「コンティニューだよ。私は使命を遂行する」
立ち直ったような綾瀬だったが心の中ではまだパニックに陥っていた。
《虚構の楽園》は人間であることを捨てて手に入れたもの。夢に見ていた超常的な力。それをよりによって半年間も自分に踊らされていた非力な男に突如破られた。それが綾瀬の自尊心に付けた傷は計り知れなかった。
しかも込めた力が弱かったとはいえ《虚構の楽園》が看破された理由は不明だ。
「クヒヒッ。今すぐ幻葬してやるよ」
不気味な笑みを浮かべ両手を拳銃っぽくして遥に向ける。
幼稚に見えるが綾瀬はこのスタイルが気に入っていた。1番弾を放つイメージが浮かびやすいからだ。
「必死な顔して何やってんだか。どうでもいいけどアンタの夢物語はもう幕よ」
言うが早いか遥の姿がかき消え、その拳が鳩尾にめり込んでいた。
「かはっ……」
速すぎて反応できなかった。その衝撃に身体の芯が軋むようだった。
立ったままの体勢を維持できなくなり、拳が引っ込むと綾瀬はリノリウムの床に俯せて倒れた。口腔には苦くて酸っぱい液体が大量に込み上げてきた。やがて溢れたそれは口の端から床に滴った。
その姿はあまりに無様過ぎた。悔しさと惨めさと痛みとで涙が零れ落ち、気を失いたいくらい恥ずかしいが幻象の身体がそれを許さない。
「一太刀で逝かせてあげる。苦しみは、無いわ」
遥は無表情で剣を綾瀬の上に掲げた。
すると剣は次第に歪曲していった。変形が終わると遥の手には3本の歪んだ刀身を持つ曲刀が握られていた。持ち主の4分の3程の長さがあり、銀色の大蛇を思わせるフォルムだ。
その歪な曲刀が現れた時綾瀬の中に巨大な恐怖心が生まれた。絶命に対するものではなかった。
幻象は名前の通り生き物ではない。例え死んだとしても条件さえ揃えば再び顕現することができる。だがこの感覚は違う。幻象である自分の存在の根幹が揺さぶられる恐怖であった。
「……何をする気なの? 斬ったくらいじゃ死なないんだから」
「ふふっ、今に分かるわ」
綾瀬は精一杯の強がりを吐いて、怨念の籠った瞳で遥を睨み上げた。
すると、応じるように遥の目がスッと細くなって笑った。無慈悲で冷酷な死神の微笑みだった。
遥の足が綾瀬を乱暴に転がして仰向けにさせた。左腕が変な格好で身体の下敷きになり鈍い痛みが走った。
そして、歪な剣の切っ先を綾瀬の半分露出した左胸に向けた。
綾瀬が消滅を覚悟したその時、意外な所から救いの手が差しのべられた。
「霜崎さん、剣を戻してくれ」
声の主は榊原明人だった。その声は震えてはいるものの強い意志が感じられた。綾瀬を死の淵に追い詰めた元凶が今度は救おうとしていた。
偶然だとしても皮肉に感じられ頭にきた。
「何で?」
遥は振り向きもせず凍てつくような静かな声で聞いた。
「その子は何もしてないだろ。ナイフを向けた、ただそれだけだ」
「分かってないわね。どういうモノかは知らないけど榊原くんも幻覚を見たはずよ」
「ああ、見たよ。妹が殺されたし、親を殺した女の子と平然と抱き合った」
綾瀬が作った悪夢を思い出したのか明人の顔に苦々しい表情が浮かんだ。
「それはコイツが見せたモノよ。許せないでしょ?許せるわけないんだよ!」
「ぐえっ」
急に冷静さを欠いた遥はいきり立って、綾瀬の脇腹を蹴り上げた。
重い一撃だった。幾つか肋骨が折れたような感覚を覚えた。
「やめろって言ってるだろ! それにな現実には誰も死んじゃいない。ただの幻覚なんだよ」
対する明人は冷静だった。自分が非日常に踏み込んでいることには気付いているだろう。おそらく遥の話も事実として受け入れかけている。
それでも彼は綾瀬を庇っていた。
綾瀬にはその心境は知り得ないが彼が心根の優しい人なのだとは分かった。
「うっさい! 何にも知らないくせに」
まるで敵を見るかのような憎々しい顔で遥が向き直った。
「そりゃ分からないさ。急に変な剣が出てくるし、殺し合いは始まるし。でもな目の前で人が殺されそうなのをほっとけるわけないだろ」
明人はキッパリと言い切った。だが、これで遥と決裂してしまえばすぐに殺されてしまうだろう。そうなれば綾瀬の消滅も確定する。綾瀬は彼の短慮に失望した。
「コイツは人じゃない。有害なだけのモノよ」
もはや自分で道を切り開くしかなかった。部屋に展開している《虚構の楽園》をさっき遥を仕留める時に使ってしまった。後は自ら因子を放つしかない。
綾瀬は無事な右手で銃を作り遥に向けた。
刹那、白銀の光が一閃した。
「いぎゃあああ!?」
弾丸は出なかった。そこにあるべき銃身の役割を担う人差し指がなくなっていたから。
「本当にバカね」
遥がせせら嗤い、再び閃光が走る。
その精密な剣捌きに何か思う間も無く、次は綾瀬の右手首から先が斬り落とされた。
「ーーーッ!」
想像を絶する痛みに言葉にならない唸りを上げて綾瀬は転げ回った。
鮮血が噴き出し、みるまに部屋を深紅に塗装していった。
「霜崎!」
その光景を見るなり明人が遥に突進した。殴るなり蹴るなりして凶行を止めさせるつもりなのだろう。
しかし、それは人の身では無謀でしかない。
彼の拳が遥に届く前に刀身を収束させた剣がその胸を貫いていた。
明人は愕然とした表情で自身の身体に埋もれている剣をぼんやりと眺めていた。
「さよなら」
遥そんな彼を見上げて静かに永劫の別れを告げた。
しかし、そこで不測の事態が発生した。曲刀が光を放ち部屋が昼間のように明るくなった。
「があぁっ!?」
遥は低い悲鳴を上げて壁に叩きつけられた。そしてその華奢な身体が壁を伝ってズルズルと崩れ落ちた。
明人を刺し貫いた曲刀も遥の傍に転がっていた。
時が止まったかのような静寂が部屋に満ちた。この場にいる者全員が状況を飲み込めず困惑していた。
最初に静けさを破ったのは綾瀬だった。
「早く逃げて!」
綾瀬は劇痛に苛まれながらも立ち上がって叫び、自分も出入口に向かって走った。だが自身の血液で塗装されたリノリウムの床は残酷なまでに滑りやすかった。数歩も行かないうちに前のめりに転倒してしまう。
綾瀬は思わず先程捻った左腕で身体を支えてしまった。
「くあっ…うっ!」
鈍痛が腕を駆け抜けた。そしてそのままバランスを崩して倒れ伏してしまう。
染み込んだ血でワイシャツが肌に張り付くのと、錆鉄のような独特の悪臭が不快感を催した。身体から力が抜けていき起き上がることはおろか這うことさえままならない。
「待ってろ今行く」
呆気に取られていた明人が傍まで走って来た。幸い彼は滑らなかった。
綾瀬の傷ついた両腕に触れないように何とか起こそうとしているが時間の無駄だ。
「腕はいいから急いで!」
綾瀬は切羽詰まった調子で叫んだ。
彼女には遥が剣に寄りかかり立ち上がるのが見えていた。衰弱してはいるがその姿からは顕になった殺戮の執念が感じられた。
「ごめん痛いかも」
遂に意を決したらしい明人は綾瀬をお姫様抱っこした。
斬られた腕が明人の制服と擦れた。それだけでもかなりの苦痛だが綾瀬はビクッと震えただけで暴れなかった。
明人は立ち上がるとドアに向かって慎重に走った。
「逃がすか!」
遥の鋭い声に明人が怯えているのが分かった。綾瀬も怖くて仕方なかっただが今は明人に身を委ねるしかない。
どうにか廊下に明人は飛び出した。
綾瀬はその腕の中で首を捻って後ろを見ると曲刀の3つの刀身が蔓のように伸びて恐ろしいスピードで迫っていた。
だがそれが二人をを貫くことはなかった。
「我が異能《虚構の楽園》の真骨頂を拝みなさい!」
とっくに準備を終えた綾瀬は力強く言い放った。するとたちまち『楽園』が発生した。
床に広がる血の海が壁を遡り、天井を這った。だだっ広い教室は紅く染められた。
「何?! きゃあぁぁ!」
綾瀬の血から沸き上がった完全な闇が教室全体を呑み込んだ。恐怖に満ちた遥の断末魔もその中に吸収された。
その暗黒の中で何が起きているのか。それは《虚構の楽園》の主である綾瀬のみが知り得ることだった。
その綾瀬は明人の腕の中で力尽き意識を失った。
静寂が戻ってきた。聞こえるのは自分自身の興奮と疲労を含んだ息遣いと早鐘のような鼓動だけ。
開け放たれたドアの向こうには闇が満ちており、時折霧が風に吹かれて渦巻くように揺れ動く。
それを見ていると段々と頭がぼんやりしてきた。
中にいるであろう遥の事が気になった。自分を本気で殺そうとした奇怪な剣を持つ少女。
彼女の言っていたことはかなりファンシーだったが、実際に目の前でまざまざと怪奇現象を見せられてはこの世に色々と超常じみた物事があると信じざるをえない。それにあの剣が心臓を貫通した時にはどうなるかと思ったが少しの痛みもなく、今もこうして生きている。実に不可解だった。
まさか自分がファンタジーに有りがちな『強大な力を持っているのに気付かず普通に生活している人』というわけではないだろう。いや、ないと信じたい。
まあ、目の前であれだけ異常を見せられては死なない理由など幾千と考えられる。
思索に耽っていた精神が身体に帰ってきた気がした。と同時に腕に重量がかかっているのを感じた。
見れば綾瀬が眠っていた。彼女の状態を考えれば寝ているというより気絶しているのだろう。
全身血まみれ、右手首から先は欠損し、顔も大量出血のせいか色がない。
止血もしていないし、常人というか人間ならとっくに死んでいるはずだが綾瀬は浅いながらも安定した呼吸をしている。腕の出血も止まっていた。
やはり化け物なのかもしれないと思った。それでも、関わってしまったのだから後始末はするつもりだ。
「まずは病院かな」
不思議と慌てる気持ちは生まれなかった。今日1日で色々な事がありすぎて感情が麻痺しているのかもしれない。
明人は暗闇に閉ざされた教室に見切りをつけ、ひどく緩慢な動きで階段を降りていった。
職員室には行かないつもりだ。校内でゴタゴタが起きたとなれば面倒なことになる。特に現場のあの部屋に人を入れるのは気が退けた。
とりあえず学校を出て他の場所で病院に電話をすることにした。
都合良く廊下にも昇降口にも人はおらず、明人はさっさと靴を履き替え校舎を後にした。
現在午後9時数分前。学校は緋森市街から離れた場所にあるためこの時間帯は周辺に人気がない。
住宅はあるものの帰宅ラッシュも終わり、大抵の人は家に入ってしまっているだろう。
「こ、この辺で良いだろう」
人目を避けて綾瀬を学校の近くの路地に運び込むことには成功した。
なかなかスリルがあって楽しかったが腕が痛い。おぶる事も考えたが何となくお姫様抱っこの方がカッコいい気がしたので脳内で却下された。
ボタンを上2つ外すという滅茶苦茶な服装をしている綾瀬を見て、何らかの邪な感情が働いていたのを抑えるのが大変だった。というのは秘密だ。
明人は綾瀬を壁に寄り掛からせて、ケータイを開いた。119と番号を打ち込むと女性が対応に出た。
「どうされました?」
「大怪我を負った女の子を見つけたんです。場所は緋森高校の北にある路地です」
「どんな怪我ですか?」
「腕を切断されいて意識がありません」
「分かりました。すぐに救急車を向かわせます」
「ありがとうございます」
電話を切ってケータイをしまう。
応対してくれた女性はかなり緊迫した様子だった。それはそうだろう。こんな片田舎では稀にみる凶悪事件なのだから。
「さて、と救急車が来るまで10分くらいか。どうすっかな……」
「……ぅん」
しばらくすると、小さな呻き声を上げて綾瀬が目覚めた。やはりまだ蒼白な顔でぼんやりしている。
「ここ……どこ?」
「学校の裏手だよ。先生に見つかると面倒なんで、ここで救急車を呼んだ」
「ふ〜ん……、病院行きたくない」
「どうしてだよ?」
「コレ。見て分かんないの?」
綾瀬は無くなってしまった右手を振ってみせた。
白い骨と黒く固まった血肉のコントラストが気持ち悪かった。痛むであろうその傷を平然と見せびらかす綾瀬にも悪寒を感じずにはいられなかった。
それで明人は目を背けてしまった。
「ふふふっ、ごめんね。でも人間なら死んじゃうよね、普通。だから行きたくないの」
そんな明人に反省の色が見えない愉しそうな謝罪をして、綾瀬は笑った。
「やっぱり人間じゃないのか……」
「元人間よ。そうだ、名前言ってないよね? 広橋綾瀬よ。よろしく榊原明人くん」
綾瀬はにこやかに千切れた腕を差し出した。
それがあまりにシュールで明人は苦笑するしかなかった。
「それで、人間じゃないなら何なんだ?」
「おおっ、遂に諦めて世界の裏側に踏み入る気になったのかね? でも今はだぁめ。だって……」
綾瀬が耳を澄ます仕草をする。なるほど救急車とパトカー、2種類のサイレンが聞こえてきた。
その音にえもいわれぬ焦りと緊張を感じさせる力があった。
「どっか行くあてあるのか?」
「そりゃもちろん……」
綾瀬は意味深な眼差しを向けてきた。
「俺の家か」
嬉しいのやら悲しいのやら、よく分からない表情が明人の顔に浮かぶ。
「大正解。そうと決まれば早くしてよ」
綾瀬はそんなこと気にも留めておらず、傷ついた両腕を伸ばしてきた。
「今度は何?」
「おんぶして。腕が使えないと歩くのもキツいの」
座った姿勢から上目遣いで甘えたようにねだってくる血まみれ美少女。
「……卑怯だな」
明人には折れる以外の選択肢はなかった。