第29話:依代-fallen angel
《幻象》、《墜落の魔姫》の滅び。
崩落する彼女の法則を見ることはできないが、誰もが肌で感じ取れた。
ドーム屋根が崩れていくような感覚。彼女が落としていた影が消え、日の光が射してくる。
《魔姫》の身体は寒風に吹かれて形を失い、赤い霧の街に消えた。この不吉な霧もまもなく晴れるだろう。
「次はあんたよ」
「……」
《起源》は宣告を受けても、潰れた車に寄りかかって宙を見ていた。
「そんな無気力じゃ相手は務まらないわよ!」
一足飛びに《起源》に迫り、遥は《毒蛇》を薙いだ。
彼我の間に聳える《不壊》は、何も変わることなく主人を守る。
「ちっ」
「あっしが《魔姫》の暴走を止めなかった理由が分かりやすか?」
「何の話?」
「《幻象》には特別な人間を選別してきやした。その中でも彼女は抜きんでていた。あれは欲の塊。本能に根差した単純明快な欲望でさぁ」
「それがどうしたの」
「あの程度で終わるとは思ってないのですがね」
訳知り顔で目を細める《起源》を前に、遥は攻め手を止めた。
重力に任せて倒れ伏す音が1つ。
「藍ちゃん!」
駆け寄った小夜は、藍を優しく膝枕をして安定させる。
藍は眠るように脱力している。ともすれば呼吸さえ止まっているように見えてしまう。薄く目を開けているが、それも焦点が定まっていない。
「い、今治すから! 待ってて」
《魔姫》の消滅に伴い、藍も《柘榴》からじき解放されるはずだが、小夜は待っていられなかった。
手のひらから降り注ぐ月の光。だが藍に巣食う《柘榴》の根は想像以上に深かった。
「効かない!? もっと、もっと強く!」
焦りの声が惨澹たる大路に木霊する。
光は真夏の白陽の如くになって、藍もろとも消し去りそうなほどに強まっていく。
その白の手を、横から黒の手が掴んだ。
「やめろ。お前の力は浄化であって、治癒ではない。その娘は脳そのものにダメージを負っている。残念だが……」
「うるさい!」
浄化の腕は凶刃と化し、アキラの脇腹を貫いた。
身体を内側から焼かれる痛みが苦痛を顔に刻む。だがアキラは逃れようとはしなかった。
「主人がいなくなったから善人面!? あんたなら無関係の藍ちゃんが巻き込まれるのを止められた。違う?」
「確かに……だけどあたしには……」
「消えろ! あんたも、この霧も、《魔姫》の触ったものはみんな消えろ!」
小夜の感情の高ぶりが、光の奔流となって発露した。浄化というには強すぎる、あらゆるものを見境なく消し去る、滅びそのもののような力。
それが流出しようとした時、突然小夜は目を見開いて動きを止めた。
光は萎え、大路に紅い闇が戻ってきた。
静寂からワンテンポずらして、小夜の背中を突き破って棘のようなものが出現した。それ自体が紅い上に、小夜の血を浴びて一層ぬめるような光を帯びている。
小夜は無理矢理のけ反り、藍から離れるように倒れた。
仰向けになった露わになったのは、穴が開いた腹部。破れたポリ袋のようで、異臭と黒い血がとめどなく流れて出している。
小夜は吐血し、激痛にのたうった。悲鳴は口腔に湧き上がる血液で溺死寸前の叫びにしかならず、余計に悲惨さを増していく。
元々白い顔がさらに血の気を失い、自らの血で赤黒い死に化粧が施されていく。
藍の腹から突き出した棘は紅霧に溶けるように消え、藍の身体に戻っていった。
ゆらりと立ち上がった藍は、普段の生真面目さも先ほどの空虚さも纏ってはいなかった。動き回る操り人形に意思があるように見える。そんな様子だ。
「やめてください」
いち早く異変に気付いたアキラが、小夜に負わされた傷も顧みず一歩踏み出した。
その時半身を分けるような違和感がアキラを襲った。見れば自分の身体から生えた黒い犬の頭が2つ、外へ出ようと暴れている。
脱力感に苛まれているアキラをしり目に、藍は颯爽と歩を進めていく。
藍の変化は綾瀬の能力下にある明人にも伝わっていた。妹への心配を糧に《楽園》の鎖を引き千切らんばかりに反発する。
「あれはもう妹ちゃんじゃないよ。危ないって」
「そうだとしてもほっとけないだろ!」
《雷霆》から脅し程度の電撃を放つ。攻撃されると思ってもみなかった綾瀬は、驚いて手綱を手放してしまった。
《楽園》の庭から躍り出て、明人は妹の元へ駆けた。
「どうして!? 確かに滅ぼしたはずなのに」
藍から発せられる気配は紛れもなく没した悪魔のもの。《毒蛇》の力を信じ切っていた遥は動揺を隠せなかった。
「正真正銘の外道でさぁね」
怖い怖い、と言いながらその隣で和服は肩を震わせていた。
藍が地面から何か拾い上げた。
夜空に翳されたのは《魔姫》の鎌に施されていた赤の宝玉。主人の帰還に手を叩くが如く明滅している。
その光から不吉なものを感じた遥は、すぐさま発砲した。
狙いは正確。しかし宝玉を砕く前に、黒い影が銃弾を飲み込んだ。影は敵意剥き出しの唸りを上げ、いつか寺で出会った黒犬に姿を変えた。
それを見るや遥は藍に向って猛進した。
黒犬2体の挟撃を躱した先には、明人が《雷霆》を道路に突き刺していた。
「それだけは許さない」
紅い大気が震えると同時に遥は地面を蹴って跳躍した。
膨大な電気エネルギーが地表を覆い、アスファルトを煮やしたが、空中までは届かない。
空中は自由はきかないが、明人に自分を撃つだけの技量があるとは思えなかった。滞空しつつ藍を射程に入れ、《毒蛇》を仕向ける。
だが自分の真下に異様な熱を感じた時、遥はそれが間違いだったことに気付いた。綾瀬の指導のせいか、明人は《雷霆》の制御を習得しているようだった。
地面から上る雷を前に、遥は捨て身で藍への攻撃を続行した。
避ける素振りも見せず藍は、迫る刃を見ていた。そして目の前で凶器諸共、雷撃に沈む遥を瞳に映す。
手のひらに収まっている紅玉を胸に抱き、目を閉じる。
大気を裂く轟音も誰かが呼ぶ声も締め出して、少し温かい球体を素肌で感じる。
紅玉が胸に吸い付く。異物を埋め込まれる不快感はない。身体中を満たしている《柘榴》が、この物体を歓迎している。
結集の呼び鈴が波動となって藍から放出された。それに応えて、街を染めていた紅霧が藍に吸収されていく。
周囲の霧が消え、開けた視界には更なる異変が飛び込んできた。
八方から押し寄せてくる紅。血の池地獄の津波とでも形容すべきものが、こちらに向かってきている。
建物を破壊こそしないが、それの発する重圧は深海でも生ぬるい。一体どれほどの《柘榴》をばら撒いたのか、明人は改めて《幻象》の恐ろしさを認めた。
「うっ」
藍に辿りつく前に、津波が明人を飲み込んだ。吹き飛ばされそうな風を姿勢を低くして耐えながら、嵐の中心にいる妹を確かめる。
街を包んでいた《柘榴》の粒子全てが、竜巻のように旋回する。その中心で両腕を広げる藍の姿が垣間見えたが、すぐに紅に遮られた。
霧が晴れた時、混乱と戦闘で廃墟同然になった街が露わになった。
元の色彩を取り戻した月の下、全員の視線は藍に集中した。
俯きがちな身体を少し汚れた学生服が包んでいる。留められていた髪は全てほどけて、前身にかかっている。
白い指が髪を掻き上げた。開いた胸元には深紅を湛えた楕円の玉石、あげた顔には刺すような蒼さの双眸。
甘えたような声を出して影の犬が2匹、その身を藍に摺り寄せた。
「まだ終わらないわ。生きて生きて、生き続けて……!」
開いた口から響く声。守りたかった響きが、悪魔の叫びを代弁していた。