第23話C:紅霧-scarlet disorder
「大変なことになりやしたねぇ」
主のいない榊原家で《起源》はソファに腰掛け、呑気に煙管を弄んでいた。
人の家ということで一応は我慢しているらしい。
「落ち着いてる場合ですか。はやくこの霧をなんとかしないと」
それを注意する小夜はもどかしそうに窓の近くをうろうろしていた。
あちこちから上がる紅い狼煙が、空前の大異変の始まりを告げていた。
その数は尋常ではなく、人口密集地を中心に凄まじい速度で拡散している。
地上8階の榊原家からその様子を見ていることしかできない。
小夜は唇を噛んだ。
「確かにあなたの力ならこの霧――というか《冥界の柘榴》に対抗できまさぁ。しかし、この霧のシステムはちょいとあっしらの手に負えない」
「システム?」
「ここに来る前に見たんですがね、霧を吸った人間が霧の発生装置に変わるんでさぁ。それも見るに堪えない醜い姿になって」
息をのむ小夜。
つまり街中の人間を浄化しなければ霧は消えず、霧を消さなければ装置になった人を浄化しても何度でも機能を取り戻す。人も霧も一度に浄化しなければ、終止符を打てない。
不可能だと絶望しかけた小夜だったが、あることを思いついた。
「でも《魔姫》の居場所は調べがついているんでしょう? 彼女さえどうにかできれば……」
廃寺で会った時、《起源》はそれを調べていたはずだ。
《天網》は気に入らない人物だが、その能力は高い。あらゆる情報網を見張る彼ならば、人1人の居場所を特定するくらい容易い。
「それがね、いや、分からないんですよ。《天網》はどうやらあちらに加担しているようで、一切連絡が取れないんでさぁ」
やはり焦った様子もなく《起源》は小夜の希望を切り捨てた。
「……だったら私達はどうすればいいんですか? このまま指を咥えて見ていろとでも?」
「それしかありませんな」
《起源》は抑えがきかなくなったのか、ついにマッチを擦って煙管に火をつけた。
紫煙を吸い込んでは満足げに吐き出す。
小夜には理解できない刺激臭が部屋に漂う。
「どうしてそう能天気なんですか!」
その態度があまりに悠長で、小夜は声を荒げた。
「あなたはもっと冷静な人だと思っていたんですがね、《天使》。今は座して待つ時だと思いませんか」
《起源》はやんわりと小夜を諌めた。
「《魔姫》はこの霧を広げるので手一杯。おそらく彼女が姿を現すのは自分に有利な場が整ってからでさぁ。
ですが、彼女の性格からしてそれまで大人しく待っているということはないでしょう。《復讐の女神》の能力をもってすれば、あっしらの位置を特定するのは容易い」
小夜の中でパズルがどんどん組み上がっていった。
「つまり私たちを狙ってきたところを返り討ちにすると?」
「御明察。《女神》の洗脳を解きさえすれば、おのずと異変は終わりましょう。《女神》の手で」
果たしてそううまく事が運ぶだろうか。
小夜が不安を抱くのも無理はない。
偶然の積み重ねで成り立つ計画。綻びはいつどこででも生じ、結果全てを破滅させるだろう。
「心配いりませんぜ。何年彼女に付き添っていたと思います。それ故悲しくもありますがね」
《起源》は憂いを漂わせる表情を浮かべた。彼の中では異変などとっくに終わっているかのようだ。
小夜は思う。彼は《魔姫》らを滅ぼすつもりなのだろうと。
それは仕方のないこと。これほどまでに大規模な異変を起こせば、人間・《幻象》双方に深い傷痕を残すだろう。
それならば私はどうなのだろう。
榊原家に不幸をもたらした罪は決して許されるものではない。
粛清されたところで未練はあれど文句は言えない。だが自分だけが残されたのでは、あまりに後味が悪い。
「ところで《楽園》はどうしました? 襲撃に備えて準備してもらいたいのですが」
「え? さっきからそこに座って……!」
小夜は《起源》の隣を指差した。
彼女はそこでテレビを見ていたはずだった。
だがその姿は影も形もない。
「くく、彼女らしいと言えばそうなんでしょうが、いやはや困ったものだ」
呆れを通り越した《起源》の苦笑。
それが小夜には何か満足げな響きに聞こえたのだった。
目を閉じ、遥は視ていた。
黒いフィールドの中で一際輝く光点が2つ。自分のすぐ傍にいる。
「どう、視えているかしら?」
幼い声に是と頷き、遥は視界を広げていく。
この建物を出たところから、急にフィールドが薄く霞んだ光に包まれた。
言うなれば《魔姫》の一部である魔性の霧のせい。私の目が捉えるのも無理はない。
索敵に支障はないので、視覚可能域を一気に拡大する。
薄明るい視野に、光る点2つ接触しているのを発見した。
《起源》? 《天使》? それとも《楽園》?
誰かは分からないが位置は特定できた。
遥は瞼を開かけた時、別の点に気付いた。
不安定に明滅を繰り返す弱い光。それで今まで認知できなかったらしい。
《幻象》しか映りこまないフィールドにあるのだから、その点もそうなのだろう。だがそんなものを見るのは初めてで、遥には正体が分からなかった。
頭の片隅にでも置いておこう。
そう思い、遥は改めて目を開けた。
「見つけたか?」
しなやかな肢体に密着する黒のスーツを着込んだアキラが確認する。
「うん」
「なら行ってきなさい。《起源》は滅ぼしてもいいけど、《天使》は連れて帰ってね」
《魔姫》は足を組んで椅子に座ったまま命じた。
「了解」
遥とアキラは連れだって紅い外界に赴いた。
初動から約5時間。時刻は午後2時をまわった。
魔薬の霧は緋森市をドーム状に覆っているが、《魔姫》が言うには密度はまだまだなのだという。
それでも太陽の光はほとんど通らず、冬の境界に踏み込んでいることもあり気温は極端に低い。そのうち紅い雪が降るかもしれない。
狂気じみた冷気と快楽にあてられて動けなくなる魔境が広がっている。
常人には耐えがたいが、《魔姫》の僕と化した者にとっては、自動で燃料を補給してくれる天国である。
そんな魔界の恩恵を賜って、猟犬と毒蛇は獲物目掛けて疾駆する。