第23話A:紅霧-scarlet disorder
最終章に入ります。
「この場合三平方の定理を使って、うん、できていますね」
1限。清水という若い男性教師が生徒に書かせた問題を解説している。この授業は解説しかないため、最初の指名さえ抜ければ退屈な時間が続く。
明人も例に漏れずそんな生徒の1人だった。
予習をしていないせいで、元から複雑な問題が何をやっているやらさっぱり分からない次元に昇華していた。
今から黒板のを写そうかと思い、いやいやそんなことしても力は付かないと却下する。かといって後でやるはずもないのだが。
葛藤というのもおこがましい怠惰な思考。原因は分かっていた。
《幻象》の強烈な印象に比べると、今までの世界が空虚に思えてしまうからだ。
綾瀬、小夜、遥……彼女らのような存在を垣間見、その力の一端に触れた。日常は砂上の楼閣で、ふとした拍子に倒壊してしまうのではないか。
だから何も手に付かない。いつか訪れる可能性のある世界の反転を前に、この日常にしがみつく意味があるのだろうか。
明人は吐息した。
馬鹿か。悪口ではないが、綾瀬のような病的な妄想をするのもいい加減止めなくてはいけない。
彼女とは住む世界が違うのだ。影響を受けすぎるのは、日々の生活に齟齬をきたすかもしれない。
そういえば、結局昨日は何もなかったな。
薄く結露した窓の外を見やり、懐古する。
甘い囁き。熱い吐息。誘惑していたのかもしれないが、綾瀬はあのまま寝てしまった。
疲れていたのだろう。毎晩小夜と出掛けては、遅くまで浄化を手伝っていたのだから。
それで明人も睡魔に身を任せることにした。
滲んでいく夢と現の境界線。おぼろげな色のヘアピンがゆらゆらと漂って……。
ガタンッ
椅子が倒れる音で明人は目を醒ました。
いつの間にか眠っていたらしい。時間的には5分も経ってはいなかった。
見れば、教室の真ん中辺りで男子が席を立っている。机と椅子がひっくり返っていた。
藤堂は大抵クラスに1人2人いる、所謂素行不良だった。授業もサボりがちで、今日も1限から出てきているのは珍しい。
そんな生徒だから、清水も何か問題を起こされるのではないかと構えたようだった。
クラス中の視線を浴びながら、藤堂は土下座でもするように身体を折り曲げて床に座り込んだ。静まり返った室内にゼイゼイという荒い息遣いが漂う。
「具合が悪いなら、保健室に……」
本当に体調が悪そうなのを目にして、清水は藤堂に歩み寄った。
しゃがみ込んで肩に手をやった清水が、静電気でも受けたように跳ねた。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもありません」
近くの女子の問いに、冷や汗を垂らしながら答えた。清水は明らかに動揺している。
「保健室に連れて行きますので、静かに自習していなさい」
腹を括ったような表情で藤堂の脇に腕を入れ、肩を貸しつつ清水は立ち上がった。
だが体格が良い上にほとんど力が入っていない藤堂の身体は想像以上に重く、逆に清水がぐらついた。
「先生、手伝いましょうか」
「いけません!」
滅多に大声を上げない清水が物凄い形相で拒絶した。
手を差し伸べかけた男子生徒は驚いて引き下がった。
何が気弱な教師をここまで駆り立てるのか、明人には分からなかった。しかしただ事ではないという空気は感じられた。
周りでも好奇や不安が入り混じったざわめきも大きくなる。
それでも何とかドアの前まで来た時、藤堂が目を覚ました。死人のような顔で何か言いたそうに清水を見る。
「大丈夫ですか? 1人で歩けますか?」
聞いた瞬間、藤堂が血煙を浴びせかけた。
あまりのショックに藤堂を投げ出し、清水は煙から逃れた。藤堂は床にうずくまり、喘息のような呼吸と共に不気味な赤い気体を吐き出し続けている。
「早く出なさい!」
清水が叫んだ。
半ばパニックに陥った生徒達が前の扉に殺到した。外れた扉が倒れ、大きな音を立てる。
窓側にいた明人は、それを見て逆に冷静になれた。
廊下に出ると追撃を掛けるようにガラスが割れる音や絶叫が木霊した。
見れば隣に並ぶ教室からも、生徒と教師が逃げ出してきている。
「決められた通路を使ってグランドに避難! くれぐれも落ち着いて移動するように!」
現場の声に少し遅れて、逆にパニックを招きそうな警報と校内放送が鳴り始めた。
肌寒い風が吹き抜ける校庭に緋森高校の生徒と教員が集まっていた。何が起きたのか理解できている者は1人として居ない。
教員達は各々のクラスの点呼を繰り返している。
錯乱して校外に逃げた生徒が何人もいるらしかった。
どこへ逃げようが関係ない。
明人は街を見て、叩き落された気分になった。
住宅地も商店街もオフィス街も、街中至る所から赤い煙が立ち上っている。少なくとも徒歩で行ける範囲に逃げ場は無いように思えた。
それならここで集まっていたほうが、不安を共有できて多少気も紛れるだろう。
明人は藍の安否が気になっていた。
生真面目な藍が指示に従わずに行動することはないだろうが、やはり自分の目で確かめたい。かといってちょっと見てこようと出歩けるような雰囲気でもない。
回線が混雑しているらしく、メールも電話も繋がる様子がない。
どうしようかと決断しかねていると、担任が出席簿を持って点呼に回ってきたので、明人は小声で話しかけた。
「先生、ちょっと確認してもらいたいことがあるんですけど」
「何ですか」
「1年4組の榊原藍のことなんですが」
「確か君の妹だったね。分かった。聞いてきます」
忙しいだろうに担任は二つ返事で聞き入れてくれた。
明人はお礼を言って、ほっと一心地つけた。
それから校外に逃げた生徒が何人か戻ってきたり、教員達が今後のことを話し合っていたりしたので大分時間が経った。
体育館でも例のガスが発生しているので、今しばらくはここで待機。そんな救いようのない指示が出たところで、担任が戻ってきた。
「榊原君、言いにくいのですが……」
そう切り出した担任の顔はかなりやつれているように見えた。
もう結果は見えていたが、彼の言葉を待った。
「藍さんの行方は確認できていないそうです。でも気を確かに持って、先ほどから校外に逃げた生徒も帰ってきていますし、すぐに会えますよ」
気休めのような助言を残して、担任は教師の集まりに戻っていった。
考えまいとするほどに嫌な予想が膨れ上がっていく。
血のような息を吐き出していた藤堂。藍がああなってしまったら、そう考えると震えが止まらなかった。
いつもと変わらない1限目終了のチャイムが鳴った。異変の只中において何か意味があるとすれば、それは恐怖劇が次なる幕に差し掛かった合図でしかなかった。