第22話:聖沌-sacred and swirling
緋森市街を囲む田園風景は、街の明るさとは裏腹に夜の帳を色濃く下ろしていた。
街の中では壊れかけのライト程度の光量しかない月も、この宵闇ではほんの少しだけ活躍していた。
いつからか夜に沈んだ森の一角がぼんやりとした光に包まれていた。飴細工の美しさ、儚さを体現した光だった。
その光の中は、日付も変わろうかという時間帯にも関わらず人で溢れていた。100人かそれ以上いるだろう。
全員が全員夢遊病を発症したような忘我の表情で立ち尽くす様は、不気味以外の何者でもない。
「順調……今夜で浄化が完了するのに、《墜落の魔姫》たちが動く気配もない。綾瀬はどう思う?」
ゴシックロリータ。黒と白のひらひらした衣装を着た少女が、不気味な群集に向かって手を翳しながら心配そうに言った。
日本人というより、白人にもいないような白すぎる肌。色こそ灰色であるが艶のある髪。眼は血液が透けて赤く染まっている。
少女は、いささか人の形を逸脱していた。
「邪魔がないのはいいことでしょ」
綾瀬と呼ばれた女の子は、しゃがんで何かしながらしれっと答えた。彼女は先の少女――小夜に比べるとごく普通の人間に見えた。
寒そうな格好の小夜とは対照的に、ジャンパーにマフラーを着ている。
外見で言えば、茶色の髪につけた大きめの赤いリボンが目立つことと、絶えず天真爛漫な笑みを浮かべていることくらいである。
その時、トランス状態で月光浴をしていた群集に変化が起きた。
その中の1人が身体を折って苦しみだし、延焼するように伝播していく。
浄化が第二段階に入ったのだ。
小夜の異能。月による浄化という独特の理論を実行し、彼らの体内に巣くう《魔姫》の《冥界の柘榴》を消滅させる。
重度軽度の違いはあれど、《柘榴》は心身に深く根を張っている。やめようとしても、生じる痛みで心が折れるという麻薬の性質が強調されている。
ここのところ毎晩浄化をして回っているが、他でもない自分の手で苦痛を与えているという感覚は相変わらず耐え難いものだった。
顔を背けそうになるが、集中しなければ彼らの苦痛を伸ばすだけなので、小夜はしかと見つめなおした。
「やな感じなのは分かるけど、仕事だって割り切っちゃえば平気だよ」
小夜の心中を察したのか、綾瀬は笑って言った。
言いながら綾瀬は群集の頭上に石をばらまいた。百何十の虚ろな目が、一斉に宙を舞う石を凝視する。
落下地点にいた人々は、我が口にと口をパクつかせて待っている。鯉の池に餌を撒く光景を彷彿させる。
石に噛み付いた人たちの歯が砕けた。
「何してるの!」
小夜はぞっとして叫んだ。
小石を《魔姫》の《柘榴》に見立てて投げているのに気付いたからだ。
何故怒られているのかまるで理解できない。そんな苦笑にも似た微妙な表情で、綾瀬は小夜を見た。
「この人たちがどれだけ苦しんでるのか分かるでしょ? 後悔しても後悔しても、やめられない薬に翻弄されて。今だって解放の代償に痛い思いをしてるのよ。そんな気持ちを弄ぶなんて」
「自分でも試したみたいな言い方だね」
「ええそうよ。私もついこないだまで《魔姫》の所にいた。でも今は、こうして過ちを正してる」
小夜はそう確信して言ったのだが、中身の見えない綾瀬の瞳を見ているとそぞろに不安を覚える。
「過ちね……。自分の願いに沿って行動してるだけなのに、そんな風に取られて、彼女、心外だと思うな」
「《起源》は人間に危害を加えないように生きろ、とも言ったわ。《魔姫》は害悪をばら撒いてるだけじゃない」
「でも薬がもらえたらそんなこと気にならなくなるんじゃない? こんな風に」
いつの間にか、綾瀬の手にはルビーのような色合いの顆粒のようなものが乗っていた。
それこそ、ここに集まる人々を《魔姫》の奴隷に堕した《柘榴》であった。
「何がしたいの。私はとっくに卒業済みなんだけれど」
ピリッと走った微弱な電流を無視して綾瀬を睨みつける。
「あははっ、怖い顔〜。ならこんなのはどう?」
綾瀬が指を鳴らすと、辺りに生える木々に続々と禁断の果実が実りだした。収穫が終わって閑散としていた田んぼでは、深紅の稲穂が夜風にそよいでいた。
気の触れそうな赤一色の誘惑界が顕現していた。
《虚構の楽園》なる名前を持つ彼女は、世界を侵蝕する幻を操る《幻象》である。
浄化の対象を集めただけあって、その出来は本物に勝るとも劣らない。
小夜は消し去ったはずの欲求がフラッシュバックしそうで、言い知れぬ恐怖を感じた。
それを誤魔化すため、月光で作り出した剣を綾瀬の喉元に突きつける。
「こんなことをして、何が目的なの?」
「私は邪悪?」
小夜が対象を邪悪だと認識しない限り、小夜の能力は殺傷力を持たない。
今、小夜は怖くて剣を向けた。恐怖の源を邪悪と認知することは難しいことではない。だが、自分の勝手な都合で他者を傷付けるのは小夜の最も忌み嫌う行為であった。
いじめの記憶。彼らは小夜の異貌に恐れをなし、邪なものとして排斥しようとしていたのだろう。
それを知ってか知らずか、綾瀬は生命の危機などどこ吹く風と不敵に笑っているのだった。
「質問に答えなさいよ」
「目的かあ……明人から引き離すことかな。なんか邪魔だし」
ふざけたような答えを述べて、綾瀬は赤い幻景を引っ込めた。
小夜は溜息を吐いて刀を霧散させる。
無駄な争いなんかしている場合ではない。気持ちを切り替えて浄化に専念しなければ。
「ふん、ふふ〜ん♪」
どこにそんな要素があったのか。機嫌が良くなったらしい綾瀬は鼻歌を歌いだした。あまりに前後の整合性を欠く行動。
彼女を理解できる人物などこの世にいないのではないか。そう思わせるほどに、不安定で捉えどころのない性質が露呈していた。
早く終わらせて帰ろう。今夜で魔薬に汚れたこの街はもとの姿を取り戻す。そうすれば明日からは綾瀬と一緒に行動する必要はないのだから。
「ただいま」
午前1時すぎに2人は帰宅した。
リビングに入ると、藍が淡いピンクのパジャマを着て、セミロングの髪を適当に縛ったラフな格好で出迎えた。
「おかえり」
明日も学校があるのだし寝ているだろうと思っていたので、嬉しい驚きだった。
「2人ともお疲れさま。あ、ちょっと待ってて」
藍は台所に向かうと、すぐに湯気の立つマグカップをトレイに乗せて戻ってきた。
「ココアだあ。妹ちゃん気が利くね」
綾瀬が子供のようにはしゃぐ。
小夜は胡乱な眼差しで彼女を見ている自分に気付いた。
もうやめようと思う。全部思いつきと反射で動いているような人だから、1つ1つを掘り下げても袋小路にしかならない。
「はい、小夜ちゃんにも」
「ありがと」
冷えて疲れた身体をほころばせるにはぴったりの飲み物である。
渡されたカップを包むようにして、手を温めつつ小夜は言った。
「藍ちゃんもこんな時間まで起きてなくても良かったのに」
「ううん。小夜ちゃんたちが頑張ってるから、私にもできることがあればいいなって思っただけだから。これくらいしかできなかったけど」
「十分だよ」
容姿のせいで疎外され続けていた小夜にとって、些細なことでも自分に気を配ってくれるのはありがたかった。
《起源》に認められ、《幻象》として過ごすうちにコンプレックスは改善されてきた。《幻象》という元は傷を抱えた人々が生んだ、同病相憐れむといった風土で過ごせたことによる所が大きい。
そして紆余曲折を経たものの、藍というかけがえのない親友もできた。
人間に戻れたら……。最近ではそう思うことも珍しくない。
ココアを一口啜る。それだけで全身に幸せな温かさが浸透していくようだった。
「ごめん、うとうとしてた」
黒のスウェットを着た明人がリビングに入ってきた。
「妹ちゃんは待っててくれてたのに、明人が寝てるってどういうこと。体たらくじゃん」
綾瀬がむすっとした表情で明人を見る。
「悪かったってば。でも藍だって昨日も一昨日も待ってたわけじゃ」
「言い訳しない」
「何で私を引き合いに出すの」
「藍ちゃんはいいんです」
3人から予想外の反撃を受けて、明人はたじろいだ。
「り、理不尽だ。小夜のなんか理由にもなってねえし」
「はいはい。そうだ、兄さんもいる? ココア」
まだ何か言いたそうな明人を無視して、藍が聞く。
「じゃあもらおうかな……何だその指は」
藍はニコっと笑って明人の後ろ、台所を指していた。
「自分で淹れろってことじゃないかな」
「正解です」
「何の仕打ちだよ!」
それ以上言う前に、話は逸れていった。
「やった。賞品があるんだよね、妹ちゃん」
「えっと……」
「それなら明ちゃんが用意してくれますよ」
真面目に問い詰められて、困り顔の藍の代わりに小夜が答えた。
「助け舟出してんじゃねえ」
「ほんと?」
突っ込みも虚しく、話を鵜呑みにした綾瀬がじいっと見つめてきた。
「ち、ちなみに何が欲しいんだ?」
「私に言わせるの?」
いつの間にか茶番の空気は消え失せていた。綾瀬は真剣に答えを引き出そうとしているようだった。
藍も小夜も展開を飲み込めないようで、身じろぎもできず困惑するばかりである。
「……なんだ、俺か……って、は?」
明人は内なる何かに導かれるように口が動くのを感じた。
「ぴんぽーん。大正解! 景品として、私をあげるよ」
言うが早いか、綾瀬は抱きつくようにして明人を押し倒した。
「じゃ、じゃあ兄さん、綾瀬さんおやすみなさい」
「置いてかないでー」
金縛りが解けたように藍がそそくさと出て行くと、小夜も慌ててその後を追っていった。
部屋が急に静かになった。
「ねえ、私が何を考えてるか、分かる?」
さあ。明人はそうはぐらかせて、今度こそ綾瀬に言わせようとした。
しかし、先ほどと同じく自己の内側から湧き出るものがあった。それが何なのか確かめようとして、明人は口を噤んだ。
「もうすぐ分かるよ」
そんな明人を見て、綾瀬の瞳が妖しく閃いた。
今や2人の身体は完全に密着して、心臓の鼓動すら同調していくように思われた。
「1つになろう、明人」