第21話A:狭間-intervalic moment
「月には不思議な力があるんでさぁ」
和服の男がのんびりと空を仰ぐ。廃寺の縁側に腰を下ろし、あたりを取り囲む木々の先にある真円を見ている。
小夜もその隣で血のような赤の瞳に月を映していた。
「人工の灯が無い時分は月が人を惑わしていたんでさぁ。妖怪なんてのは月の狂気にあてられた人間が見た幻想。今は妖怪なんていないでござんしょ? こんな田舎でも街灯がありやすし、都会じゃ昼と夜の区別なんてありやせん。お月さんも狂気を失っちまいまして」
男は喋り続ける。何の目的があってそんなことを語るのか、小夜には見当も付かない。
突然この寺に来た彼と何度かこんなやりとりをした。今だ理解はできないがちょっとした共感を持っていた。
「現代は逆なんですよ。太陽が人を狂わせてるんでさぁ。日が長くなる春あたりにおかしな連中はうろつきますし、晴れた日に犯罪が多いと言います。逢魔が時なんてまるっきり太陽出てますぜ。
命芽吹くあの季節に、夕焼け燃えるあの刻に、事故やら事件やらがたくさん起きるなんてお天道様も罪なお方でさぁ。そうは思いませんか」
「……それで何が言いたいんですか?」
痺れを切らして小夜は聞いた。回りくどいのは嫌いだった。いじめにしても直接的なものより間接的なものの方が辛い。
「まあまあ、最後まで聞いてくだせえ。そんでもって、お月さんは太陽がばら撒いた狂気をこの静かで清らかな光で浄化してるんだと思うんでさ。現代は。小夜さん見てて落ち着きませか?」
「まあ、少しは」
まだ続くのか、とうんざりしながらも小夜はちょっと考えてみた。
昼よりも夜、太陽より月が好きだった。
色素欠乏症の体質的に紫外線を受け付けないというのもあるが、目立ちたくないという願望が夜を肯定していた。月はさしずめ穢土を見下ろす隠者のようだ。
気付けば小夜の抱く月と夜のイメージは、男のそれとよく似ていた。
「あなたもどうして分かってらっしゃる」
ずいっと男が顔を近づけてきた。
彫りの深い顔立ちにどこか生気の欠けた黒の瞳。若いとも老いているともとれる年齢不詳さが目立ち、そればかりで記憶に残りにくそうな顔だ。
「あっしのお月さんになってもらえませんか」
「……はい?」
奇怪なプロポーズに小夜は目をしばたいた。お月さんとはこの男にとって何なのだろう。
「あっしの仕事、知りたがってましたよね。教えてあげまさぁ。あっしはいわゆるセーフティネット、救済措置ってやつでさぁ」
次々と理解に苦しむ言葉を残していく男。
「生まれてきたことを後悔したことはありやせんか? どうして自分だけが酷い目に遭わないといけないのだと恨めしく思ったことは? もちろん誰にだってありますでしょう。
しかしね、時間を置いたり努力のしようによっちゃあ人並みの幸せを得ることもできる」
それは私の努力が足りないと言いたいのか、と怒鳴りたくなってくる。だが、何となくそういう意味ではないと感じてもいた。
「それができる人等はまだ幸福でさぁ。世の中にゃ生まれながらにその権利すら剥奪された人がいますからねえ。あっしやあなたのような」
男は低く嗤った。自分の生まれのことを嗤ったのか、そんな不幸を生んだこの世界を嗤ったのか。ともあれ男の笑みは何かを嘲っているようだった。
「あなたも同じ」
「さようで。あっしには他人の心、特に欲求が何もしなくても漫画のフキダシみたいに見えてしまう。綺麗な願いからドス黒い欲望まで、街を歩けばそこらじゅうに浮かんで見えるんでさ。おや、信じてくれないんで?」
「いきなりそんなこと言われて信じられるほうがおかしいです。証拠見せてください」
露骨に疑惑の眼差しを送り、小夜は言った。冗談とも本気ともつかないが、この男は底知れぬ何かを秘めていると直感した。それを見てみたかった。
「うーむ、致し方ない。本当はやりたくないんですが……」
男はカッと目を見開いた。半死の眼に異様な光が漲っていく。
小夜は頭の中を覗かれたような奇妙な感覚を味わった。
「殺意の源は、猫、水。そういやここに住んでいた野良公が見えませんな。溺死ですか。むごい事をする」
男は次々と小夜の身に起きたことを釣り上げる。1つ釣りあげれば芋蔓式に関連する記憶や感情が引きずり出される。ブレインフィンガープリントとマインドリードの恐怖の融合。
おぞましい感覚はうねりを上げ、数多の眼球に内側を嬲られるものへ変わっていた。
黒々と乱立する影。少女を捕らえて放さない腕。冷たい水しぶき。必死に這い上がろうともがく4本の足。静まる水面。正気とは思えない鬼の爆笑。冷たい毛の塊。
小夜の忘れようとする意志があまりに強かったため、記憶は強烈なシーンの細切れだった。それでも1度甦った精神的な痛みは容赦なく進行していく。
「求められたこととはいえ、申し訳ありませんね。止めておけばよかった」
男もまた傷ついていた。心を読めてもろくな事は無い、と改めて絶望したような顔をしていた。
「あなたが見たというのは地獄の一角に過ぎません。私が積み上げた12年は全部生き地獄です。そこから連れ出してくれるなら、なんでもします」
しばらくの後、落ち着きを取り戻した小夜は男の力を認めたようだった。まだ力が入らずへたりこんでいるが、一切の疑いを排除した真剣な顔つきで、今にも土下座しそうな勢いで懇願していた。
「ええ、ええ分かりますよ。伝わりまさぁ。狂おしいほどの渇望が」
男は小夜の手を取って立ち上がらせた。
「さあ、小夜さん。あなたは何を望みまさぁ。これから始まる新しい人生に、常人は得られぬ第二の生に」
「私は……」
言えば現実になる。だが、私が本当に望んでいることは一体なんだろう。
色素欠乏症を治してもらうことだろうか。それとも私を追い詰めたクズを葬る力だろうか。……明ちゃんともっと仲良くなることだろうか。
分からない。望み、人生の道しるべをそんな簡単に決められるのか。永久に固着されてしまうのに……。
「私の思う悪を滅ぼしたい。世界に害しかもたらさない人たちを変えてみせる」
「つまり死による沈静ではなく、生きながらの浄化と」
「はい」
誰かが答え、誰かが頷いた。徐々に明るくなる世界。男も少女も森も寺も、全てあやふやになって渦に呑まれていく。
「了解でさぁ。願わくは、その望み果たされんことを」
「――さん、小夜さん」
「んんっ……《起源》?」
目を開けようとすると強烈な光が視神経を焼いた。目が慣れるのを待って、自分の状況を再確認する。
空を覆うように木が茂っていて決して明るいとは言い難いが、大小いくつもの木漏れ日の筋がオーロラみたく輝いている。
その一方で老朽化の進んだ木造の社屋が深い影を落としている。苔むした屋根に打ち破れた戸や障子、そこから覗く畳は日焼けで黒く変色している。その姿は失われた信仰をそのまま表しているようだ。
そんな夢とは昼夜を異にした世界の一角で居眠りをしていたらしい。木々の隙間から降る一条の日差しが、ちょうどスポットライトのように小夜の雪肌を照らしていた。
「おはようごぜえます。今日も御綺麗でさぁ」
夢と同じ和服姿の《起源》が傍にいた。親しげな表情もそのままだ。
「ありがと。私が呼んだのにごめんなさい」
「いいんですよ。待つのも待たされるのも得意なのでね」
そこで小夜は《起源》の変化に気がついた。彼は空中にあぐらをかいて浮いていた。
「どうしたんですか」
「いや、昨夜手痛くやられちまってですね。情けないことに、両脚がばっさりでさぁ。治るまではこの盾が脚代わりでさぁ」
何でもないことのように《起源》は語り、コンコンと不可視の盾を叩いて見せた。よく見れば
脚があるべき場所には布が漂っているのみ。
小夜は驚きを隠しつつ聞いた。
「誰にやられたんですか」
「アキラさんですよ。《忠誠》とも名乗っていましたねえ」
「彼女は《墜落の魔姫》の従者です。つい昨日まで私の同僚でした」
《起源》は合点がいったと頷いた。小夜が自分を呼んだ訳、昔頼んだスパイ行為の結果を報告するためだ。
話題は小夜の報告へ移行した。
「最後に連絡があってからだいぶ時間が経ちますね。あの魔薬のせいでござんしょ」
「はい。始めの内は意志で持ちこたえられましたが、だんだんと濃度が上がるにつれて全く身体が言うことを聞かなくなるんです」
思い出すだけでも怖気の走る生活を小夜はポツポツと語りだした。しかし支配されている間の記憶は曖昧で、まともな報告にはならなかった。
その中で1つ、小夜が罪悪感を抱えるものがあった。
「《復讐の女神》を引き渡したのですかい?」
それを聞いた《起源》は見る間に表情を険しくさせた。その詰問するような口調には、いつもの余裕が消えていた。
「で、でもまだ《魔姫》の手中に落ちたとは……」
気圧されながらも何とか言い訳をする。まさかそんな反応が返ってくるとは思わなかった。
《女神》は《幻象》の敵で、《魔姫》も危険視されている。明人にメモを渡す時支配されてはいたが、2人をぶつけてどちらかが潰れれば脅威が減ると考えていたからだ。
「《魔姫》なら《女神》は勝てたでしょうが、《忠誠》というなら話は別でさぁ。《忠誠》と《女神》は友人同士、しかも《女神》は自分が彼女を殺したと思っているはず。もし仮に死んだと思っていた親友が目の前に現れたら、どうしますか」
「それは……」
戦うという選択肢が出るわけがない。
「分かっていますね。もう《女神》は冥界に呑みこまれたと考えるほうが良いでしょう」
「でも、敵が一方にかたまったのは良いことでは? 三つ巴の乱闘は避けられます」
「《月宮の天使》、あっしは《女神》を敵だとは思ってませんぜ。むしろ敬うべき、愛おしむべきと思っておりまさぁ」
口調を和らげ《起源》は言った。
「なんでですか? あいつは私達の仲間を何人も滅ぼしているんですよ? いくらあなたの被造物といっても許されることではないと思いますが」
理解できないといった風に小夜は刺々しく言った。
「それも一理ある。いやまさしく正論でさぁ。そういう言葉をを聞く度にまた罪を重ねてしまったと身に染みますな」
懺悔者のような悲哀な響きを込めた声。
「どういう意味ですか、それ」
《起源》が内情らしきものを見せることは珍しかったので、小夜は突っ込んでみた。
「後悔はいつまで経っても先に立ってくれませんね。今回もまた繰り返すだけかもしれませんが、あっしはあっしなりの全力を尽くすつもりでさぁ」
小夜の問いを若干無視する形で《起源》は話を続けた。
「《女神》を救出してください。あっしもサポートはしますが、これはあなたにしかできない。聖浄の月よ」
《起源》は頭を深々と下げた。どう答えようかと迷っている間も微塵も態勢を崩さない。
それを見ているとだんだんとむず痒くなってくる。どうも私はお願いというものに弱いらしい。
「顔を上げてくださいよ。元々私の軽はずみが招いたことです。私が責任を果たさないといけないんですから」
「ということは引き受けてくれるんで?」
「はい」
パッと《起源》の表情が明るくなったかと思うと、嬉し涙まで流しながら小夜の手を取った。
死灰から燃え甦る不死鳥の如き急変化に少し面食らう。
「ああ、ありがたいことでさぁ。先ほどの《女神》に対する言い分を聞いたときには、もはやこれまでと覚悟しましたよ」
「別にあいつのためじゃないです。敵に回ったままだと厄介だし、あなたが悲しむのも見たくない」
小夜にとって《起源》は自分を救ってくれた恩人。彼の力になれるなら何だってやるつもりだった。
《女神》も助けてくれた相手にすぐさま刃を向けるような真似はしないだろう。一時的に共闘も可能なはずだ。
「なんと……」
言葉が出ない様子の《起源》。だがいつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。感動に緩
んだ表情をすぐに引き締める。
「現状、あっしらは後手に回るしかありませんでさぁ。それに《魔姫》は短気ですから、何をするにもあまり時間は残されていないと思いまさぁ」
「ではどうすれば」
「とりあえず、あっしは《天網》をあたって居場所を割り出しまさぁ。あなたは街の中毒者共を片っ端から浄化していってくだせぇ。《虚構の楽園》にも協力するよう言っておきます」
あの気まぐれな《楽園》が素直に協力してくれるかどうか、小夜はいささか不安だった。
協力するしないで揉めるならまだしも、享楽に身を任せてあちら側につく事だってあるかもしれない。意外と気の抜けない相手だと思っているのだった。
「確かに彼女は信用には値しないかもしれない。あっしの力をもってしても読めない人ですから。ですが逆に彼女ほど有事において力になる者もいませんぜ」
小夜の不安を読んで《起源》が言った。それが正しいことはだいたい理解できるが、胡散臭さを全て払拭することはできなさそうだ。
そもそも何故私がこんなに警戒しているのかが分からない。概ね良好な関係だったと言っていいはずなのに。
「《天使》……思いつめる必要はありませんぜ。注意を怠らないのは良いことですが、それを目的と勘違いするのは危険でさぁ。いざという時、動けなくなりますぜ」
忠告を残して《起源》は去っていった。
和服が消えるのを見届けて、小夜は気合を入れなおした。まずは《楽園》を探さなければいけない。