第20話A:結絆-bound by bond
「あの夜、藍ちゃんが犯されたのは私のせいなんです。私がそうするように命令したから」
凍結した街に1つの告白が生み落とされた。
でも、あれはそそのかされて……。そんな言い訳もやろうと思えばできる。
それでも結局、《魔姫》の与えてくれるご褒美に眼が眩んだ自分がやったことなのだ。
俯いている小夜に藍の反応は窺えない。それは幸せと呼べたかもしれなかったが、続く沈黙は終焉を告げている気がした。
藍に突き放されれば終わりだ。
《魔姫》の元へも帰れない。
いや彼女ならあるいは……。優しく包み込んでくれた悪魔の魅力は未だ小夜の内奥にくすぶっていた。
藍ちゃんの前でなんて不謹慎なんだろう。
胸にぞっとする冷気が噴き出し、ズタズタに切り裂いてしまいたい衝動が頭を巡った。
「それに藍ちゃんのお母さんとお父さんも手にかけてしまった。それを綾瀬に隠蔽させたのも私」
何か言うたびに藍から離れていっている気がする。それがあまりにも辛く苦しく、涙が異常に白い頬を伝っていった。
「どんな罰も受けます。私を憎んで、恨んで、殺してください。私死ねないから、生き返ってもまた殺して。死ぬまで赦さないで」
何を言っているんだろう。こんなの誰も喜ばないのに。
小夜はあまりの痛みに耐え切れず、泣き崩れてしまった。
「ああっ、ごめんなさい。泣きたいのは藍ちゃんなのに、あああ! 藍ちゃんなんて呼んじゃダメ! どうしたらいいの。早く殺してください」
小夜は正体をなくして悶えた。
身を裂く罪悪感。告白の先にある破滅か救済の未来。慈悲深い魔の包容。
小夜は圧死させんと肥大化していく軋轢からの逃げ道を模索し始めた。同時に逃げることしかできない自分の矮弱に目を向けることになり、余計に苦痛が増幅していく。
「顔上げて、こっち見てよ」
その時、だんまりを続けていた藍が口を利いた。
いかなる感情からか、その声には起伏が皆無だった。
「ごめんなさいもうしません赦し、ぅあ私は何を言って赦して、赦さないでください!」
小夜はその声を恐れ、藍を見ようともしない。
「こっち向きなさい」
滑稽ともとれる狂態に、藍は苛立ち混じりで口調を強めた。
それでようやく小夜は顔を上げた。不憫なくらい涙でぐしゃぐしゃだ。
濡れた瞳の先には人型の暗黒が立っていた。明るい月を背負っているせいで藍は影に沈んでいた。
「ねえ、言ってる割に謝る気があるようには見えないんだけど。狂ったふりして逃げてない? そういうの精神鑑定狙いの犯罪者っぽいよ」
普段の藍からかけ離れた容赦のない言葉に小夜は震え上がったが、気付いたこともある。
どんな罰も進んで受けると言いながら自己保身のために異常をきたした演技を続けるという大きすぎる矛盾だ。
「わ、私は……何をしたら」
人間とは思えない圧力に息を詰まらせて、小夜が喘ぐように聞いた。
返答はない。まるで自分で考えろとでも言わんばかりに藍は押し黙っている。少なくとも小夜はそう感じた。
そんな強迫観念が身を焦がし、罪滅ぼしでも何でもいいから藍の傍に居たいという小夜の邪な望みを崩していく。
脳裏で悪魔が人懐っこく微笑んだ。
「…………っ」
一緒にいたいなんて言えない。
小夜はよろよろと立ち上がると、藍に背を向けた。滴った涙がアスファルトをさらに黒く染めた。
羽を広げる。心を映したように弱弱しい。それでも彼女の元へ飛ぶことはできるはずだ。
「……さよなら……」
トン、と地面を蹴るとふわりと小夜の身体が浮き上がった。ここなら顔が見える。これが最後と、小夜は藍を顧みた。
藍もまた小夜を見上げていた。怒りや憎しみが見当たらない、別離の悲愴をさらけだした潤んだ目をしていた。
疑問と熱い感情が込み上げ、視界がぼやけた。
次の瞬間、小夜は手を引かれ藍の胸に抱かれていた。
「ごめんね。酷いこと言って。だから行かないで、小夜ちゃん」
「……どうしてなの」
自分にこの抱擁を受け取る資格はないと思ったが、振り払うだけの勇気もなかった。
「だって自分が赦せないよ。気付いてたのに、関係が壊れるのが怖くて言い出せなかった。それでこんなことに」
藍は自責していた。切り出せず、あまつさえ敵のもたらした展開で小夜に言わせてしまったことを。
「ホント意味がわかんない。おかしいよ。優しすぎるよ」
憎まれ口。
昔明ちゃんに似たようなことを言った気がする。この兄妹には救われっぱなしだ。
「大切なものを犯して殺したんだよ。そんな私が……何の咎めもなくいてもいいわけない」
「咎めが欲しいの? ならこんな汚い私と一緒に居てくれることだよ。天使さま」
曇りない冷天名月の下、傷だらけの少女達はようやく抱きしめあうことができた。
2人はしばらくの間、抱擁を交わし涙を流していた。溜め込んできた苦悩をお互いの熱で溶かし、絆へと昇華させていくかのように。
小夜は心の底から喜んでいたが、冷ややかな目で事態を見ている自分がいることに気付いた。
はたしてこれは現実か。こんなに都合よく願いが叶うものなのだろうか。
陵辱されるというのは確かに辛い。絶望して自ら命を絶つ人だっているだろう。
それでも両親が殺されることよりは、軽いのではないかと小夜の冷静な部分は考える。
畜生児の小夜にとって親とは、呪われたこの肉体を生んだ存在。嫌悪こそすれ情愛を感じたことはないし、向こうもその気はなかった。
だが藍は違う。親の愛を一身に受けて育った。いくら強くてもこの一瞬で割り切れるはずがない。
疑心の灯が点る。吹き消そうとするとますます手におえなくなる。
これは現実か。
小夜はやわらかな胸に埋めていた顔を上げた。どうしてもこの幸せの確信が欲しかった。
「私が藍ちゃんを犯したみたいなものなんだよ」
「それはもういいよ」
藍は、小夜が不安そうな顔をしているのを見て偽りのない微笑みを返した。
「お父さんとお母さんも私が殺したんだよ」
やめておけばいいのに小夜は両親の話に繋げた。すると奇妙な反応が返ってきた。
「うん? 言いたいことがあったら遠慮しないで」
藍は小首をかしげた。
「聞こえてないの?」
「聞こえてるよ」
かみ合わない会話。親の死に関する言葉は藍の耳に入る前に消えてしまっているかのようだ。
「おかしな小夜ちゃん。さ、おうちに帰ろっ。もう遅いし今日は泊まっていってね」
憑き物のとれたような表情で藍は微笑んだ。
ぎこちなく笑い返す小夜の目が、藍の頭上に動くものを捉えた。
蝶が舞っている。蒼白く内光り、ガラスの砂のような鱗粉を振り撒いている。
これは現実か。
疑問に答えるように脳裏に《虚構の楽園》と呼ばれる少女の姿が浮かんできた。あれの近くにいると何が本当で何が幻想か分からなくなる。
私が掴んだのは、本当に仲直りする展開なのか。
ふっと意識が遠のきかけて、暗いもやが目の前を漂いだした。
奇妙な浮遊感に襲われた小夜の耳に、藍の悲鳴が幾重のベールを隔てて聞こえてきた。
「こうして白雪の肌のお姫様は醒めない眠りに落ちていったのです……バッドエーンド!」
綾瀬が後ろから小夜の肩に手を掛けた。
突然のことに藍は悲鳴を上げてへたりこみ、小夜は電流でも走ったように大きく跳ねた。
「別にあんたのためじゃないんだから。明人と妹ちゃんが悲しむからね、耳に入らなくしてるだけだよ。シロスケ」
耳元で綾瀬が囁いた。
「……ありがとう」
綾瀬自身は言葉通りの意味しか考えていなくても、小夜の味方になってくれた。再び雫が頬を伝い落ちた。
反応が面白くなかったのか、綾瀬はふんと鼻を鳴らして離れると助けを求める藍の元に駆け寄った。
「こ、腰が抜けちゃって」
「ビビりすぎだよ。妹ちゃんは」
小夜はそんな光景を見て、これが入るべき輪なのだと分かった。
藍と自分と綾瀬。そしてそこに加わわろうとする新たな影。
「はぁはぁ、置いてくなよ……藍! 大丈夫だったか」
明人が白い息を切らして合流した。
平気だよと頷くのを確認して、まだ少しショックの余韻に冒されている小夜に目を向ける。
視線がかち合う。旧知の仲だからか、それとも強い思念が伝わってしまうのか、それでお互い相手の主張が理解できた。
「小夜ちゃんもおいでよ」
藍が呼んでいる。その打ち解けた様子を見て、明人も警戒の色を薄める。
「綾瀬にいじめられたくらいで泣くんじゃない」
「かわいいからね。もっといじめちゃうよ」
小夜はその白い繊手で涙を拭いて、輝く輪に飛び込んだ。
輪は小夜を温かく迎え入れる。
「ううっ、私がんばるから。天使なのに、助けられてばっかりは嫌だから」
いつかきっと本当のことを藍に打ち明けよう。
でも今は、この輪を大切にしていきたい。この恩に全力で報いていきたい。
小夜は初めて嬉し涙を流して、心に誓ったのだった。