第19話:五蛇-subordinate swamp
遥サイドの物語。
「ん……?」
混濁した意識の中、遥は目を覚ました。
背中に感じるのはふかふかとしたベッドの感触。忌むべき力を使い、体力を根こそぎ奪われた身体に安らぎを与えてくれる。
ここ、どこだろう。アキラは?
周りを見ようとしたら首が動かなかった。
力が入らないわけじゃない。感覚は無いが何かで拘束されているようだ。
戸惑う遥のもとに薫り高い茶葉の匂いが漂ってきた。
アキラが紅茶を淹れているのかと思ったが、彼女の好みではないはずだ。遥も特に好きというわけではない。
「やっと、起きたのね」
冷たい声が聞こえた。どこかで聞いたことがあるように思えた。
そうする許可が降りたように、遥は声のしたほうに顔を向けることができた。
窓辺に置かれたガラスの円卓が月明かりを受けて静かに光っていた。その光を呑み込むようにセットの椅子に真っ黒の人影が腰掛けていた。
「……私を覚えているかしら?」
細い指でカップを置いて、黒衣が向き直る。
白金の髪は夜天から注ぐ天然灯に輝き、蒼空の瞳は魔的な魅力を投げ掛ける。幼い容姿の女の子。
通常幼子が持ち得る無垢という概念は、立ち上る邪気としか言いようのないものに押しつぶされていた。
悪意で彩られた悪魔の子。
《墜落の魔姫》
「死んだはず、そう思ってるでしょ? ……低脳。この私が、アレくらいで滅ぶか!」
怒気の発露を我慢していたのだろう。無機質な仮面は一気に砕け散った。
遥は思いっきり身体を起こして立ち上がろうとした。一刻も早くこの悪夢めいた存在を消し去りたかった。
途中まで起きかけた身体、しかし物凄い力で引き戻され、次は縫い付けられたような感覚が全身を包む。
視界が暗黒に落ちた。否、そこには邪悪な光を灯す赤眸が2つ。
遥の目の前で形を成したのは、ついさっき滅ぼした魔犬の寸分違わぬ頭部であった。
牙を打ち鳴らし、いつでも噛み砕けるぞ、と威嚇する魔犬。首から下は実体を有する影となり、遥の身体を包み込んでベッドに縛り付けていた。
「ああ、一思いに殺してやりたいわ」
《魔姫》の声と共に魔犬の頭部が退いた。
それでも見えるものは赤と黒。深淵の娘、彼女の持つ黒鉄の大鎌とそれを飾る血の宝珠。
「なら、早くしなさいよ!」
「言われなくても」
闇の鋼が音をも殺し、弧の軌跡を描いて遥の喉元に迫った。
刈られる。我知らず眼を瞑る。
「……あ、イイコト思いついたわ」
鎌刃は停止していた。元から殺すつもりは無かったようだが、そこに慈悲などあるわけも無い。
《魔姫》はわざとらしく手を打つと、嗜虐の微笑を浮かべた。
「結局殺せないんだ。何もできない箱入りお嬢さん?」
「……ゴミクズは自分が《幻象》だってことも忘れたのかしら? すぐ生き返るんだもの、死ぬことに意味なんてないわ」
悔し紛れの悪態を吐き、《魔姫》を見る。薄皮一枚隔てて、激情が煮えたぎっているのが分かる。短絡な部分も変わらないようだ。
「ゴミクズはお前よ!」
遥は脇に立つ《魔姫》に罵声を浴びせ、そのまま舌を噛み切ろうと歯を下す。。
《幻象》は死を超越する。たとえ今この肉体が滅んでも、場所を変え再び己が血肉が生成される。
逆に言えば、今死ねば《魔姫》の拘束から逃れられる。態勢を整え、今度はこちらから仕掛けることもできる。
「自殺しよう、そう思ったんでしょ?」
お見通しよ、と暗青の瞳を三日月のように歪めて小さな悪神が嗤った。
遥の口には例の魔犬の一部が突っ込まれ、それに阻まれ歯は舌に届かない。
膨らませた風船の空気が逆流して口の中で暴れ回っているような、そんな感触。
「ざまぁないわ。それより、この私を侮辱した罪は重いわよ」
鎌の刃に埋められた深紅の宝玉が一斉に輝きだした。それは一般人なら気が触れてしまいそうな鋭利な紅い狂光を発し、やがて止んだ。
身体に異常は感じられない。もっとも、《魔姫》の力を鑑みれば精神汚染の類である方が有力だが、その兆しも無い。
「フフ、なにビビってるの。これはただの呼び鈴」
「……呼び鈴?」
「もちろん、下僕を呼ぶものよ」
不吉な微笑を見ていると、おかしくなりそうだった。
「お呼びでしょうか、我が主」
その声が心臓に冷水を注いだ。それは勢いよく全身を駆け巡り、遥を凍えさせる。
ドアが開き、血の臭いが流れ込んできた。
「その格好は何。私の前でそんな醜態を晒すのかしら……いや、後にしよう。そこの虫けらに顔見せなさい」
死臭纏う少女が遥を見下ろす位置に来た。
ボロを纏うように影を身体に巻きつけた長身。今殺し合いをしてきたような格好と疲労と罪悪感をないまぜにした悲しげな表情。
それがどんなに異様でも彼女は遥にとって紛うことなき友達の1人である。
「……アキラ」
凶兆の予感は的中した。
果てしない絶望から泣きそうな声で遥がその名を呼ぶ。アキラもまた沈痛な面持ちを強める。
「ああ、そんな名前があったわね。昔。今は《忠誠》っていうの。それこそ犬のように忠実よ」
この暗鬱なる空間において1人だけ楽しそうな《魔姫》は、再び椅子に腰掛け脚を組んだ。
歪みきった心は未だ満足することなく、新たな苦しみを味あわせんがため駆動していた。
「よく見たら靴が汚れてるじゃない。ほら『アキラ』、綺麗にしなさい」
「……はい、我が主」
女王然と君臨する《魔姫》の前にアキラは跪き、黒い光沢のある靴に舌を這わせ始めた。
「な、なにしてるの……!?」
眼を背けることもできず、遥は歪んだ主従を目に焼き付けられるしかなかった。
「ふふ、お分かり? 《冥界の柘榴》に手を出したが最後、身も心も全部私のものなんだから。あ、もういいわよ《忠誠》。靴が汚れるから」
「ひ、どい……なんでこんな、こと……」
心に風穴を開けられ、そこから一切の善い感情が吸い取られているようだった。
遥の瞳から流れた涙が、月光に光っていた。
「屈服の涙も見れたし、そろそろ私のものになってもらおうかな」
《魔姫》が遥の右に立った。その白く小さな手からは、ちゃらちゃらと音を立てておもちゃのような悪魔の紅玉が溢れ出していた。
後ろに控えていたアキラは一瞬《魔姫》に手を伸ばしかけたが、瞼とともに静かにその手を下ろした。
「イヤァ! アキラ! 助けて!」
もがいてももがいても魔犬の拘束は外れない。
「無駄よ無駄。うーん、そうね。意識があるうちに言っときましょうか」
一瞬の間隙。それこそ悪性の極みだった。
「その犬の手綱、アキラが持っているのよ」
そう言うと《魔姫》は一歩下がって、アキラを前に出させた。
遥は戦慄も覚えたがその胸には希望が宿った。
「アキラ、お願い。これを解いて」
遥の声にアキラは眼を開けた。戸惑いを秘めた瞳が薄闇の部屋を泳ぐ。
「待つのは嫌いよ。あと10秒で決めなさい。10、9……」
産み落とされる隷属へのカウント。
「こっちを見てアキラ」
落ち着きのある静かな声にふたりの視線が交錯する。ぶつかり合い、せめぎあうと友情と呪縛。
「……信じてる。だから私も信じて」
「1、0……友愛なんて、無かったわね」
魔犬は遥にのしかかっていた。そこを退く気などさらさらないようだ。
遥の身体は拒絶された絶望からか弛緩しており、《魔姫》がその口を開かせるのは簡単なことだった。
「さ、失望を抱いて暗き淵に沈みなさい……ん」
その時《魔姫》は気付いた。遥の左腕だけが、解放されていることに。
「そっちこそ」
瞬時に具現化する三つ首の銀蛇。
《魔姫》も回避に移ったものの、そのスピードは《怨疾毒蛇》に敵うべくもなかった。
しかし切っ先が心臓を刺し貫こうと迫るなか、《魔姫》は笑った。三日月に眼と口を曲げた冷笑。悪魔はあくまで悲劇の幕を降ろすつもりはないようだ。
遥に届いたのは刀身が骨肉を裂く感覚と押し殺した友人の悲鳴だけだった。
アキラは《魔姫》を庇う形で、自らの背に3本の凶刃を受け止めていた。慌てて引き抜こうとする遥だったが、アキラの背中から沸き立った魔犬の影に刀が押さえられてしまう。
無理に動かそうとするとアキラを傷つけてしまう。しかし超回復を誇る魔犬を振り払うにはそれが必要だ。
逡巡。
その隙に《魔姫》が躍り出た。小柄な体躯に不釣合いの大鎌を振り上げ、一気に振り下ろす。
遥の左腕は床に転がった。
絶叫を吐き出すために無意識に開いた口にすぐさま《魔姫》の手が滑り込み、口の中に《冥界の柘榴》を流し込んだ。
血を甘くしたような恐ろしい味を認識するとすぐ、魔薬成分が粘膜に吸収された。
総身の神経が焼き切れたような苛烈な電流が駆け巡る。一度に大量摂取したせいか快感などなく、単なる苦痛の津波でしかない。
自分ではどうしようもない激しい痙攣が全身を襲い、遥の意識は消し飛んだ。
「まったく非道よね。友達ってなんなのかしら」
悪魔が嘯く。
先の反逆と結末は出来レースだったと。
その呟きにアキラは沈黙する。
「だんまりは面白くないからやめて。裏切りの罪咎を噛み締めて、苦しむ声を聞かせてよ」
どうしようもない壊人の性。2年の間にさらに歪んできている。
「あたしは友達をこんな目に合わせてまで生きていたくない。でも死ねない。あなたも殺してしまいたい、でも」
応える言葉は明らかな殺意と憎悪、そして悔恨の塊。
主従関係を無視した言動にも、《魔姫》は満足そうに先を促す。
「でも?」
「できない。あなたが消えたら、あたしは生き地獄に堕ちる」
「その通り。あなたが消えたら、私は滅びる。最後まで付き合ってもらうわ、一緒に死ぬまでね」
異常な絆を確認する2人。
忠誠があるわけでもないのに《忠誠》。冥府の王であるのに生にしがみつく《墜落の魔姫》。
永劫不死の辛苦を中和するため、生きて貪るため、絡み合うしかなかったカドゥケウス。
「それで、《起源》は仕留められたのかしら?」
「重傷を負わせましたが、反撃にあって失敗しました。それに《天使》が裏切り、呼び鈴のこともありましたので追撃は断念しました」
2人は一瞬の間を置いて、いつもどおりの状態に戻っていた。
「あいつも私の魔薬が効いてるはず。裏切るなんて」
「ですが事実です」
《魔姫》の顔に困惑がよぎる。それを拭うようにアキラは語気を強めた。
「そうね。まあ、あいつらはこれに任せようかな。安定したら試運転兼ねて殺してやる」
《魔姫》はベッドに横たわる新たな手駒を見てほくそ笑んだ。