第18話C:夜宴-Walpurgis Night
「はあ……」
藍は憂鬱そうに嘆息した。
苦しい。辛い。消し去りたい。
恋愛関係に過敏になる自分が。こんな所で1人になって、さらに澱んだ暗情の沼に嵌る自分が。そしてなによりあの強姦の憂き目を。
「はあ……何やってんだろ」
何度目かの自問。答えは出そうにない。
忘れて明るく生きる。沈んだままでいる。人前では明るく、1人のときに泣く。いっそ誰かに相談する。
色々と考えは浮かぶものの、どれも最善とは思えなかった。
きれいに掃除されたお手洗いの鏡を見つめると、見飽きた暗い顔の自分がいた。
明日はまた学校なのに、こんな調子じゃ迷惑がかかる。
「い〜……」
無理やり口角を上げてみる実験。ばっかみたい。人来たらどうすんだろ。
パンパンパパパパン
「うわあああ!」「逃げろーー!」
銃声のような音が聞こえ、すぐに悲鳴と動乱が捲き起こる。
藍は慌てて個室に逃げ込んだ。鍵を閉めて、耳を澄ませる。
強盗だろうか。でもこんな人の多い時間に?
兄さんたちは、大丈夫かな。ケータイは……バッグに入れたまま外にある。
考えを巡らせている間にも、外からはまるで戦争でもしてるかのような轟音と崩壊音が響いてくる。
その時、照明が落ちた。思わずその場に座り込む。
「いやああ、んむう」
叫びそうになって慌てて口を紡ぐ。
絶叫の衝動が過ぎると、目をつぶり耳を塞いだ。
真の闇の中、地響きだけが伝わってくる。恐怖は募るのみで、今にも得体の知れない怪物が入ってきそうなおぞましい予感までしてくる始末。
震えが止まらない。目の前の脅威のせいだけではない。暗黒が呼び起こすトラウマ、癒えぬ心傷が鎌首をもたげる。
「っあ、痛い……痛いよ」
嗚咽と共に声が出てしまう。藍はお腹に手をやっている自分に気付いた。
苦悶の幻影に惑わされ、心も身体も呻きを上げる。
「たすけにきて、さよちゃん……!」
藍は知らずその名を呼んだ。
気付くと音は止んでいた。
その間気を失っていたのか、起きていたのか、藍自身定かではない。完全な暗黒では諸感覚が狂ってしまうらしかった。
手探りで鍵を開け、壁伝いにそろそろとドアを目指す。
ノブはすぐに見つかった。
ドアを開けると、ぞっとする瘴気が風に乗って鼻腔を突いてきた。
火葬場と錆の濃密な臭いに吐き気が込み上げる。
そんな忌避すべき汚臭に満ちたファミレスは、崩落した天井の穴から降る白い光で照らされあている。映画に出てくる遺跡に迷い込んだ気さえするほど、異常な光景。
テーブルなどは跡形も無く、壁と柱は半壊。建物自体いつ倒壊してもおかしくなさそうである。
瓦礫の荒野を歩く藍の前に、黒い棒が生えていた。たとえるなら、5つの花弁を広げて月光を浴びる挿花。
たとえる?
それはまさに現実逃避だ。悪臭が立ち込めるているなら、その源も近くにあるのは自明の理。そうであるなら、この花の正体もまた……。
「――――ひぃっ!」
いいかげんにしてよ。やすやすと出てこないでよ。あんなものがその辺に転がってるほど日本はおかしくない!
藍は声にならない喘ぎを発して全力で駆け出した。足場は最悪だが、恐怖で感覚が鋭敏化しているのかこけることは無かった。
途中あれを踏みつけたり、あれに引っかかったりした。その度に硬いのか軟らかいのか分からない肉塊の感触が靴越しに登りつめてくる。
藍は無我夢中で道路に転がり出た。そして、そのまま道端に泣き崩れた。
単に怖いものを見たから。その感情は何の混じりっけも無い純粋であり制御不能。
さっさと立ち上がってこの場を去ることがどれだけ賢明か、藍も痛いほど分かっていた。それなのに膝が笑い転げて言うことを聞かない。
藍は肩を震わせてうずくまっていたが、そう長くはなかった。人の気配が全く無い、異様な静けさに呑まれた無機質な街が自分を取り囲んでいるのに気付いたからだ。
その冷たく突き放すような気配は、藍に自分以外をあてにできないと悟らせるには十分だった。
藍はゆっくりと呼吸を安定させていった。両足で身体を支えることもできる。
まずは兄さんと連絡を取らないといけない。ケータイはガラクタの山に埋もれているが、探しだしてみせる。
すっ、と短く息を吸う。全身に気力が満ちるようだった。そうして改めて廃墟を眺め、自分が座っていた席の場所に目星をつける。幸いそれほど奥まで行く必要はないようだ。
藍が1歩踏み出そうとしたとき、聞いたことのある曲が流れてきた。話題のアメリカンシンガーの最新曲。それはケータイの着うただった。
藍は臆することなく廃屋の門をくぐった。切れてしまう前に見つけないといけない、その一心で。
瓦礫の隙間に明滅する光が見え、音も大きくなった。礫片をどかすとバッグ共々ケータイを発見できた。少なくとも兄の亡骸と対面することがなかったのは素直に喜ぶべきだろう。
藍はわき目もふらずに電話に出た。話しながら店を抜ける。
「もしもし」
「怖かったのによくがんばった」
「え……」
聞きなれない男の声に緊張が走った。
ディスプレイに表示されているのは、文字化けしたような奇怪な字面。
「誰なんですか? どうして私の番号を」
「漏れ? ネットの神こと《天網恢恢》さ。神なんで、知らないことはない」
返事は意味不明。真剣さの欠片もない、人を嘲ることに重きを置く声色だ。
「ふざけないでください。今大変なんです、切りますよ」
「死体ごろごろでもし〜んぱ〜いないさー!」
「やめてください」
不快極まる相手だが、何故か切ることができない。異次元の磁力が切らせてくれない。それにこの感覚は以前体験したことがある気がした。
「そんなこと言っていいのか? サツとか呼びたくないわけ? 今この街の情報網を支配してるのは他でもないこの漏れなんだが?」
「支配って、何の話ですか。もうなんでもいいですから、警察呼んでください」
「無理だなあ。サツはアイツが握ってる。今頃ラリってハイになってんじゃねえの、仕事なんかしやしないだろうし」
この街の警察全部が麻薬で汚染されてる。しかも相当重度に。
冗談にもなってない、と藍は思った。
そんなこと警官がするわけないし、できるわけない。
正義の御旗の直下で違法行為が横行していたとなれば、この国始まって以来の大スキャンダル。すぐさま一斉捜査で麻薬は根絶やし、職員は全員検挙されるのが道理。
藍の考えはそんなものだった。至極当前で堅牢な論理だが、この街にはすでに外法の根が張り巡らされているのを藍は知らない。
「わかんねえよな……」
《天網》が更に続けようとしたとき、異変が起きた。
この世のものとは思えない慟哭が夜を震え上がらせた。
夜さえ吃驚させるそれに、人間が耐えうるはずも無い。藍は腰が抜け、その場にへたりこんでしまった。
「何があった?」
毒素の抜けた真面目な声で《天網》が囁いた。
「……わ、わかりません……こっちに来る」
藍の目の前で起きた異常。それは例のレストランの中から噴出した。
凶悪な赤い光が2つ、廃墟の闇に浮かんだかと思うと、ゆらゆらと藍のいる通りへ進み始めた。
藍は気圧されて後退していた。間の抜けた光景だが、動けなくなるより幾分かマシだと思った。
月下に立つ異貌。三次元に現れた影。赤くギラつく双眸以外は全てが黒に包まれているが、それは人型をしていた。
「じっとしてろ。そいつを刺激するな」
ケータイからは切羽詰った指示が聞こえる。
藍は素直に従った。冷や汗を滲ませながら影が去るのをじっと待つことにした。しかし、影は立ち尽くしたまま動く気配が無い。
何もかもが静止しているこの場所では絶対的な時間の概念さえ狂い、体感時間は遅く長くなっていく。
そのとき、風が吹いた。冷たい夜気と一緒に焦げついた人の脂肪の臭いがやってきた。
「ぅっ」
反射的に嗚咽が漏れてしまう。それは小さな小さなものだったが、後悔してももう遅かった。
影が目の前にいた。いつ動いたのか分からなかった。少なくとも10メートルは離れていたのに。
影をぼろのように纏ったそれが、見下ろしてくる。巨大な壁が押し潰してきているような圧迫感。
凍りついたような沈黙の間を異臭が抜けていく。臭いは底知れない影の中から漂ってきていた。
「逃げろ!」
《天網》の声と同時に動いたのは、影のほうだった。
影が霧消する。生まれたままの格好で、長身の少女が立っていた。
一瞬の間をおいて少女が藍の方に倒れてきた。
支えようとしたのか、我が身を護ろうとしたのか自分でも分からなかったが、伸ばした藍の両手は虚しく空を突いた。
少女は膝を着き、自力で身体を支えた。
再びの沈黙。
なんと声をかけていいのか、藍には見当もつかなかった。
ただ阿呆みたいに少女の裸体を見ていた。
鍛えているのがすぐに分かる張りのある肢体。それでいて女性的な魅力は失われておらず、むしろさらに強調されているといってもいい。月明かりを反射してつやつや光る肌は、触れてみたいと思わせてくる。
それゆえか、藍は行き場をなくした手を少女の肩に乗せてみた。もちろん、声をかけるきっかけ作りも兼ねて。
「あの……」
思ったとおりのすべすべだった。それは良かったが、次の瞬間手のひらに異様な感触が生じる。触れている肩の皮膚下で何かが蠢いたのだ。
とっさに手を離して後ずさると、少女と目が合った。
「気味が悪いだろう……見ないでくれ……」
かすれた声で囁かれて、藍は申し訳なくていたたまれなくなった。
「そんなことないです!」
「っ!?」
藍は名も知らぬ少女に抱きついていた。
背中に回した腕にも、押し当てた胸にも得体の知れない蟲が蠕動するような感触が纏わりつく。それは嫌悪以外の何者でも無かったが、藍は必死に耐えた。
こういうのは偽善って言うのかな。ふとそんな思いがよぎった。
驚いて離れてしまったことを取り消したいと思わなかったわけではない。他の理由は、と聞かれても答えられない。
否、――――仲間意識。そういう答えがある。
この子も同じなんじゃないだろうか。
楽しいひとときを潰された者同士。凄惨な事件に巻き込まれた仲間。被害者というカテゴリー。
すなわち、傷の舐めあいがしたいだけ。悲劇の内容は関係ない。巻き込まれたという枠があるということに意味がある。
「ありがとう、でも無理するな。もう大丈夫だから」
少女――アキラはそっと離れようとした。それでも藍は追いすがる。離れたくないかのように。
アキラは己の肌に水滴が落ちているのを感じた。
泣いているのか。
騒ぎを起こした張本人を慰めようとしてくれた彼女こそ本当に慰めを欲している。
なんとなくアキラはそう理解した。
異能を駆使し、《幻象》という人にあらざるものに近づくほどに人の痛み、気持ちが分からなくなっていく。
特にアキラは血霞の戦場にいた。心身共々痛みに鈍感にならなければやっていけない。己が爪牙にかかる獲物の気持ちを考えていれば、敗北を喫すことになる。
だから今のような感情を抱くことは珍しい。重傷を負った今だからこそ命ある人間に近づいたということなのだろう。
アキラは無言で藍を抱きしめた。
まだ『呼び鈴』は鳴っていない。気持ちだけでも人間でいられる時間は希少だ。そうだというのに……
「藍ちゃんから離れなさい!」
静寂を破る敵意に満ちた声。アキラには聞き覚えがあった。
「……《月宮の天使》」
名残惜しげに藍を放して、数メートル離れた所に立つ白蝋の少女と対峙する。
夜風に踊る灰白色の髪。その肌は陶器の如く白光り、包む衣は夜の黒。ただ意志に燃える深紅の瞳が、人形のような彼女を人間然とさせていた。
「藍ちゃんこっちに! 急いで」
「え……?」
藍は戸惑っているようだった。小夜が来たのは喜ばしいことのようだが、何をそんなに慌てているのか分かっていない。
「行ってやれ。彼女が待ってる」
アキラは背中を押してやった。
昔大事にしていた武人の矜持というやつだ。大儀は忠誠であるが、命令にない戦闘は私闘。ゆえに無関係、否、人間の感情を多少なりとも思い出させてくれた少女を巻き込むのはアキラの流儀に反した。
「悪いけど、人質にするんだと思っていたわ」
藍を背に庇い、小夜は少し意外そうに言った。
「そこまで堕ちてはいないさ。ところで、お前がその子を護るというのは叛意の表れか。もしそうなら、捨て置けないな」
アキラの全身を再び影が覆い尽くす。恥ずかしげもなく晒していた素肌は、闇の黒に染まる。
それは防具であり武具。彼女と同体をなす、暗き餓狼の変化した姿である。
小夜も即座に戦闘態勢をとる。闇を照らす一対の光翼が背に顕現する。
アキラは、戦意に満ちた小夜の顔に走った一縷の苦悩を見逃さなかった。
今の話を出されたのが原因であるのは間違いなさそうである。
「今夜は見逃してやる」
理由は3つ。第一に万全の状態ではない。
《起源》の雷撃は尋常の破壊力ではなかった。骨から内臓、筋肉、神経に至るまで全てがイカれている。今も外見を取り繕っているだけで、それらの修復が急ピッチで行われている。
そんな状態で戦って勝利が得られるほど、小夜は甘い相手ではないはずだと感じていた。
第二は藍についてだ。
その時、暴力的なほどの凶念の奔流が死んだような街を駆け巡った。常人でも不吉な何かを感じざるを得ない魔性の波動。
それが第三の理由である。彼女が、主がお呼びなのだ。
自身の怪我など気にしてはいけない。《忠誠》たる彼女は、命令に対する絶対服従こそが最優先事項なのだ。
アキラは近くの背の低い建物に飛び乗り、そこから疾風さながらの速度でビル群を渡って夜の底に飛び去った。
取り残された藍と小夜は、しばらくアキラが消えた方をぼんやりと眺めていた。
「オーケー、話を整理しようか。まず……」
だんまりを決め込んでいた藍のケータイが意地の悪い声で何やら言いかけたので、藍は瞬時に電源を切った。
隠された真実に向かい合う時が、ついにやってきた。真実を掴めば変化は避けられない。破滅か救済、いずれかの未来が訪れる。
死線を踏み越える恐怖と答えを見出す期待とで震えが止まらない。
藍は重たい唇から、決意に揺れる言葉を紡いだ。
「……小夜ちゃん、話してくれるよね」