第17話B:惑志-puzzled encounter
明人はゴクリと唾を飲んだ。周囲の音が遠のいていく。
正面には《起源》がゆったり腰掛け、明人の隣には藍が座らせられている。彼女は困惑したような表情でじっと明人を見つめていた。
「どうしやした? 早くしないと……」
戸惑いが頭を支配する。
この男の心中は窺えない。こんな所に連れ込んだ意図が分からない。
行き交う制服、絶えない談笑とリーズナブルな料理の匂い。
この和気藹々(あいあい)とした何でもないただのファミレス。
「早く決めてよ」
藍が文句を垂れ、早くしないと店員さんが困ってますぜ、と《起源》が急かす。
明人の自制心は吹き飛んだ。
とにかく腹が減っていた。胃袋の中身がマイナスに達していそうな空腹。
明人は少しでも眼を惹いた料理を片っ端から注文していった。
遠慮はいらねえ。なんせ全部この男が持ってくれる。
「す、すごっ……」
「何か、あったんでござんしょうか」
残された2人は明人の奇行にそれぞれ驚愕していた。
「今宵はどうして外に出てたんで?」
藍は九鬼の質問に答えるのを一瞬躊躇した。
助けを求めるように明人を見たが、怒号の連続注文をした後すぐにテーブルにへばり付いてしまい、役に立たない。
「えっと、お散歩です。月が綺麗だし」
人が良すぎて嘘をつけない藍。ついてはいるが眼が泳いでいたりと挙動不審だった。
「若いのに2人して素晴らしいご趣味で。いい友達になれそうでさぁ」
九鬼の方はといえば、感心した様子で何度も頷くと手を差し出した。
「よ、よろしくお願いします……?」
よく分からないが藍は一応握手しておいた。
痩せて骨ばっているようで、得体の知れない力強さを持った九鬼の手。何とも言いがたい気持ちになる感触だった。
「なぁに畏まってんですかい。あっしに敬語は不要ですぜ」
「でも、年上ですから」
「気にしない気にしない。見た目は大人、心は子供でさぁ」
パロディっぽい発言がますます九鬼の本質を霧に巻く。
「え、っと……」
「はははっ、まあ何でもいいでござんす」
返事に困っている藍を九鬼は笑い飛ばした。
明人は2人の会話を止めようとはせず、ぐったりとテーブルに突っ伏していた。何か腹に入れるまで動きたくなかった。
店内は遊び帰りの子供連れや学生の醸しだす日曜のオーラが漂っている。
《起源》もこんな人が多いところで何かしようとするのは愚かだろう。
最近ここらで遥の周りで起きたような失踪事件は耳にしない。この中に《幻象》が混じっていることは無い、と決めた。
他の可能性は脳内を埋め尽くすハングリーな意識に食われたらしく思いつかない。諦めた。
「お待たせしました」
置いてあったコップをぶっ飛ばすくらいの勢いで、脊髄反射的に明人は飛び起きた。
「明人さん? 店員さんビビってますぜ」
「はっ!? すいません。背に腹が代えられそうなんで」
言ってて理解に苦しんだ。店員め、なに砂利食ったみたいな顔してやがる。
「いただきます!」
《起源》の相手を藍に一任して、明人はひたすら料理を貪り始めた。
食べ盛りの少年を苦しめたお昼抜きの飢餓道がようやく終点に到着するのだ。
「九鬼さんは普段何してるんですか? あむ」
藍がフライドポテトをほおばりながら尋ねた。
「実はあっし自称旅人でしてね。お恥ずかしい話、ぶらぶらしてるだけなんですよ。道中、ボランティアもやってますが」
「なんだかすごいですね」
尊敬の念が籠もった眼差しに九鬼は頭を掻いた。
「そう言っていただけるとうれしいですねぇ。全ての出会いは一期一会、会う人全てにまごころを。あっしの信条でさぁ」
やっぱりこの人は普通と違う。本物の詐欺師に会ったことはないが、九鬼とはまた違うのだと思う。
その認識が良いものなのか悪いものなのかよく分からないが、話していると心地良かった。
しばらくして会話が切れた。だが悪い沈黙ではない。
藍は何の気なしに視線を九鬼の後ろへ移した。
すると離れた席からこちらを見ていた人物とバッチリ眼が合った。その人は慌てて席に引っ込んだが、赤い大きなリボンがボックスからはみ出ていた。
「綾瀬さん?」
「どこだっ!? ッんご」
独り言だったのにパスタを猛然と飲んでいた明人が物凄い速さで反応した。ついでに麺が喉をせき止めた。
「落ち着いてってば。ほら、あっちの席に」
指差したらもう明人はいなくなっていた。
恋愛ってスゴイなぁ。そう感じた瞬間心に亀裂が走った。
フラッシュバックする悪夢の記憶。瘴気に満ちた倉庫、覆い被さる男達、下腹部の鈍痛。
吐き気が込み上げてきて、藍は口を手で押さえた。
染み出してきた暗い気分を掻き消そうと藍は活気に満ちた店内に眼をやった。
「……っ」
こんな時に限ってカップルの姿がやたら目に付く。みんな幸せそうに笑っている。テーブルの料理も自分のより美味しそうに見える。
藍は気分転換どころか、ますます惨めになって俯いてしまった。
そういえば私、汚い子だったんだ。忘れてたな、もう普通の恋なんて……。
じんわりと視界が潤んでくる。
「大丈夫ですか、顔色がよろしくありやせんが?」
ブラックコーヒーを啜っていた九鬼が藍の顔を覗き込んだ。
ほんの少し眼を上げてその顔を見ると、本当に心配そうな九鬼と眼が合った。藍は込み上げる嗚咽を飲み下し、儚い声で呟いた。
「なんでも、ないんです」
「とてもそうには見えませんが……」
「すいませんっ!」
急激に目頭が熱くなるのを感じ、藍は咄嗟に席を離れた。変な眼で見られようが関係なかった。
「綾瀬、いるなら声かけてくれよ。心配してたんだ」
明人は2つ離れたボックスにいた綾瀬を見つけた。
ポツンと1人腰掛けて、ストローでジュースをブクブクさせていた。何故か必死で明人の方を見ないように頑張っているようだ。
「小夜に何かされなかったか? おい、何とか言えよ」
明人が質問しても無視してくる。
私がんばったよ、褒めて〜。と擦り寄ってくるという理想が崩れていく。
何気なくポンっとリボンで飾られた頭に手を置くと、電気が走ったみたいに綾瀬の身体が跳ねた。
「何だお前」
新しい反応に子供染みた悪戯心を駆り立てられ、何度もポン、ビク、ポン、ビクを繰り返してみた。
「綾瀬は髪で感じる、うむ新発見だ」
「何なんだりょきみみぎゃ」
痺れを切らした綾瀬が大声を上げようとしたが、何を慌てていたのか舌を噛んだようだ。
猫が潰れたみたいな声を出してくねくねと身悶えしているのを見ていると、こちらまで痛みが伝播してきそうだ。
いつも通りかなり変なのだが、明人にとっては微笑ましい光景に見えた。
「元気そうでよかったよ」
「うっ……」
慣れない演技が看破されたような気がして、綾瀬の中には恥ずかしさだけが残った。
「ほらいくぞ? 甘いものとかいくらでも奢ってやるからな」
「ホントー!? 行く行くぅ」
瞳をキラキラさせてさっと立ち上がる綾瀬。現金、とはちょっと違う気がした。
「切り替え早ぇな」
「え〜、だってね……むふふ」
「おかえりなせぇ、明人さん、それに《虚構の楽園》」
戻ってみると笑顔の《起源》だけが待っていた。《起源》だけ。
藍はどこだ。トイレなら問題ない。それ以外なら……。
「あっ、でさぁ、だ。久しぶり!」
「でさぁ、じゃありやせん。あっしにはれっきとした名前が」
「檻人でしょ?」
「なんか、発音違いやせんか」
2人のしょうもない会話を無視し、藍を探したが見る限り店にいなかった。
明人は黙らせる意味も込めて綾瀬の手を握り、《起源》と向かい合うように座った。
「藍をどこへやった?」
「さぁて何処でしょうねえ」
どこ吹く風、と言わんばかりに怒りを孕む質問は流された。
「ふざけんな」
明人が低く唸ると、《起源》は再び卑下た笑みを浮かべた。
「巫山戯けてなんていませんぜ。これはあっしの憶測ですがね、天使に会いに行ったとか」
「てめぇ……!」
ガリッと歯が音を立てた。テーブルの上、握った明人の拳が戦慄いた。
《起源》は眼を細めてじっとその様子を眺め、そして口を開いた。
「ほおぅ、殺す力ではなく、護る力が欲しいと」
「はあ? いらねえよそんなもん」
図星だ。意地を張って肝を冷やすような読心術に反抗を試みる。
「くっくっ、あっしの力を舐めてもらっちゃあ困りまさぁ。はっきりと見えてますぜ、明人さんの願望が」
《起源》の漆黒の双眸が彫りの深い顔の真ん中でギラついた。
魔の提案。差し出されたその未知の力があれば、小夜に対抗できるかもしれない。
しかしその為だけに人間を捨てるのは踏ん切りがつかない。
「まさしく人生を左右する決断でさぁ。じっくり……」
言葉からして明人が持つ《幻象》の認識を知っているのだろう。
不意に《起源》は話すのを止め、窓の外に眼を遣った。
そこには晩秋の寒気に身を縮ませて歩く人々しかいない。
「どうも囲まれましたね」
「どういうことだよ?」
「そのままの意味でさぁ。なに、すぐに分かりますよ」
その時台風の目に入ったかのように店内が静まり返った。この場にいる全員がただならぬ気配を感じ取り息を潜めているようだった。
窓の外、風景と変わらなかった通行人が、首を捻じ切らんばかりの勢いで店の中を向いた。それは衆目を意に介さず、ガラスに突進してきた。
人々は砕け散るガラスに日常の崩壊を見た。