第1話:蔽和-peace
静かな朝。
普通の家庭なら人が廊下を歩く音や朝食を準備する音、挨拶なんかが聞こえるはずの時間帯。
しかし、榊原家は無音。耳鳴りも恋しいくらいに完全に沈黙している。
この家は半年前の悲劇から音と温度を喪失している。しかしながら、ここの住人はその実感がないのである。
「ふわぁあ……」
唯一の音源は事件の生き残りである長男、榊原明人。彼の欠伸が静寂を破る。
「今日はクラシックでもかけてみるか」
リビングに出てオーディオのスイッチをいれる。安らかな曲が空虚なアパートの一室を満たしていく。
「今日もいい天気だな」
カーテンを開けると秋晴れの空が目の前に広がる。12階建てアパートの8階に位置するこの部屋は見晴らしはなかなかのものだ。
見る限りは緋森市は自然と文明が共存共栄する街という印象を与えるかもしれない。
だが実際は交通網を発達させ都会化するという計画が中途半端な状態で頓挫しただけなのだ。
「……おっと」
ちょっと物思いに耽っていた明人はトースターの音で現実に引き戻された。そうして食事が終わるとすぐ支度して家を出た。
「いってきます」
もちろん返事は無い。だが虚しい挨拶が毎日の習慣になっていた。
それでも、虚しいとは思わない。やはり当人には自覚がないのである。
駐輪場まで降りてチャリに跨がる。
ケータイに繋がるイヤホンを装着して走り出す。
ディスプレイには毎朝恒例の新着メッセージがあった。開くと音声が再生されはじめた。
『おっはよー! お兄ちゃん。今日も元気? 今日は米国最後のテストが帰ってきたよ。数学以外は最高なんだ! ラストだし、かなり気合い入れたから当然だよね。それじゃおやすみなさい。あともうすぐ会えるね! バイバイ』
「ああ、もうすぐだ」
ぼそりと1人呟く。
朝から元気過ぎる声に頭が痛い。頭は良いはずだが、アメリカとは時差があることをなかなか理解してくれない。案外わざとかもしれない。
これは男子たる者誰もが一度はして欲しいと思うであろう美少女からのモーニングコールという類いのもの。
そんなささやかな願いを叶えたのは明人の場合、現在アメリカに一年間だけ留学中の妹、藍だった。
相手が妹なので明人に特別な感情は無かった。
だが明人の友人で藍と面識がある奴らにこのサービスを知られた時は酷かった。
ほんの数時間後には学校中の男共に広まり、散々茶化された。しかし最終的に奴らは嫉妬に狂っていた。
更には藍の熱烈なファンがケータイを強奪する作戦に出たりもした。
結局その騒動は明人の慈悲によって沈静化された。
次第に慈悲はエスカレート。
今ではたまに写メで送られてくる画像までも餌にしてリスペクトを大量獲得して明人はある意味教祖の立場に君臨していた。
今では落ち着きを取り戻し、犯罪になりそうなこれらの行為から足を洗った。
しかし、あと約2日で本人が帰国する。そうすれば必然的にばれてしまうだろう。
「ま、別にいいんだけどな」
藍にお灸を据えられること必死なのだが、その反応を見るのは楽しみである。
ニヤリと口元が緩んだ。
「何笑ってんだ? 明人。変態の素質があるんじゃないのか」
「ふん。そんなこと知り合って一瞬で分かっただろ」
「それもそうか」
しばらくこいでいると友人が数人合流した。
交友関係は広く浅くがモットーだ。男子も女子も関係ない。
遊ぶ相手には事欠かさないが、親友と呼べる奴はいない。
「悲しいとは思わないな」
明人の口が勝手に言葉を紡ぐ。すかさず、友人がツッコんでくる。
「お前、独り言多すぎ。その癖何とかならねーの?」
「三つ子の魂百まで。直るもんじゃない」
「3歳からブツブツ言ってたのか、キモいな」
「そうじゃなくてだな……」
騒がしい登校。両親は長期旅行中、妹は留学で実質一人暮らしの身には嬉しい。
「有意義な生活だよな」
自転車小屋にチャリを置くとまた独り言が漏れた。