第10話:宥和-approach your heart
明人は、自分以外の出す生活音で眼が覚めた。
それは長い間無かったことで、常々感じていた微量の孤独を和らげた。寝ぼけ眼でソファーから身を起こし音のする方を見やる。
窓から差し込む陽光の中、藍が掃除機を引っ張って活発に動きまわっていた。
「おはよう」
掃除機に負けじと多少ボリュームを上げて挨拶をした。
「あ、お兄ちゃん。おはよう」
藍は朗らかに笑って返した。顔色も良く健康そうだった。昨夜のことはあまり影響が無いようで安心できた。
「大丈夫か?」
「何が?」
「時差ボケとかしてないかなって」
割と自然に訊いたことだったが、藍は呆れたというように溜息をついた。
「もう帰って1週間だよ。学校にも行ってるし、治ったに決まってるじゃない」
「……ああ、そうだな。寝ぼけてたよ」
「しっかりしてよ。お母さんたちいないんだから」
それを聞いて驚かないようにするのは苦労した。ああ、そういえば綾瀬の幻影がそんなことを言っていたな、と思い出した。
両親の不在という巨大な違和感は綾瀬によってうまく嚥下されたようだ。明人は安堵の溜息をついた。
「あ、そうだ。遅いから1人で朝ごはん食べたちゃったよ」
藍はテーブルにある明人の分の皿を指して、掃除を再開した。
「朝から働くなぁ」
心配事が1つ消え、明人は時計を見た。
「もう9時か。俺にしちゃ遅い。いてっ」
慣れない姿勢で寝たせいか、身体の節々が痛い。しかも昨日から着替えていなかった服が気持ち悪い。二日連続ソファーで寝たこともよろしくない。今夜は自分の部屋で寝ようと、ぼんやりと考えた。
生ぬるい日常の拍子抜けしたような空気を噛みしめながら、明人は自室に向かった。
「なんじゃこりゃー!」
部屋は荒らされ放題。本とかだけならまだしも、タンスやベッドまで動いていた。朝からハイになるくらいの乱雑ぶりだ。
明人は昨日の出来事を回顧してみた。
ドアが開かなかったのはこいつらがバリケードを作っていたからだと気付く。そして、この部屋を占拠していた人物も思い出す。
「綾瀬め。好き勝手してくれたな」
この反応を見て大笑いしている様が眼に浮かぶ。
今もそこにいるのではないか、という錯覚が脳裏をよぎる。もちろん部屋を見ても、スラムを彷彿させる荒れようしか目に入らない。
明人は幻想を振り払って、片付けを始めた。もう存在していない少女のことを想っても仕方がない。
「案外未練がましいよな、俺。気にしないのが特技だったのに」
結局のところ藍の部屋の掃除も合わさって、家中大掃除になってしまった。
その後シャワーで汗を流し、すっかりきれいになった家で明人はくつろいでいた。
最終的に11時という中途半端な時間になってしまい、気は進まないが藍が作ったものだからと朝食を頂いていた。
ベーコンエッグとトースト。どっちも冷たい。
藍は明人が掃除している間に買出しに行って今も不在。
「三食はキチンと摂りたいんだがな…」
朝だからと軽めにしてあったのが幸いで、完食して腹五分目といったところか。
食べ終わって窓の外を眺めた。空は青くて空虚だ。藍のいない家は静かで、鳥の囀りも聞き取れる。
「本日は晴天なり。何して過ごそうか。とりあえず小夜の情報が欲しいな。あと武器も」
独り言が尽きない。その中で、素で「小夜」と呼んだことが恨めしい。
これもやはり何らかの繋がりがあった所為なのか。記憶はまだ黒く塗りつぶされている。思い出さないほうがいいのかもしれない。
「お兄ちゃん! 変な手紙がきてるよ」
遠い空を眺めて物思いに耽りかけた矢先、藍の声で現実に引き戻された。
帰ってきた藍は差出人不明の封筒を持ってきた。ドラマ以外でもあるもんだなと思う。更に住所も無ければ、切手も無い。どうやって届けたんだ。
「不気味だな。コーヒーのないカフェオレくらい」
「それミルク」
「そう、ミルク並みに白い封筒だ」
口ではお茶らけて見たものの、脅迫状だったらどうしようかと悩む。小夜あたりからの。
「そんなことどうでもいいから開けてみてよ」
何も知らない藍に急かされるまま明人は封を千切って、中にあった手紙を引っ張り出す。中身も味気ないもので、短い文章と差出人の名前だけが書かれていた。
それを見た瞬間、明人は手紙を藍から遠ざけた。
「どんなの? 見せてよ」
「俺宛だ。それに見たらチェーンメールを友達に送らなきゃならん」
「アナログのチェンメってあるの? ま、しょうもない悪戯ね」
藍は明人の言葉を鵜呑みにして、興味を失ったらしかった。というより、薄々そんな物だろうと気付いていたのかもしれない。そして藍は買ってきたものを冷蔵庫に入れたりする作業に入った。
うまく誤魔化せたはずだ。
明人は自分の部屋に戻り、手紙を見直した。
『迷惑なのは分かっています。それでも会って話したい。駅前通りにあるドアーズという喫茶店で12時に。霜崎遥』
脅迫状より恐ろしい殺人者からの呼び出しであった。
昨日の今日で、あまりにぶっ飛んだ提案である。不条理過ぎて思考が止まる。
「何考えてやがる。行くかボケ!」
明人は手紙をグシャグシャにして床に叩きつけた。興奮して変な汗が出た。
会えば感情を抑えられる自信が無い。暴力沙汰になって補導されでもしたら、親が行方不明だと知られてしまう。それで藍の幻覚が解けたら元も子もない。それはなんとしてでも避けなければならなかった。
「くそっ!」
今自分はどんな顔をしているのだろう。
沈痛か、憎悪か、はたまた未来への諦観か。
そんな顔を藍に見せたくないので、明人は部屋をうろついた。
歩きながら幻象とは一体何なのだろうか、と考える。狂っているとしか思えない。しかし、綾瀬のことを悪く思うのが憚られてすぐに邪な思案は沈静化された。同時に頭も冷やされていく。
「……まて、これはチャンスかもしれないな」
藍を護るには力が足りない。その不足は満たしようも無く、どう足掻いても人の身で、しかも一高校生には到底不可能だろう。
綾瀬は殺された。他ならぬこの遥に。
しかし、それが弱味だ。負い目だ。人間的な感情が遥にあればの話だが。だが自分で殺しておいて、会いたいと言ってくるのがその証拠とも思える。
明人はしわくちゃの手紙を拾い上げた。決断は早かった。
「藍、ちょっと出かけてくるな。昼飯も食って帰る」
「え? あ、うん。分かった。気をつけてね」
藍が手を振って見送った。
「ちゃんと戸締りしとけよ」
「は〜い」という元気な返事に背中を押され、明人は家を出た。
マンションの外に出ると蒼空にはちじれた雲がまばらに浮かんでいた。家にいたときには見えなかったものだ。
あれは、不確定因子なのだろうか。集まれば翳りが生まれる。消えれば透き通る蒼が現れる。
空を見上げて明人はそんなことを思った。
約束の12時。
ドアーズというのはわりかし趣味のいい喫茶店と評判だ。この辺の学生なら知らない奴はそうそういないだろう。大きくはないが、落ち着いた雰囲気で店内はクラシックミュージックが流れている。ドアがいっぱいあるわけではない。
明人が店に入った時、遥は奥の方の席でガラス越しに人の往来を眺めていた。どこか物憂げな雰囲気が漂っている。
間もなく遥は明人の気配に気付き、片手を挙げて場所を示した。
今日の遥の出で立ちは、ゆったりとした白いワンピースと黒のジャケット。
今までの印象からもっと動きやすい服かと明人は考えていたが、なんともおしとやかな感じである。
明人がこの状況で不謹慎にもカワイイと思ってしまうのも致し方ないくらい、イイ感じの女の子だ。
もう最初に出会った時の可愛げのある普通の少女では決して無い。あれが演技であったなら相当巧者である。
「で、何の用かな?」
席に座るなり、明人は尋ねた。
酷薄そうに言ったのだが、遥は顔色一つ変えない。そのままもはや定着した抑揚の無い声で謝り、少し身を引いて遥が頭を垂れた。
「……本当にすいませんでした」
この無防備に差し出された頭をテーブルに叩きつけてやりたかった。
「それだけを言うためにここに来たんじゃないだろ?」
明人は顔の筋肉が強張らせながら聞いた。謝罪なんか聞きたくなかった。
「……変に思われるかもしれませんが、残りの半日私と付き合ってもらえませんか?」
「は?」
明人は話がおかしな方向に流れていきそうな気がした。
「平たく言えばデートしてください、です」
恐ろしく前置きに適った要求を遥は真顔で言い切った。
「つまり、お前と綾瀬のように話したり、買い物したりしろということか」
言いながら、明人は予期していた通りますます自分の顔が引きつるのを感じた。
「それが罪滅ぼしになると思っていますし」
裏があるに決まっている。明人は直感した。そんなことを本気で思っているのなら脳みその所在を疑う。
明人は握り拳を震わせて、じっと憤怒の獣が鎮まるのを待った。
一方、遥は顔を上げ冷ややかな眼差しで明人を見ていた。
この険悪な空気の只中にコーヒーを2つウェイトレスが運んできた。ドアーズなのにコーヒーである。
彼女はできるだけこの客たちを刺激しないようコーヒーを置いた。遥が軽く会釈したのに応じて、彼女はそそくさと逃げ去った。
「いいぞ」
明人は唸るように言ってコーヒーカップを引っ掴み、中身を飲み下した。ブラックなのだが苦味は感じない。色のついた冷水と同じだ。
「ありがと。あなたにそんなに想われて彼女幸せね」
「言うな。もう済んだことだ」
明人は苦しそうに呻いた。苦渋の決断だったのは遥の眼にも見えていた。
遥は胸が圧迫される感触を覚えた。この期に及んでまだ罪悪感を覚える自分に苛立ち、それを押し流すためコーヒーに手を伸ばす。
私は復讐者だ。手段は選ばない。そう、自分に言い聞かせる。
シロップとミルクを入れたコーヒーはなおも根源的な苦さを持っていた。
仮初めのカップルが、欺瞞に満ちたスケジュールを決めている最中、事件は起きた。
くぐもった悲鳴が聞こえたかと思うと、爆発に近い破砕音と振動が喫茶店を揺るがした。
2人は必死に眼を瞑った。
「おい、なんだよ……あれ?」
眼を開けると明人は言葉を失った。向かいに座る遥も眼を見開いている。
日光を反射しダイヤのように輝くガラス片がスローで舞い散っていた。ある意味幻想的ともいえる光景に一際アクセントを与える物体がある。
黒のワゴン車が店内に突っ込んでいるのだ。
カウンターとの衝突でボンネットが歪に潰れている。
「うわあああ!?」
客、店員、野次馬、その全員が状況を理解できない内に、運転手らしき男がエアバッグを押しのけ半狂乱になって車を飛び出してきた。
「こっちよ」
車からはヤバげな液体が漏れ出しており、明人がそれが何たるか思いつく暇もなく、遥に車が突入してきた窓から通りに連れ出された。
数テンポ遅れて他の人たちもバカのようにわめきながら散り散りにドアーズから湧き出してゆく。
明人たちが脱出して10秒もしないうちに、車は地響きと熱風を放って爆発炎上した。
明人らは爆風が立ち尽くす身体を揺らす程度だったが、避難が間に合わなかった人たちは見るに耐えない有様であった。
黒煙を伴い荒れ狂う業火が店と逃げ遅れた人々を喰らっている。
服に引火し転げまわる人。爆発の衝撃で地面に投げ出され、ろくに抵抗もできず高温に晒される人。怪我人を助けようとしている者もいれば、しきりにケータイで撮影している者もいる。
立て続けにまた爆発が起きた。先の物より大きく、どうやら店のガスに火がついたらしい。
熱風が火葬場の臭いを運ぶ、この地獄絵図に明人はただ驚愕をもって突っ立っていた。燃え盛る業炎に視神経が悲鳴を上げようと、眼を離すことはできなかった。
その隣では、遥が店とは関係ない場所に眼を光らせている。
遠巻きに事故を見物している輩などではない。遥は彼女にしか分からないモノを探していた。
「榊原くん、大丈夫?」
遥に身体を揺すられ明人はようやく紅い呪縛から解放され、眼を擦った。
「ああ、すまん。こんな事故は初めてだったんで」
「事故なんかよりタチが悪いわ。近くに《幻象》がいるの」
「じゃあ今のもソイツがやったのか?」
「たぶん。普通こんな真昼間に暴れるヤツなんてほとんどいないんだけどね」
「それで、ソイツは今どこに?」
明人も炎の残像が残る視界を見回してみるが人間と幻象の区別がつかない。かすかに耳がサイレンの音を捉えただけだ。
「それが……場所を特定できないの。気配が霧みたいにこの辺一帯に広がってるだけで」
「なんだそりゃ」
明人はがっかりして、人だかりから抜けた。遥もその後を追う。
ここにいても得することはないと判断したからである。本当の彼女ではなさそうだから。
人は野次馬精神豊富なようで、皆事故のあった方へ引き寄せられていく。
その流れに逆らい明人らは歩いた。もうドアーズは見えなくなり、振り返れば黒煙が立ち上っているのが見えるだけだ。
「好奇心は猫をも殺す」
明人は思いついたことわざを口に出してみた。
「それがどうかした?」
「死にかけた俺らから見たらあいつらはよっぽど命知らずにみえるな」
「そうね。また爆発が起きないといいわね」
「まったくだ」
明人は遥に一応他人を思いやる心があることを知った。ただ話を合わせてきただけかもしれないが。
「さっきの幻象の方はどうなってる?」
「気配が半径5メートルくらいの円状に広がって、私たちを追ってきてる」
遥は意識を集中させるためか眼を閉じ、しばらくして答えた。
「それしか分からないのか?」
「ごめんなさい」
遥は戸惑っていた。幻象の居場所が分からないなど未曾有の事態である。
遥の索敵能力は幻象の位置を平面的に捉える。漁船のソナーみたいなものである。距離は掴めてもその幻象の強弱など、その他の情報は全く入ってこない。実際に会うまでどんな奴か分からないのがネックである。
肝心の《起源》についても同様で、それゆえ遥は復讐を果たせないでいた。
さらに使用には意識を集中させる必要があり、他の行動と平行して行うことはできない。慣れでいくらかマシになったが、やはり動きは鈍くなってしまう。
巨大な欠陥の代わりに有効範囲だけは広大で、やろうと思えばこの緋森市全体、あるいはそれ以上の範囲をも見ることもできた。
明人が何も言わず先に歩き出す。
遥は何とか力になろうともう一度精神を集中させ襲撃者の位置を割り出そうとした。
歩みを止めた遥の頭上に、ここぞとばかりに巨大な影が覆いかぶさった。遥は索敵のため反応が遅れてしまう。見上げればビルの側面に架かった看板が降ってきていた。
遥の身体能力ならかわせないスピードではない。しかし遥の足は凍りついたように動かなかった。焦燥と驚愕が生む恐怖で遥は眼を見開いた。
「危ねえ!」
それは何たる偶然だろう。
明人は遥の頭上の看板が不穏な動きをしているのを目撃していた。ついてこない遥を確認するため、振り向いたときに視界の端に蠢いたのである。
明人は自然と地を蹴っていた。そこには一切の躊躇も気後れも無い。
次の瞬間、明人は遥と一緒に歩道に転がっていた。
地面が揺れる揺れる。金属が歪みねじれて潰れる轟音が耳を撃つ。
「はあ……はぁ、怪我、してないか?」
「う、うん。大丈夫……」
明人も遥も心臓が飛び出さんばかりに跳動していた。抱き合う格好の2人は互いにそれを感じることができた。
明人は無事を確認すると、密着状態だった遥を腕から解放し座り込んだ。チラリとビルを仰ぎ見る。屋上に小さな人影を一瞬捉えたが、その姿はすぐに掻き消えた。
「ほら、立てよ。騒がしくなるし、もう行くぞ」
周囲にはすでに野次馬共が集まってきて、不幸な事故から生還した2人を好奇の目で見ていた。
遥は差し出された明人の手を掴み、立ち上がった。
明人はそのまま手を引いて、何か急くように大またで歩き出した。
「どうして助けたのよ。あなたにとって私は仇でしょ?」
身動き1つできなかったことへの悔しさが、遥にお礼よりも憎まれ口を叩かせた。
「ああ、その通り。俺は別にお前が死んだって構わない」
放たれた低い声は案の定というべきか、予想外というべきか。ああは言ったものの遥にとっては後者であろう。
遥はカチンときて明人の手を振り払って逃げようとした。
寂しさを癒すために近づいたのに、憎悪の籠もった呪詛のような、荒々しい刃のような言葉を吐きかけられるなら孤独のままでいい。
しかし、明人は放さない。逆に遥を強引に振り向かせた。
「でもな、これ以上俺の周りで人が死ぬのは御免だ。前にも言ったがな」
遥は明人の眼を見た。彼の眼は自分が直面している不条理な運命に深く悲嘆していて、それでもなお抗おうとする強靭な意志が宿っていた。
「私は……人間じゃ、ない」
遥は弱弱しい最終防衛線を張った。
明人は容易くこれを突破した。案の定というべきか、予想外というべきか。遥にとっては前者であり願望であった。
「いや違うね。どれだけ超常的でも、お前の本質は人間だ」
遥の中で滞っていた澱みが浄化され、昇華された。
それは遥が常に望み、常に叶わずして心を冒されていた病。《幻象》だけど人間として接して欲しいという願望。
「うっあああ……!」
遥は感情を抑えられなくなり、声をあげて泣いた。明人の胸に顔を埋めながら。
明人は何も言わない。道行く人が怪訝な目つきで見ようとも、ただ遥の滑らかな長髪を撫でるだけ。冷たい光を瞳に宿しながら。
明人は初めて会ったときの遥を思い出していた。
あの親しみ深く、ちょっとおてんばな感じの少女は張りぼてではなかったらしい。実はあれが元来の遥ではないのか。
《幻象》としての遥とこう在りたいと願う遥を対比させると、人は変わるんだなという、虚しさのような感情が生まれた。
場違いに思えるその感情はすぐに消滅することとなった。明人はそれを期に遥を抱きしめてみた。
遥も抱き返してくる。人の温もりというここ数年感じたことの無いものを全身で享受していた。
そして自分が殺めた綾瀬という《幻象》と同じ気分を味わっていることに気付き、初めて心の底から罪悪感を覚えた。
「気は済んだか?」
「……うん」
「そうか」
近くのベンチで遥が落ち着くまで少し休憩してから、2人は明人の家に向かって歩き出した。
遥の涙で濡れた服のまま出歩く気にはなれなかったし、遥もそんな調子ではない。
遥は泣きはらした目を隠すためかうつむき加減で明人と平行して歩いている。時折ヒックヒックとかすれた音を出しているのが憐れに見える。
こういう時の接し方が分からないので、明人は言葉少なになりがちだった。ほとぼりが冷めるにつれて妙に意識してしまっているのもあるのだろう。
しかしそっとしておくのが一番だと考え無闇に沈黙を破ろうとはしなかった。
「着いたぞ。お前もくるよな」
いつの間にかアパートの前までやってきていた。
遥を連れ込むのは綾瀬に対して後ろめたさを感じる行為であったが、ここで見捨てるわけにもいかず聞いてみたのだった。
「私なんかが上がってもいいの?」
遥は控えめに質問に質問で返してきた。
どちらかといえばクールな遥がいいので、明人は早く立ち直って欲しかった。遥を篭絡して戦力に加えることが今回誘いに乗った主な目的だ。
憎悪から生まれた作戦だったが、今では邪気が抜けてしまい酷く扱おうという気持ちも消えていた。抵抗されなければな。
「ああ。遠慮することは無い」
エレベーターに乗り込むと、すぐに8階に到達した。
まっすぐ自宅のドアへ向かい、鍵を開けようとしたが、遥に止められた。
「ちょっ、ちょっと待って。私ひどい顔してないかな?」
妹がいると教えたので、泣いた跡を見られるのは嫌であるらしい。
「んー、大丈夫だ」
見られても藍なら空気を読んでスルーしてくれると思う。明人は率直な感想を答え、鍵を開けた。
「そう。良かった」
遥も安心したようで、明人について家に入った。
明人は玄関に入るとすぐ違和感を感じた。
何かが違う。なんだ、なんのことは無い。藍の友達のものらしき靴が並べてあるだけだ。
明人はそんなものに気をとられたのが馬鹿馬鹿しくなってさっさと上がった。遥も後に続く。
「ただいま」
「お邪魔します」
「おかえり。早かったね。およ? もしかしてその人が例のカノジョさん?」
藍の楽しそうな言葉は明人の耳に届いてこない。全神経が視覚にまわっていた。藍の向かいに座る少女に。
「こんにちわ。お兄さん。お邪魔してます♪」
例のゴスロリ服ではない。あの夜の禍々しさも感じられない。それでも、そこに藍と一緒にいるのは紛れもなく森谷小夜、その人であった。