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第9話:変容-vicissitudes

 電車に揺られることしばし。明人と藍は緋森市街の駅で下車した。

 2人の家は市街地からは距離があるものの、手軽に遊びに行けないほどではない。


 明人はガラガラと耳障りな音を立てるトランクを引いて歩いた。

 さすがに洗濯物やら何やらが大量にあるので、残りは郵送してもらうらしい。これには最低限の物しか入ってない。

 隣では藍がキョロキョロと落ち着きなく懐かしの街を見渡している。

「新しいお店がいっぱいできてるじゃん」

「そうだな。有名企業のグループがこの辺にも進出してたし。ここも割と発展してるぜ」

 楽しそうな藍の顔を見て、明人もにこやかになった。上手く笑えていると思う。

「へぇ、ただの田舎だと思ってたけど違うんだね」

「カントリーサイドサイドがカントリーサイドになったくらいだ。大差無い」

「大違いよ。明日日曜だし、誰かと遊び行こっかな」

「帰って早々それかよ」

「だって話したいことたくさんあるし。色々見たいじゃない」

「観光気分か。学校で話せば良い…、っとあまりとやかく言うとウザいな」

「そうそう。黙ってなさい」


「そういえばおなか空いたなぁ。ね、何か食べて帰ろうよ」

「電車に乗って随分時間経ったしな。そうするか。で、何が食いたい?」

「え〜っとね……」

「ズバリ、ラーメンでしょうな」

 日本人ラーメン大好きだろ、という推測から言ってみた。

「何でわかったの?」

 藍は意外そうにこちらを見た。案外単純なのかもしれない。

「お前のことなら何でも知ってる。何故なら…」

「シスコンだから?」

「何を言うか!」

「どうせ私のコール、楽しみにしてたんでしょ」

「……くそっ、アメリカめ。俺の妹に変な能力植え付けやがって」

 それらしく苦々しい表情を浮かべておく。

「今の間は何よ? マジでキモい人なの?」

 漫才まがいの会話を楽しみながら、2人は店を探して歩いた。


 威勢の良い挨拶が2人を出迎えた。店内は喧騒と食欲をそそる香りで満たされていた。。店内は喧騒と美味そうな香りが充満していた。

 学生、会社員、家族連れ。多様な人々が思い思いに食事しており、概ね繁盛しているようだった。

 店員に案内され、今ちょうど空いたとおぼしき席に座った。

「お腹空いたぁ。どれにしよっかな」

 向かいに座る藍がメニューをテーブルに広げた。

「スタンダードだな」

 明人はざっと目を通してがっかりした。自分でもよく分からないが変な物が食べたかった。

「私これにしよ」

「じゃ、これで」

 注文してからの空き時間は退屈することはなかった。一年分の土産話があるのだから当然だった。

 藍はどれから話せばいいのか混乱していて、話にまとまりがなかったが、それほど思い出がたくさんあるということだ。それは微笑ましいことであった。

 話が弾んできた所で「おまたせいたしました」とラーメンが運ばれて来た。

「ちょっとお兄ちゃん?! 何たのんだの?」

 明人の前に置かれた物を見て藍はギョッとした。

「何、って担々麺だけど」

「明らかにメニューと色が違うよ。真っ赤っかじゃん」

 メニューには濃いオレンジ色の見本が載っていたのだが、目の前にあるのは血かマグマみたいな色のスープである。

「そういうお前は冒険心の欠片も無い醤油ではないか」

「コレ1番人気って書いてあったし。だいたい、地雷源に突っ込むのは冒険心て言わない」

「いやいや、コレ裏の人気メニューだから。確か当社比云十%アップだったか」

「またテキトーなこと言って。ひねくれ者」

 藍は愛想を尽かしてラーメンを口に運んだ。

「あ、美味しい。やっぱ向こうのとは根本から違うわね」

 感激して食べ進めていく藍に遅れまいと明人も赤いスープを一口啜った。

「……うん、イケる。適度な辛味が脳天に突き刺さる」

 限界まで辛くと注文したのだが、職人は自分のラーメンを凶器にはしたくなかったようだ。見かけはひどくレッドなものの、味はちゃんとしていた。

 美味しい料理と絶えない談笑。

 綾瀬といた時もそうであるが、意図せず独り暮らしが続いていた明人にはやはり新鮮なものであった。

 藍からは様々な話題が飛び出した。ニュースでしか知らない外国の見聞も広められた気がして明人は何倍も得した気分だった。



「どっかでケーキでも買ってやるよ」

「ホントに!? 今日は奮発するね〜」

 会計を済ませて2人は店を出て通りを歩いていた。

 緋森市街の夜は意外に人がいて、あまり夜の街に繰り出したことのなかった明人は驚いていた。

「再会を祝すんだから当然だ」

「実はお母さん達が買い忘れたケーキを買うだけとか…、ああっ!」

「ん、どうした?」

「夕御飯食べちゃった。どうしよう……」

「別に食うことだけがパーティーって訳じゃないだろ」

 そうは言っても明人もその事をすっかり忘れていた。即席の嘘であったから仕方ないと自分に言い訳しておく。

「お母さんの料理とか楽しみじゃない。お兄ちゃん何で言ってくれないのよ」

「すまんすまん、お前の話が面白かったからつい、な」

 感づかれまいかと身構えたがしっかりしてよね、とだけ言って藍はその話を止めた。

 そんな緊迫した空気が去って暫く後、2人はオシャレなスイーツショップを見つけることができた。評判云々は知らないが、最初に見つけたのでとりあえず入ることにした。

「ここで買おっか」

 藍に連れられ店に入ろうとした時に、ポケットでケータイが振動した。

「ちょっと待って」

 藍に一声かけて、明人はケータイを取り出した。着信があったのは明人のではなく綾瀬のだった。

「お兄ちゃん、ケータイ変えたの? なんか女の子っぽいけど…」

 確かにキラキラのシールやネコのストラップでデコレーションされたピンクのケータイは到底男の物には見えない。

「俺の彼女のケータイだ。別に盗んでメール見たりしてるわけじゃないぞ」

 言いつつこの機会に電源を切っておこうと思い開けたところ、明人は奇妙なモノを発見した。

『病照ちゃん』

 綾瀬はこのなんと読むのかも定かでない文字で電話の相手を登録していた。

 この相手がどうも何回か掛けてきているらしく、不在着信が溜まっていた。明人も空港にいる間の着信には気付いていなかった。

「早く〜。彼女だからって勝手に見たら怒るよ」

 藍が急かしたが、今はこっちが重要に思えた。

「ちょっと先に行って見といてくれ。俺のヤツも決めていいから」

 有無を言わせぬ口調に藍は苛立ったようだが、明人が電話に出てしまったので仕方なく店に入っていった。

『もしもし? やっと出たわね。今どこよ』

 相手の女の声には聞き覚えがあった。いつだったか知れないが、確かにあった。

『黙ってないで何とか言ったら。綾瀬さん?』

「もしもし」

『……』

 相手は驚きのあまり沈黙したようであった。知らない男が友人の電話に出たのだ。当たり前の反応である。

 しかし、次に発した言葉は思いもよらないものだった。

『ああ、明ちゃんか。久しぶり』

 親しげな挨拶。偶然街で会った時のような軽いノリであった。しかもこの呼び方である。電話をしているのは自動的に決まった。

「誰だ? お前」

『ひどいなぁ。あれだけいじめたのにまだ思い出せないの? でも当然と言えば当然よね』

「訳わかんねぇ。名前言えよ」

 言われなくても分かっていた。あくまで形式的な質問だ。小夜に綾瀬との関係を悟られてはいけないと直感した。

『森谷小夜、よ。昔みたいに小夜ちゃんって呼んでも良いわよ』

「知りもしない奴を誰が呼ぶか!」

『あらら、ご機嫌斜めのようね。でも見ず知らずの相手にそんなに怒鳴れるなんて変だと思わない?』

 痛い所を突かれ、明人はだんまりを決め込むしかなかった。

『ま、何でも良いわ。そのうち語り合うことになるのだし。それよりそのケータイの持ち主はどこかしら?』

「知らないな。部屋に落ちてたから拾ったまでだ」

『ふふふっ、あの子もドジね。ケータイ忘れてフラフラしてるなんて』

 小馬鹿にした笑いが聞こえ、明人はムッとした。

『そうそう、せっかく話してるのだし、もう1つ聞こうかな。妹はお元気? 空港でちょっと変だったけど』

「どういう意味だ?」

『さぁ? どういう意味でしょうね』

「ふざけんな! 藍に手を出したらタダじゃおかないからな!」

『ふふふっ、ごめんなさい。なら私はタダじゃ済まないコトになりそうね』

 怒りを露にする明人に対して、小夜はケラケラと笑い残酷な言葉を放った。

「てめえ、何をした!」

『本人に聞けば? お互い傷の舐め合いでもするが良いわ。さよなら』

 更に追及しようとしたが、一方的に切られてしまった。

 藍が無事に帰ってきたことで、小夜の脅威は去ったと勘違いしていたようだ。藍もまた、何らかの事件に巻き込まれていたらしい。

 最初に藍から感じた違和感の正体はこれだったのである。

 綾瀬がいない今、ただの人間である明人が幻象に敵うはずもない。襲われれば確実に死ぬ。「どうする? 何か手は……」

 ぶつぶつと呟きながら思案する明人に近づく影があった。

「大丈夫?」

「うわっ!? なんだ藍か、ケーキ買えた?」

 肩に手を乗せられただけで、明人は情けないほど飛び上がった。

「なに怒鳴ってたの?」

「いや、心配するな。何でもない。ただのケンカ。勝手にケータイ使った俺が悪いんだ」

 口から出任せの弁解はまるで願望のようだ。電話の相手が綾瀬ならどれだけ良かったことか。「嘘……ちゃんと話してよ」

「えっ、何をだ?」

 突然変わった藍の口調は真剣で、ある種の冷たさが感じられた。

 それに対して反射的にとぼける自分に明人は憤りを覚えた。

「分かるよ。悩みがあるんでしょ? さっきは俺を頼れとか言ってたくせに、私には頼ってくれないの?」

「悩み。この俺が?」

 藍は平生から妙に鋭い所があった。今もその勘が働いているのだろう。今はそれが忌々しい。

「向こうでのほほんと暮らしてたお前には分からんよ」

「……お兄ちゃん、変わったね。だって、こんな酷いこと言うんだもん」

 藍が消え入りそうな声で呟く。捨てられたペットのような雰囲気もある。

 明人が何と声をかけようか渋っていると、藍は独り言を呟いた。

「……私だって色々あったんだから…」

 これにより、明人は小夜が発した『タダじゃ済まされない事』が実際にあったと確信した。今は喧嘩などしている場合ではない。

 やっと脳が冷静な判断を下し、明人は落ち着くことができた。

「ごめん。俺がどうかしてた」

 素直に非を認めたが、言った所で何か策が見つかるとは思えない。藍に苦痛を与えてしまうだけかもしれない。明人の面持ちはますます陰険になるばかりである。

「誤魔化したりせずに話してよ。どんなに辛い真実でも隠されるよりはマシなんだから」

 俺の周りには強い女の子が多すぎる。

 それでも俺は弱いままなのだ。男として、何より人間として。

「家で話そう」

 だから

「そうだね」

 帰るしかない。綾瀬の置き土産がある我が家へと。

 街の灯りに負けたのか、それとも広がる雲に隠れたのか、歩き出した2人の頭上に星は見えない。

 藍との間に会話が無い。話のネタは尽きないはずなのに。その内に段々とネオンは薄れ、夜の闇が勢力を強める寂しい道に入っていった。



 緋森市は極端な街である。

 駅前付近は平均的な都市風景だが、ビルが立ち並ぶのは市の中心だけで、そこから離れれば森と畑の比率が増えてくる。

 今はそんな街から離れた住宅地を2人で歩いていた。

 バスでも使えば早く帰れるが、秋の夜長に散歩するのも悪くない。気分が晴れれば言うことはないが、到底望み薄であった。


 人気はない。明かりの無い建物と光度の低い街灯がポツポツと並び、沈黙する通りに灯りを投げ掛けている。

 この道に差し掛かると、藍は明人の左腕を抱くようにして歩くようになった。落ち着きなく周囲の目を走らせる姿は捕食者に怯えている小動物に見えた。

「大丈夫か、震えてるぞ」

「暗いのも静かなのも嫌い。でも今日はお兄ちゃんがいるから……」

 藍は鬱屈とした声を漏らす。

 前は夜道を怖がることなどなかったように思う。なら、今の状況は何なのだろう。すぐに、安直に、小夜の言葉と結びつく。

 しかし、どんなものでもトラウマを掘り起こすのは気が退けて、明人は押し黙った。


 電灯が少なく、異常なほど静まり返る通り。

 それが連想させるのは、藍が体験した理不尽な暴力であった。

 今にも大男が出てきて拐われてしまうのではないかと藍は気が気ではなかった。

この瞬間、兄に、いや男にしがみついているのも本当は嫌だった。だが、今頼れるのは兄しかいない。男しかいない。ともすれば恐怖で崩れ落ちそうな身体を支えてくれるのは、兄しかいない。

 2人なら襲われるわけない。その確信と共に藍は仕方なく縋るしかなかった。


 その時、神経質になっていた藍は奇妙な音を捉えた。

 地面を擦るような、さっさっという乾いた音がだんだんと近付いてくる。

「なに、この音」

 何でもない音が怖い。藍はますます身を縮めてしまう。

「藍、怖がりすぎ。お前そんなにビビりじゃないだろ」

 明人にも聞こえていたが、それはやや季節外れな草履の音だと分かった。

「誰か来るよ……」

「安心しろ、来ない方がホラーだ」

「からかわないでよ!」

 突然藍が癇癪を起こしたように叫んだ。明人から離れて、そうはいっても離れすぎるのは怖いようで中途半端な位置で立ち尽くしている。

「おいおい」

 明人が何と声を掛けるか決めあぐねていると、話し掛けてくる者がいた。

「どうしやした? 大声出して」

「あ、いえ。何でもない、です」

 明人は急なことにしどろもどろになりながら返事をした。見れば声を掛けてきたのは珍妙な人物だった。

 まるで落語の舞台を終えそのまま出てきたような薄墨色の和服を着た男。

 男は異臭を孕む霧を漂わせる。それは男の持つ馴染みのない道具(キセル)から出ていた。


「嘘言っちゃいけねぇ、お嬢ちゃんすっかり怯えちまってますよ」

 明人と藍を交互に見て男は言った。

「そうですけど、あなたには関係無いことじゃないですか」

「ははは、何ですかその態度は。この唐変木がっ!」

 男は哄笑すると凄味のある声で言い放った。

「は?」

「兄さん、人の情を無下扱っちゃあいけやせんぜ」

「……ああ、そうですよね。すいません」

 明人は素直に謝罪した。絡まれるのは御免だったし、奇妙な男の言い分は理に敵っていた。

「いやぁ、すいませんねぇ。つい熱くなってしまいやして。これはあっしの親切心なんですがね、本当大丈夫ですかい?」

「ええと、何かあなたの草履の音が怖かったらしくて」

「ははっ、そいつはすまないことをした。この格好は気に入ってましてね、止むに止まれないんでさぁ」

「へえ」

 明人は、時代劇の町商人風の変な喋り方をするこの男をラリった犯罪者かと思っていた。そうは見えても言動から良識は持ち合わせていそうなのが不思議だった。

 好き好んで関わりたいわけではないが。

「そんな暗い顔しないで、元気出してくだせぇ」

 男は取っ付きやすい笑顔を浮かべ藍に話しかけた。

「あ、え……」

 藍はおどおどとするばかりで言葉にならない。

「心配しなさんな。何もしやしません」

 男は微笑んだ。俗っぽい。それゆえ親しみ深い。そんな笑いだった。

「すみません、ご迷惑お掛けして」

 藍がおずおずと謝る。

 非があるとすればこの男であって、藍ではない。

 明人は藍の態度に苛立ちを感じた。

「冥い夜は誰だって怖いものでさぁ。この黒を見ていると、厭なモンが蘇ってきますからね」

「そう、ですね」

 心の中を見透かしたような発言に藍は男から目を背けた。

「ほんならもう行きますわ。あっしは縁ってヤツを大事にしてるんでさぁ。今宵の出会いも何かの縁。また何処かで会ったらよろしく頼みます」

 最後に明人の肩を叩いて男は夜風に衣を靡かせ歩きだしそうとした。

「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 意を決して藍は質問した。

「おっと、あっしとしたことが名乗りもせずにベラベラと。姓を九鬼くき、名を政孝まさたかと申します」

 九鬼は答えて優雅にお辞儀した。和服なのに西洋で紳士が淑女にするようなお辞儀で、なんとも滑稽だ。

「ふふ、九鬼さんですか。私、榊原藍と言います。こっちは兄の明人です」

 それがおかしくて藍は笑みをこぼした。

「なんとご兄弟でございやしたか。あっしはてっきりカップルかと」

「そ、そうなんですか」

「このまま禁断の恋に走れるぞ。良かったな藍」

 九鬼の勘違いにぎこちないながらも笑いが起こる。その波に乗って明人も釣り餌を垂らしてみた。

「何がよ!」

 見事藍が釣れた。純粋な良い奴である。

「ははは、藍さん元気になりやしたね」

「あ……、はい」

 九鬼に言われて藍はいつもの調子を取り戻したことに気付いた。

「ありがとうございます。九鬼さん」

 藍と明人は2人してお礼を言った。張りつめた空気を破ったのは他ならぬ九鬼であったから。

 九鬼はそれを見て、柔和な笑みを浮かべた。

「なんのなんの。困ったときはお互い様、でござんしょ?」

「何だかご立派ですね」

 藍は心から感心しているようだ。

 明人も今どきこんな人は珍しいのだろうと思う。だが九鬼をどことなく胡散臭く思ってもいるのだった。

「そう思っていただけるんなら、嬉しいことでさぁ。さぁて、そろそろお暇いたしやせんと」

 九鬼は明人たちとは反対の方向へ歩き去った。しばらくは小気味よい草履の摺り音が聞こえていた。

 藍にとって今度は恐ろしい音ではなく、名残惜しい響きに感じられた。



「変わった人だったな」

 九鬼を見送り、再び家に向かいながら明人が言った。会話は自然と生まれていた。

「だね。私最初は時代劇ヲタクかと思ったよ。でもなかなかイイ人じゃなかった?」

「なんというか義理と人情の男の気配が漂ってたな。けど、何か匂う」

「やっぱりそう思うよね」

 明人の言い分に藍も異論はなかった。

 果たしてただの通りすがりがあれだけ親身になってくれるのか。

 藍はこんな事を考える自分に良心の呵責を覚えた。だがそれ以上にまた犯罪に巻き込まれるよりはマシだと思っていた。

「気を付けろよ藍。お前単純だから、イイヒトダナ〜とか言ってついていきそうで心配だよ」

「そんなバカじゃないもん!」

 子供っぽく頬を膨らませる藍に明人は思わず吹き出した。

「プッ! くくくっ」

「何よ! 何がおかしいっていうの?!」

 途端に不機嫌になって藍は明人に食って掛かった。

「い、いや…、おまっ、クックッ」

「このバカ兄! いい加減に、しろ〜っ!」

「何ぞっ、イデッ?!」

 明人の尻に強烈な蹴りが炸裂した。

 その細い脚のどこにそんな力があるのか。あまりの痛みに跳ね回り、訳も分からず笑いたくなった。

「年末に何度も叩かれてる人達の気持ちがよぉく分かったよ」

「私の気持ちを分かりなさいよ」

 藍はまだご立腹だが、気分が昂揚して怖くなくなったらしく1人でスタスタと歩いていってしまう。

「ちょっ、置いてくな。危ないぞー」

 シカト。

 まあ、いい。家はすぐそこだ。明人には黙って追いかけるしかないようだ。



 2人はそのままアパートに入った。

 怪しげな男であったが九鬼との遭遇でイイ感じになっていた明人のテンションは萎みだしてきた。

 エレベーターで登っていく間、明人の心臓は早鐘を打っていた。

 もうすぐ誰もいない家を藍が見る。そう思うと緊張せずにはいられない。綾瀬が何か仕掛けを施してくれたようだが、実際どんなものなのかは教えてくれなかった。

 綾瀬の不慮の死がこれからに多大な影響を与える今、問いただせば良かったと後悔した。遂にエレベーター内部の電光表示が8階を指し止まった。

「変わってないね」

 明人の心配をよそに藍が廊下を見てのほほんと呟いた。

「廊下は変わらんだろう」

 そっか、とやや天然っぽい返答がもらえた。どうやらサプライズパーティーというのを本気で信じているらしく、心ここにあらずという様子である。


「何でカギ閉めるの?」

 明人が家のドアを開けようとカギを挿した。

 中に親がいると思っている藍には変な行動に見えたのだ。

「まあ良いじゃないか。さあ、どうぞ」

「うん。ただい、まぁ……?」

 明人がドアを開けてやると、藍は元気良く叫ぼうとした言葉を絶やしてしまった。

「どうした?」

 形式的に聞く。中には誰もいない、明かりも無い、気配すらない。

「電気付いてないよ。誰も居ないし。どういうこと、お兄ちゃん?」

 無人の闇が漠然と広がる我が家。

 様々な感情が交錯した表情で藍は振り返った。

「……分かるだろ。言わせるなよ」

 サプライズ、サプライズと連呼しては意味がない。父さん母さんは気合い入ってるんだよ。そういう意味だ。

「あ! なるほどね」

 藍もそれを理解した。靴を脱いで上がり込む。

 明人もそれに続く。床が異様に冷たく感じられた。


 藍がリビングのドアに手を掛ける。

 明人は廊下の電気をつけながら、固唾を呑んで見守る。

 カチャリ。

 藍がリビングに入る。

 何も起こらない。明人にとっても、藍にとっても。

「お母さん、お父さん? ただいま〜」

 藍はリビングの電気をつけようとした。

 破裂音、破裂音。

「きゃあ!?」

「藍、お帰り!」

 両親がクラッカーを鳴らして藍を出迎えた。

 藍はありったけの喜びを表現し、両親に抱きついた。両親も藍の努力を褒め称える。

 頭を優しく撫でられて、藍は自分の努力が実ったことを実感した。

 親元を離れ異国の地で、長い時間を過ごすのは楽しいけれど、やっぱり辛い。だが、それを補って余りある愛情そして達成感が藍を癒した。



 そこは常闇。藍は1人、笑い、泣き、歓喜する。

 藍の周りをひらひらと嘲笑うかのように蒼白い《幻象(フェノミナ)》の蝶が数匹舞っている。

 あまりに憐れな光景に明人は言葉を失った。

 駆け寄って眼を醒まさせてやりたいが、その気持ちより目の前で繰り広げられる1人芝居への恐怖が強い。

「サカキへのサプライズだよ」

 藍の周りに浮いていた蝶の1つが明人の前にやってきた。

 それは姿を変え、少女の身体を真似た。

「綾瀬……」

 綾瀬はリビングの入口に立っており、その後ろでは藍が1人楽しそうに漆黒と話している。

「心配しないで、妹ちゃんは苦しんでないから。最高級の幻覚よ」

 説明する綾瀬を良く見るとうっすら透けていた。彼女は明人だけに見える幻覚である。

 これは本人ではない。粗悪に造られたガイドだった。

「両親はすぐに旅行に出かける設定よ。サカキは妹ちゃんに話を合わせてよ。多少融通は効くけどあまり突っ込んだ話をするとエリュシオンが壊れるから」

 プログラムされたことを言い終わると綾瀬の幻は霧散した。

 同時に奥で藍が均衡を保てなくなってグラリと揺れた。

 何かを考える間もなく明人は駆け出して、藍を支えた。

 藍の頭には例の蝶が止まって、ゆっくりと羽を開閉していた。


「だ、大丈夫か?」

「へいき、ひょっとめまいがしたらけ」

 藍はとろんとした遠い眼をしているし、泥酔しているかのように呂律も回っていない。明らかに異常をきたしていた。

「藍、しっかりしろ!」

 だいぶ説明が足りないのでどういう状態なのかさっぱり分からない。先の痛々しい再会は意味があったのだろうか。

 あれが綾瀬の享楽心からきたお遊びであるなら質が悪い。帰ってきたらお灸を据えてやろう。引っ掛かることはあれど、明人は全面的に綾瀬を信頼していた。

「安心しろ。すぐに良くなる」

 明人は朦朧としている藍を抱き抱え、ソファーに寝ころばせた。

 藍はしばらく天井を眺めてぼ〜っとしていたが、やがて規則的な寝息を立てはじめた。

「ふぅ、一体何だって言うんだ」

 明人は藍の向かいに座り様子を見ていた。

 しばらくして綺麗というより妖しい蝶がドロリと形をなくし、藍の身体に溶け込んだ。

「これ、大丈夫かよ?」

 空気が緊迫した。明人の心配は杞憂に終わり、結局藍は苦しみもしなければ、表情も変わらない。すやすやと穏やかな眠りを満喫しているようであった。

 明人はそれを見た途端どっと疲労を感じて眼を閉じた。

 長過ぎるし、濃厚過ぎる24時間だった。まだ経ってないかもしれない。今何時なのか、正直時計を見るのも億劫だ。

 安らかな睡魔に誘われて、明人は深い眠りに落ちた。


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