1-07 帰郷
人の足では、最短距離を辿っても1週間。そんな道のりをニルの健脚はわずか6時間で駆け抜けた。
「……助かった……ぜ」
ジャイルは息も絶え絶えに呟いた。
「早駆けにおいて我より優れた生き物を見たことはないからな。これでもお主の体が壊れぬように加減したつもりだ」
ニルは悦に入った様子を浮かべ、力なく横たわるジャイルを見下ろす。人の限界を遥かに超える高速の中、何度かの休息をとりつつだったとはいえ6時間も必死にしがみついていた彼の疲労は計り知れない。
「ここから先は1人で進め。イシカには魔物の存在を感知する仕掛けが施されていよう」
ニルの言う通りだった。魔物は基本的に魔界でのみ活動しているが、時折その領域を外れ人間界に踏み入ることがある。イシカは魔界から最も近く、それが他国に比べて膨大な被害件数が挙がっている理由だ。平穏を脅かす存在がすぐ傍で息づいているとなれば、魔物の襲来に対する防衛策に穴があるはずもない。
「……分かってる。あとは……自力でやる」
呼吸を整えつつ、ジャイルはゆっくりと立ち上がった。
「行ってくるぜ」
その言葉を最後に、両者は背を向け、それぞれが進むべき道を歩み始めた。
ジャイルの現在地、人間界と魔界の境からイシカまでは2時間程度を要する。決して安易に行き来できる距離ではないが、先の6時間を思えばなんのことではないとジャイルは考えていた。
当然、魔物に遭遇する可能性はある。侵入用の装備を身にまとっただけで、武器も魔力も持たないジャイルでは成す術がない。しかし、ニルいわくこの鎧には低級の魔物を寄せ付けない魔法がかけられているらしい。ジャイルはその言葉を信じて進むしかなかった。
──歩き続けて2時間弱、グリフの森を出てから8時間が経っていた。
陽が沈み、辺りが暗闇に染められていく。ジャイルの目には、既にイシカ帝国が映っていた。
しかし、そのイシカがやけに暗い。
ジャイルの記憶にあるイシカは、常に華美な魔法照明に囲まれ、夜を夜と思わせないほどに光り輝いていた。魔物に対する防衛策の一環、そして大国としての権威を示すためだ。
そんな記憶の中のイシカと、今ジャイルが目にしているイシカはあまりにかけ離れている。足音と呼吸を殺し、姿勢を低くしてジャイルは近づいていく。
城と街を覆う巨大な城壁の上にささやかな照明が等間隔で灯っている程度で、本来イシカ帝国の中央上部に浮遊しているはずの巨大照明は見当たらない。正面に見える鉄製の城門にも、とってつけたような光が灯っているだけでなぜか衛兵の姿が見えない。
城壁の内側からわずかに光が漏れ出しているがやはりそれも弱々しく、空から伸びる暗闇に呑まれかけているようにさえ思える。
(俺が旅に出ている間に何かあったのか?)
不気味な様子に警戒心を強めながら、ジャイルは広大な城壁に沿って歩を進めた。
彼が目指しているのは通用門。一般住民の出入りや、他国との定期的な輸出入取引などは全て通用門を通して行われる。当然、普段は施錠されているのだがジャイルは鍵を持っていた。勇者の一団にのみ渡される非常用の合鍵である。グリフの森で、ジャイルの装備の中からニルが目ざとく見つけ出し、今回の侵入に向けて受け渡されていた。
通用口まであとわずかというところまで近づき、ジャイルは目を凝らす。正門と同じく照明は設置されているが、やはり衛兵は立っていない。懐から鍵を取り出し、にじり寄るようにして門との距離を狭めていく。
ジャイルがもう一つの異変に気付いたのはその時だった。
静かすぎるのだ。
昼夜を問わず喧騒にまみれ、毎日が祭とでも言えるほど活気に溢れているのがイシカだ。少なくとも1年半前はそうだった。それなのに今は、あらゆる音が聞こえない。通用門越しとはいえ、何かしら物音が聞こえてもいいはずだ。
あまりに異質な故郷の様子にいくらか動揺しながらも、ジャイルは本来の目的を思い浮かべ気を引き締める。いかに明るさに欠け、一切の音が聞こえないとしても、現状において警戒を怠っていい理由にはならない。
汗ばんだ手に握った鍵を通用門の鍵穴へと差し込み、回す。
がちゃり、という重厚な音。
鍵を抜き出し、懐に戻す。
できる限りゆっくりと門を開け、その中へと体を滑り込ませる。
ジャイルは故郷への帰還を果たした。
そして三度、予想だにしない事態に直面した。