1-06 疾走
「12代目の勇者、そして共に旅をした者たちの最期を調べてこい」
唐突にニルが言葉を発する。
「そして、その者たちの子孫の所在を明らかにするのだ」
それが、ニルの言うところの”ジャイルに与える命”だった。それを聞いてジャイルは訝しげに言葉を返す。
「……なんだそりゃ。もっとこう、イシカの弱点を教えろとか、誰かさらってこいとか、そういう物騒なやつを想像してたぜ」
「……何度も言わせるな。脆弱なお主に為せることなど限られていよう」
「そりゃそうだけどよ……12代って言えばもう200年も前になる。なんでそんな昔のことが知りたいんだよ」
「お主が命を果たすために、我の目的を知っている必要はなかろう。余計なことは聞くな」
こんな返事が戻ってくることを想像しながら投げかけた質問だったため、ジャイルは大して臆する様子もなく肩をすくめた。
勇者としての任期はその代によって大きく異なる。最も一般的な引退の方法は、加齢による衰えや物理的な身体の欠損を原因とする自己申告だ。これ以上の活動が難しいとイシカ帝国に認められれば、右手の刻印は消失し、それより先の人生を普通の市民として送ることになる。
もちろん戦いの中で戦死する者もいれば、何度も魔王を討伐し続け長期間に渡って最前線に立つ者もいる。
ジャイルが付き従った勇者は35代目。200年の間に23人の勇者が生まれていた。
「迂闊に顔を晒すことのないよう気をつけよ。勇者の一団として旅をした者であれば、イシカの民がその顔を忘れようはずもない。どのような状況であれ、間違いなく騒ぎになるぞ」
念を押すように強い口調で放たれるニルの言葉を聞きながら、ジャイルは首元の黒い布に手を触れた。
その布は鎧の首の部分に繋がっている。
強く引き延ばすことで鼻から下を覆うマスクの役割を果たすものだ。
これで顔を隠すことでいくらかは安心して忍び込めるとジャイルは考えたが、それと同時に不安が大きくなっていることも実感した。
自分がイシカに侵入し、諜報活動まがいの行いをする様子が鮮明に想像できる。
そこには1年半ぶりの故郷がある。恐らく見知った人間も目にするだろう。今すぐには戻れないと分かっていながらも、一目で良いから家族の顔が見たい。魔王討伐を達成した勇者を、人々は祝福しているだろうか。その勇者はいったいどんな顔をして笑っているのだろうか。どうにかして勇者と言葉を交わしたい。その腹の底を知りたい。いったいなぜ──。
「乗れ」
思考の渦に心をさらわれかけたジャイルの意識を、ニルの声が呼び戻した。
「……なんだって?」
自らの聞き間違いを疑わずにジャイルは聞き返す。
「我の背に乗れと言っている。このまま歩いていては本当に1週間を下らないぞ」
ニルが横たわり、目で騎乗を促す。自らの背中に人間を乗せるなど、目の前の傲慢な生物から発せられる言葉とは思えない。ジャイルは虚をつかれた様子でわずかにうろたえたが、すぐさま何度か浴びたニルの強烈な咆哮が脳裏に響き渡った。目を閉じ頭を振って両手を顔をぱんっと叩き、意を決したようにニルの傍へ歩み寄り、その体に手を伸ばす。
それまでまともに観察していなかったが、光を吸い込むような漆黒の体毛は想像以上に柔らかだった。そして、ニルの体格に相応しく1本1本が毛とは思えないほどに太い。
その巨躯に跨るとなれば足を高く上げるだけで済むはずもなく、ジャイルは体毛を鷲掴みにしてよじ登る。グリフの森に落ちた時に感じた獣特有の強烈な臭いが鼻腔を刺激するが、それをこらえ一気に背中まで体を移動させた。
「体を伏せ、力の限り捕まっていろ」
ニルは立ち上がってそう言うと、緩やかにスピードを上げ始めた。
なんとなくこれから自分の身に起こる出来事の予想がついたジャイルは、即座に体を前に倒した。両手で体毛をちぎれんばかりに握る。
少しずつ、しかし確実に景色の流れが速くなっていく。
”知っている速さ”から”まだ知らない速さ”になるまで、そう時間はかからなかった。
眼球に吹きつける風の強さに、ジャイルは思わず顔を背ける。
その風は、今まで耳にしたことのないほどの轟音を上げて次から次へと通り過ぎていく。
ニルの四足が高速で規則的に刻んでいるであろう足音など、当然ジャイルの耳には届かない。
ジャイルは薄目を開け、ニルの体毛越しに前方の景色を覗き見た。
ついさっきまで目にしていたものと変わらないはずの草木や岩など、様々なものが溶け合い、線になって後ろへ飛んでいく。
人生で初めて踏み入った超高速の世界は、ジャイルの胸に芽生えていた鬱屈な想いまでも吹き飛ばしていた。