1-04 出立
地面のところどころに差し込む陽光が、朝の訪れを告げていた。とはいえ、そこら中に漂う赤黒い瘴気が光を吸い込むせいで、やはり一帯は薄暗い。
ニルが空中に作り出した球状の魔力の塊から、冷たい水がシャワーのように注ぐ。まさかこんなところで水浴びが出来るとは、などと少しずれたところに感心しながらジャイルは全身の汚れを落としていた。
昨晩、あれからジャイルはニルの寝床へ案内された。寝床と言えば聞こえはいいが、屋根も壁もない単なる草地である。地面に生い茂る雑草だけは丁寧に刈り込まれていて、横になって体を休めるには申し分なかった。
円形に広がるその場所の中央には薪がくべてあり、煌々と火炎が立ち昇っている。ニル曰く、この火は昼夜を問わず絶やすことがないという。暗闇に強いと言われる魔物の眼を持たないジャイルにとってはありがたいことだった。しかし、手間をかけて薪を拾い集めるニルの姿を想像すると、どこか滑稽にも思えた。
「あんたなら、わざわざ薪を用意しなくたって、魔法でずっと火を点けてられるだろ。なんでこんな面倒なことしてんだ?」
「風情のないやつだ。人間らしい浅ましい考えよ」
そんな会話を交わし、それから間もなくジャイルは眠りについた。すぐそばに存在する未知の獣の脅威よりも、心身の疲弊による強烈な睡魔が大きく勝っていた。まるで体と心が再起を果たそうと決意し、エネルギーを再充填するかのようなどこまでも深い眠り。もっとも、数十分前にニルの強烈な咆哮を浴びて、ジャイルは飛び跳ねるようにして目を覚ましたのだが。
「水浴びはもうよかろう。すぐに出立だ」
ぶっきらぼうにそう告げて、ニルは魔法の出力を止めた。宙に浮かぶ魔力球から最後の一滴がしたたる。
ジャイルは頭を左右に何度か振り、頭髪についた水滴を払い飛ばした。そして、黒く短い髪をかき上げ、ニルの方へと向き直った。
「イシカに行くのか?」
イシカ帝国──ジャイルの故郷であり、この世界に存在する6つの国の中で最も強大な帝国。
世界のいたるところで絶えず魔物による被害は発生しているが、イシカのそれは他を寄せ付けないほどに甚大である。
とはいえ、大国ゆえに強大な戦力を有しており、国そのものの崩壊などとはほど遠い。
腹這いに横たわるニルは、視線を投げかけるジャイルに目も合わせないまま頷いた。
「勇者に力を剥奪されたお主では、限られた選択肢しか取れん」
ジャイルの髪をつたって落ちた冷ややかな雫が、彼の胸元を流れていく。
「我の目的を果たすため、お主に命を授ける。そして、そのついでにかつて仲間だった者の胸のうちを覗き見てくるがよい」
ニルの言葉がジャイルの心を現実に引き戻す。
ジャイルがここで過ごした1日は、裏切られ殺されかけたという事実が夢に思えるほどの非日常的な時間だった。
しかし、明らかにしたいと同時に考えたくない現実が確かに存在している。
「裏切り者の顔を拝んでこい。……ここに断言しよう。お主は必ず、心を闇に呑まれて我の元に帰ってくる」
ニルは冷たく言い放った。
その言葉は、ジャイルの胸中で不快なざわつきを伴って反響していた。