00 墜落
彼は、英雄と呼ばれるはずだった。
あまりにも唐突すぎる事態に、自分の身に何が起きたのか理解することが出来なかった。
分かるのは、身体が空中に放り出されたということ。
そして、まともに落下すれば死は避けられない高さだということ。
眼下に広がる谷底からは赤黒い霧が立ち昇っていて地面を視認することが出来ない。
──走馬灯。
それは命の危機を感じた時、これまでの記憶を掘り起こし、その中から生き残る術を探るための現象だという。
彼も今、遥か幼い頃から現在までの記憶を辿っていたが、どうにも現状を脱する方法は見つけられそうになかった。
切れ味鋭い名剣を振るい、長い旅の中で数えきれないほどの修羅場を超えてきたが、今回の敵は重力。
倒す、あるいは戦うなど、考えたこともない相手だった。
走馬灯を見た影響か、現実世界の体感速度も極端にスローになっていた。
景色は虫が止まりそうなほどゆっくりと流れていくが、脳内では電気信号がかつてないほどに高速で飛び交っている。
無意識のうちに頭の中に様々なイメージが浮かび上がり、瞬く間に移り変わっていく。
記憶に留める暇もない。
宇宙を漂う塵ほどに生存の可能性が遠く小さくなっていく。
諦めの念が胸中を満たす。
その時になってようやく、この状況をつくり出した原因を推察するために思考が回り出した。
覚えているのは背中に受けた衝撃。
人生で何度か経験したことのあるその感覚は”蹴り”だった。
では誰が──。
彼の脳裏に、1人の男の顔が浮かぶ。
それは、過酷な旅路を共に歩んだ仲間。
世の人々から”勇者”と呼ばれ、愛され、慕われる者。
裏切り。
希望。
恐怖。
悲哀。
激闘。
友情。
旅。
憤激。
故郷。
様々な言葉と感情が生まれては消えていく。
努力を積み上げ、死線を超え、自らに課せられた使命を果たすために今まで力を尽くしてきた。
彼は人類の希望を託され旅に出た勇者の仲間。
剣を手に、仲間を護り、敵を屠ることが使命だった。
宿願である魔王討伐を達成し、歓喜の雄叫びをあげ、仲間に労いの声をかけ──勇者によって崖から蹴落とされた。
夢にも見なかった悲惨な旅の終わり。
赤黒く染められた谷底が静かに彼を飲み込んでいく。
彼は、英雄とよばれるはずだった男。
勇者の裏切りによって、全てを奪われた戦士。
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