因縁の二人(六)
病院に足を踏み入れた瞬間、祥吾はここでも何かが起きていることを悟った。
嫌なざわめきが病院の中を満たしていたからである。祥吾はこんなにうるさい病院に来たことがなかった。
診察室に続く廊下の方から看護師と来院者の言い争う声が聞こえてきた。
「こ、こっちに来ないでください! 椅子に座って待っててください!」
「見てわからないのかね? 私は椅子には座れないのだよ。ご覧のとおり、私自身が椅子になってしまったのだからね。私は一刻も早く、この状態をどうにかしてもらいたいのだ」
「そんなこと言われても、今、先生はいらっしゃらないんです! 急いでるなら、他の病院を当たってください!」
「それはおかしな話だ。病院なのに、なぜ医者が一人もいないのかね?」
「そんなの私が知りたいぐらいですよ! 先生、こんなときにいなくならないでくださいよぉ……」
半泣きになる看護師。会話のすべてが聞き取れたわけではないが、祥吾の耳目はそちらに釘付けになった。
「何だ、医者はいないのか。無駄足だったな」
緋沙子も同じ会話を聞いていたらしい。だが祥吾には医者の不在より気になることがあった。
「……じいちゃん?」
看護師と話していたのが自分の祖父だったのではないかということである。
「おまえのじいさんがいるのか?」
「いや……声はするけど、姿が見えねえんだよ」
看護師の前には椅子がある。最初はそこに祖父が座っているように見えたが、角度を変えると、椅子には誰も座っていなかった。
「死んだじいさんの声が聞こえるのか?」
「殺すなよ! じいちゃん、生きてるからな!?」
祥吾は緋沙子の不謹慎な想像に抗議しつつも椅子の方に近づいていった。
椅子の全体像が見えた。最初に見たとき、なぜ椅子に人が座っていると思ったのか、今ならわかる。椅子の背もたれの上にちょこんと乗っている人間の頭のかたちにそっくりな丸いオブジェのせいだ。
なんでこんな不気味な椅子が病院にあるんだ?
祥吾は訝りながら椅子の正面に回った。
「なんだ、この椅子!?」
思わず叫んでしまった。
人間の頭に見えたのは――人間の頭だった。
背もたれの頭が口を開いた。
「おや、祥吾か」
「しゃべった!? ……って、じいちゃんなのか!?」
頭は祥吾の祖父と同じ顔に同じ声をしていた。しかも祥吾のことを知っている。
とんでもない姿に変わり果てているが、明らかに祖父の要一郎だった。
「こんなところで何をしているのかね?」
「それはこっちが訊きてえよ! 何やったら、そんな姿になるんだよ!?」
椅子には頭以外にも人間の体っぽいパーツがところどころについていた。背もたれの両端から生えた人間の手は滑り台のように前方に伸びて椅子の手すりと一体化しており、椅子の前側の二つの脚も人間の足のようになっていて、足首はきゅっと絞まり、ちゃんとつま先まである。
要一郎は大きな人型の椅子にすっぽり収まっているらしい。
「歩いていたら、突然、意識を失ってね。気がついたら、私は椅子と合体していたのだよ」
「じいちゃんもそんなことになってたのかよ……」
「どういう意味だね? おまえは何かと合体しているようには見えないが」
「いや、俺らも歩いてたら、いきなり意識を失って、気がついたら二人羽織させられてたんだよ」
祥吾は緋沙子をちらりと見ながら言った。緋沙子は黙って椅子を見下ろしている。
要一郎が緋沙子に目を向ける。何かに気づいたように、白い眉がぴくりと動いた。
「おや、錬世会の……。君も孫と同じ目に遭ったのかね?」
「おまえの孫は通りすがりの女を気絶させて、いたずらするタイプの変態か?」
「俺、そこまで疑われるようなことしたか!?」
この期に及んで変質者扱いされるのはさすがに祥吾もショックだった。
「孫にそんなことができるとは思わないが……家族に本性を隠していないとは言い切れないかもしれないね」
「言い切れよ! 一緒に暮らしてればわかるだろ!?」
祖父が理屈屋であることは重々承知していたが、それでも即座に否定してくれなかったことはもっとショックだった。