1-1 悪夢の始まり
『宵闇探偵事務所』
そのドアには、そう書かれていた。
些か陰鬱な名前の事務所であるが、そこそこ繁盛しているのか、うらぶれた雰囲気は微塵も感じさせない。
そして音も無く開くドア。
そこには、妙齢の美しい黒髪の女性が立っていた。
上下が黒で彩られたスーツに黒いネクタイ、そして真っ黒なサングラス。
その事務所の名に相応しい出で立ちであるといえなくもないが、まるでマンガかドラマに出てくるような、ベタな格好であった。
だが趣味はよく、それらの仕立てが高級品である事は一目でわかる。
また、その隙の無い、きびきびとした所作からみて、その人物が軍隊で鍛えられたか、はたまたどこかの国の工作員か何かだと言われても人は信じるかもしれない。
肩下10センチまで伸ばした黒髪、眉上1センチで切り揃えられた前髪。
少し太めの眉が印象的だが、なかなかの美人だ。
くっきりとした大き目の瞳、鼻筋は通り、ふっくらとした唇は妙に赤みを帯び艶かしい。
いや、妖しいといった方がしっくりくるだろうか。
事務所に鍵をかけ外出しようとする刹那、お向かいのテナントから出てきた、その彼女とは正反対の容貌や服装を持つ人物が、下卑た笑顔を添えて間抜けな声をかけてくる。
「おや、麗鹿姐さん。
またこんな時間からお出掛けですか?」
くたびれた、中年にさしかかった感じの男。
同じく少しくたびれて、みっともなく皺になったズボン。
その裾をズボンの外に出すのか、中に入れておくのかどっちとも判然としない、やや年季の入った緩めのワイシャツ。
見るからにだらしがなく、冴えないといった印象を受ける。
おまけに、そいつが出てきたドアには『上谷興信所』と書かれてあった。
そのドアさえも、若干くたびれているかのように見える。
どうやら、二人は同業者のようであった。
だが、どうみても、この二人はコンビではない。
そのような意見が出たとするならば、小学生、いや幼稚園児にさえ、それはあっさりと秒殺で否定されるであろう。
「それがどうかしたのか?」
麗鹿と呼ばれた女性は露骨に不愉快そうな顔で、そいつを嫌そうに眺める。
どうやら男は女性から嫌われているらしい。
雰囲気から察して、好かれる方がどうかしているのだが。
「いえいえ、お食事に行かれるのでしたら、この私めもご一緒させていただけないものかと思いまして」
彼女は、何かにやけた顔付きで、猫背気味に顎の下あたりで思いっきり揉み手をしているその男をうんざりしたような目で睨むと、端的に一言だけ言いおいて、その場から立ち去った。
「殺すぞ」
そこに、項垂れてしょんぼりとした男を残し、女性は速やかにエレベーターで階下へ降りていった。
外は赤い、血のように赤い夕焼けに覆われ、ほどなく夕闇が世界を覆いつくすだろう。
そう、彼女達の夜が始まるのだ。
事務所の入ったビルの前にある一方通行の通りを横切り、やがて大通りに出ると駅方面に向かった。
そして、ふっとその血を思わせるかのような情景に目を向けて、その端麗な口元を歪めた。
その端からやや尖り加減の犬歯が覗く。
「よくない空だ。
また何か妖しげな物が跳梁跋扈する夜なのかもしれん」
そう呟くと、またその足を些か早めた。
神田の駅から、東京メトロ銀座線を銀座一丁目駅で乗り替え、有楽町線に乗る。
帰宅途中の人々のざわめきに満ちる車内の雑踏の中、乗車券代わりのICカードを眺めながら、彼女は独り言ちる。
「それにしても、人の世の移り変わりの激しい事よ。
最近はこのような物が、短い間に雲霞のように押し寄せる。
まあ、おかげで永い時を退屈はせずに済むというものだが」
その、普通の人はあまりしないような出で立ちに、やや周りの人達の好奇の視線に晒されているのだが、彼女はあまり気にしていない。
どの道、素の美しい顔立ちでは、それなりに目だってしまうのだから。
だが、一応は探偵業を生業としているはずなのに、そのように却って目立ちそうな格好をしているのは如何な物か。
やがて降り立った駅は桜田門。
そして、向かうは東京警視庁だ。
警視庁の事を桜田門とよく言うが、確かにそのものであった。
地下鉄4番出口を出たそこには、厳しく東京警視庁と刻まれた碑が建っている。
警官もその出入り口に立って警戒している。
だが、彼らの主な任務は、地下鉄の出口から蟻のように這い出てきて道を尋ねる善良な人々の相手であろう。
その建物の上部にはまるで昔のSF小説にでも出てくるようなアンテナを備えたタワーを擁し、特撮に出てくる悪党と戦う特殊組織の秘密基地のような容貌だ。
予約さえしておけば、見学ツアーで一般人も見学ができるので、別段特に秘密の施設ではないが。
とは言え、これこそは正に、この大東京で悪と戦う人のための拠点である事には違いないだろう。
建物入り口、また内部に立っている警官などにも挙手で挨拶をすると、フリーパスでどんどん進んでいく。
そして、地下へ下りる階段へと降り立ち、薄汚れたドアの会議室へと入った。
「やあ、麗鹿。よく来てくれたな」
声をかけてきたのは、その若干古ぼけて煤けたような部屋には合い相応しくない、瀟洒な雰囲気を放つ40歳手前くらいの男であった。
誰が見ても一廉の男と判別がつくだろう。
あの、事務所のお向かいに生息する大ボケ探偵野郎なら、どう思うのかは知らないが。
昼間の雑務、いや主な職務を終えての兼任業務だ。
そのお蔭で会うのはこんな時間になってしまったが、生憎と来客はそのような些事は気にしない性質のようだった。
男は、その歳で白髪一本無い漆黒の髪、それを嫌味が無いように撫で付けられ、そのいかにも堅い職業だと一目でわかる公務員的な髪型を少々崩しているところさえ鯔背に感じる。
そういえば、鯔背という言葉は鯔背銀杏という、江戸時代の少しくだけた髪型が由来だという。
「ああ、また何かが、この帝都で這ったかね?」
麗鹿は、この東京を帝都と呼ぶ。
【少し前】に、この国が帝国を名乗っていたからだ。
『這う』
それは、この特別な会合、あるいは警視庁での超極秘扱いでの隠語であった。
這うという動作は、あまり人に似つかわしくない。
人はお天道様の下を歩く者。
しかし、【奴ら】は違う。
闇を這うのだ。
彼は無言で頷くと、すっと一枚の写真を差し出した。
それは無残にも喰い千切られたような、人の姿をまともに留めていない哀れな犠牲者、おそらくは20代前半くらいの男性の姿だった。
鈴木麗鹿はそれを手に取り、眉一つ動かさずにそれが何を意味するものか検分していた。
答えなど既にわかっているのだが。
少なくとも、それは人の所業ではありえない。
「これは?」
「先日、東京都内で発見された遺体だ。
『それは人間による犯行ではない』と、その優秀さで音に聞こえた、警視庁の鑑識が30秒とかからずに確信した代物だ。
警察庁では事態を重く見て、事件の公表は避け、かなりの規模の捜査を行なった。
内閣からも国家公安委員会に対して厳命が下っている。
そして犯人は未だに見つかってはいない」
彼、宗像修二はそう語り、机の上に両手を組み合わせた肘をついた。
そして、その聡明で鋭い視線は更に語る。
「君ならば、もうわかっているのだろう?」と。
「ああ、これは【爪】だな。しかも、かなり大型の。
おそらく……鬼か、鳥、だな」
「ダンジョンクライシス日本」
https://ncode.syosetu.com/n8186eb/
早川書房様より書籍化決定(ハヤカワ文庫JA)しましたので、その記念に書かれた作品です。
「おっさんのリメイク冒険日記」
書籍4巻 コミックス1巻、好評発売中です。