おやすみなさい
大学祭での展示用に書きました(お題が「遊園地」だなんて言えない)。同時に物書きとして一つのチェックポイントを通過したような気持ちでもあります。短い作品なので、スッと読んでいただければ……。
それからわたしは近くのテーブルにカップを置いて、ベッドの中に潜り込んだ。枕に顔を埋めながら、ゴロゴロと布団の内で転がる――何度やめようと思っても中々やめられない習慣だ。六年以上も時間が経つと、もはやわたしのよく使うシャンプーの匂いしかしない。マーキングにも似ている。もうここにあなたの気配はなかった。
少しだけ身体を起こして、左腕を伸ばしテーブルの上のカップを手に取る。カップの中のコーヒーからはまだ湯気が立っている。「寝る前にコーヒーは飲まない方が良いでしょう」と、あなたに零していた小言はそっくりそのまま今のわたしに跳ね返ってくる。一杯のコーヒーを飲んでもベッドに入ればぐっすり眠れる。あなたの言った通りだった。優しく、ほろ苦い。
外面に柄のついた白いカップ。内側のコーヒーを淹れる高さの部分に黒いシミができている。長く使っているせいか、もういくら洗ってもシミは落ちない。お気に入りの雑貨屋さんでカップを見ては買い替えようと思うのだけれど、結局レジまで持って行くことはない。新しいカップを使いたくなっても、この旧いカップを使えなくなるのがどうしても嫌だった。
このカップを買ったのは、あなたと一緒に行った遊園地の売店。外面の柄は遊園地のキャラクターが描かれたもの。コーヒーを飲むのが好きなあなたにわたしが贈ったものだった。わたしの方があなたよりも長く使うことになるなんて思いもしなかった。
遊園地で思い出したことがある。変なところで生真面目さを見せるあなたは、遊園地に行く前にもゲームの攻略本のような本を持ち出して、いかに効率良くアトラクションを周るかと張り切っていた。忙しなくあちこち周るよりも、より楽しそうなアトラクションで遊びたい。わたしが苦笑まじりにそう言うと、あなたは照れ笑いしながら本を放り出して、遊園地内のマップをわたしと一緒に眺めていた。すっかり遊び疲れてしまったけれど、とても楽しかったことを今でも覚えている。また行こうねと笑い合ったことも決して忘れない。
あなたはもうわたしの傍には居ない。
六年前、わたしが立っている地面が不安定に、不安になるほど揺れた。周りの人や、物が、何もかもが騒ついて、混沌に急き立てられるように、わたしはあなたに電話した。電話は繋がらない。幸い家に近い距離に出ていたわたしは、混雑する駅やバス停を横目に走って帰った。家に着いて、靴を脱ぎ捨て、着替える暇もなくわたしはテレビをつけた。
家や建物が波に飲まれていた。テレビで見ていたせいもあったのだろう、それがとても現実のこととは思えなかった。字幕なのかアナウンサーの声なのかよく覚えていないけれど、高い波が襲った土地の名前が告げられた。あなたが出張先だとわたしに言っていた土地と全く同じ名だった。
それからしばらくわたしはどうしていたのか。よく思い出せない。多分泣いていたと思う。でもそれ以上に、わたしを支える芯が大きく削り取られて、歩くどころか真っ直ぐ立つことすらできなかった。壊れてしまったのだろう。わたしは彼を亡くしたことを悲しむわたしすら保てなかった。無。無から溢れ出す悲しみ。そのままわたしも死んでしまうのかと思った。
けれど、わたしは今も生きている。あなたが居ない世界でも、わたしを大切にしてくれて、わたしが大切にしたいものがまだあるから。電話やメール、直接会って彼ら彼女らと言葉を交わしたこともあった。まだあなたの所に行くことはできない。
人との繋がり、そして思い出。あなたとの思い出は、あなたを失った悲しみを強めるものから、わたしの胸を温めるものへと変わっていった。時間が解決してくれた。忘却ではなく充電。胸が温かければ、もう一度わたしは立ち上がれる。
あの土地のどこかで傷ついた身体から浮かび出たあなたの魂は、今どこに居るのだろう。天国に行けたのか。それとも、未練を残してこの世のどこかを彷徨っているのか。ひょっとしたら、わたしのすぐ傍に居るのかも。何があなたにとって良いのかはわからないけれど、あなたの望む通りにして欲しい。静かに眠っていても、彷徨っていても、わたしを傍で見守っていてくれても、悲しかったり悔しかったり苦しんだりしなければ、それで良い。
部屋の電気を消して、ベッドの中でわたしは目を閉じた。
あなたの居ない今日が終わり、あなたの居ない明日が来る。もう怖くはない。明日もわたしは頑張るから、あなたの夢を見るくらいは許してね。あなたも、すでに眠っているのならもっとぐっすり眠れるように、傍でわたしを見守ってくれるのならわたしの寝顔なんか見てないで早く寝てちょうだい。
目を閉じたまま、わたしは今夜も心地よい暗闇に囁いた。
「おやすみなさい」




