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α空間の狂ってない彼女  作者: 6月32日
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シズカとの面会(ツヨシ編)

 母とツヨシは上田さんの軽トラックで浅井病院に向かっている。


 病院に着くまで実際にかかる時間は車で2時間程度だが、建物の存在目的が不明で得体が知れないのと交通の不便さから、人々にとっての心理的距離はもっと遠かった。その建物は町の人たちにとっては目的不明の“城”であったが、実は全国でも最大級の収容患者数を誇る個人病院だった。

 近年は建造されること自体が減った巨大精神病院の一つで、その歴史は昭和40年代まで遡る。かつて、アメリカの駐日大使が精神障害者によって刺傷を負った事件以降、日本の精神障害者隔離政策が進み、大型の精神病院が乱立した時代があった。

 当時は大学病院の助教授だった浅井羅無蔵のもとに、地元の経済団体が新設する病院への院長就任依頼が舞い込んだ。それまで臨床の傍ら研究者としての立身を目論んでいた彼にとって、その話を受諾することは大きな挫折を意味した。羅無蔵は逡巡したが、結局院長に就任することにした。ただし就任に臨み、彼には考えがあった。社会が精神障害者を隔離するのなら、せめて彼らだけの独自の社会を別に現出させようと決心したのだった。この意図のもとに病院は肥大し続けた。特に経営上の利益が減り、経済団体が経営を羅無蔵に委譲してからは、その傾向は加速した。一時は内部にスーパーマーケットや図書館、自治のための議会まで内包する巨大組織にまで発展した。

 しかし、精神病院経営はさらに厳しい冬の時代を迎えた。過剰な投資が祟り、浅井病院は縮小を余儀なくされた。現在稼働しているのは最盛期の三分の一程度の施設に過ぎない。そういった意味で確かに浅井病院は、時代に取り残された“城”であった。


 病院に到着すると上田さんは明朝に予定されている迎えの時刻を確認して帰ってしまった。

 元々、彼はαへの感染を疑われれば、大した根拠もなく病棟に収容されてしまうという今の病院の状況を知っているため、今日の送迎も固辞を続けていたのだった。ただ、同伴してくれるはずだったDrには連絡がつかず、タクシーの運転手でも浅井病院へ近寄ることを嫌がるため、他の交通の便を得ることも難しかった。最終的には、懇願する母子を気の毒に思い、敷地の入り口までという条件で引き受けてくれたのだった。


 敷地内の山道を登り、巨大な門までたどり着いた。来意を告げると、山口看護師が迎えに来てくれた。

 シズカへの面会については、母が昔から知り合いである山口さんに無理を押して頼んでいるようだった。今日の訪問が病院につとって和やかに歓迎すべきものでないことは彼女の緊張した面持ちから分かった。

 ワニに食われたDr.を搬送したあの日と同じように迷路のような廊下を複数の扉を解錠しながら病棟に向かう。 


 こうやって、招かれざる客であるツヨシと母は辛うじて“城”の内奥に迎えられた。

 

 ツヨシの面会は一応感染対策をした上で、シズカの自室で行われることになった。同室の患者がいるが、診察のためしばらく戻らないとのことであった。当初、面会は母と一緒に行うはずだったが、ツヨシの強い希望により単独で行うことになった。母と山口看護師は強く反対したが、ツヨシの主張が非常に強硬であったため、別室でモニターしながら何か問題があればすぐに介入するという条件で、許可されたのだった。


 最初は山口さんの案内で入室し、シズカも笑顔で応対した。彼女は安定しているように見えた。

 ツヨシは、妹のよそよそしい様子に違和感を覚えながら、基本的な態度が穏やかだったので、油断していた。暫く話すうちに以前のような調子に戻るだろうと軽く考えていた。

 しかし、山口看護師が退席した途端にシズカの表情が変わった。


「どうしたの? 遅かったのね」

 ツヨシには何のことだか分からない。ツヨシはまだ何も伝えていない。

「すぐに帰ってくるって言ったのに!」

 誰かと勘違いしている、とツヨシにも分かったときには遅かった。

「遅い遅い遅い遅い!」

 周囲の物を手当たり次第投げながら、大声で叫び始めた。

 余りの急激な変化にツヨシはどうしたら良いのか全く分からず、パニックに陥った。なんとか物を投げるのをやめてもらえないかと、シズカのほうに手を伸ばす。

「やめて! 殺される! 人殺し! イヤー!」

 声は一層大きくなり、やがて人間の発する声とは思えない断末魔の叫びに変わった。

 

 山口看護師が飛び込んできた。

 シズカが、同時にやってきた数名の看護師に取り押さえられる。

 噛みつきを避けるため、頭も押さえられた。

 腹這いにされ、両手、両足を別々の看護師で捕まれ、最も体重のある男性看護師が腰に馬乗りになる。

 臀部に注射するために、スカートがまくられ、下着が下ろされる。


“シズカが殺されてしまう!”ツヨシは確信した。

 彼は看護師の一人に飛びかかった。

 不意を突かれた看護師は呆気なくツヨシに組伏せられ、無茶苦茶に殴られた。

 すぐにリノリウムの床がどす黒い赤に染まる。

 遅れて入ってきたツヨシの母が「やめなさい、ツヨシ!」と叫びながら止めに入ろうとする。

 見ているしかできなかった看護師たちも漸く我に返り、とりあえずツヨシの母を捕まえた。そして、ツヨシの興奮や暴力の程度が自分たちの手に余ることを悟り、かつて部長を捕獲するときに使用された警備要請ボタンを押した。

 あの時と同じ耳が裂けそうなベル音が鳴り響く。


 警備員に押さえられたツヨシが泣きながら雄叫びを上げた。

 ドウシテ! ドウシテ! ドウシテ! と繰り返しているが、その声は母以外の誰にも届かない。


 シズカが警備員たちに連れ去られるツヨシを指さして叫んだ。

「“どうしてこんなことが”って顔しないでよ!」 

 さらに扉が閉まってから、シズカの声が追いかけるように響いた。

「この世界ではどんなことでも起こってしまうんだから!」

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