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α空間の狂ってない彼女  作者: 6月32日
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師弟の時間(羅無蔵編)

 この部屋に帰るのはいつも夜中だ。独りのこともあれば、秘書兼看護師の山口を傍らに控えさせていることもある。

 今日は、大学時代からの馴染みで、仕事上でも片腕と呼べる存在を客として迎えていた。

 客はこの部屋に来たとき、いつも壁を見渡しては困ったような表情を浮かべることを常としてした。壁に貼られた獣たちの表皮は、狩猟を趣味とする羅無蔵の歴史でもあった。命を奪い、それを誇示する悪趣味を許していたわけではない。生活のためではなく、娯楽として狩猟というカタルシスを必要とする自分に、奪った命の忘却を禁じる意味があった。

 

 師弟が対峙したまま長い時間が経つ。沈黙を破ったのは弟子の方だった。

「このあいだの練習台は成功と言えますか?」

「練習台とは失敬だな。彼のホフマン病には他に治療の選択肢がなかったのだ。正当な治療的試みだよ。それに彼はまだ、生存している。結果はまだ、出ておらんよ」

「生存しているからこその悲劇というものがあるでしょう」

「興ざめだな。君はそんな安っぽい倫理を振りかざすために、私の貴重な時間を浪費しに来たのかね?」

 羅無蔵の弟子を見つめる視線に怒りの熱が加わる。


「僕も数え切れない神経難病や精神疾患の患者を診てきましたが、あれほどの苦しみを目の当たりにするのは初めてです。全ての神経末端から最大限の疼痛刺激を送ってもあれほどの苦痛は生じないでしょう。しかも、あの症状の醜悪さ。正視に耐えないとはあのことでしょう」

「青二才の君が、経験をもとに印象論を滔々と語るか。君には失望したよ」

 冷笑を浮かべながら、瞳は身の程知らずに対する怒りに燃えている。

「大いに失望してもらって構いません。あなたに見込まれた者たちが、どのような末路をたどったのか、僕は間近に見てきた。昔のあなたは、こうじゃなかった」

「迷いのあった時のことだよ。混乱の時代だ。むしろ、私は過去の自分を恥じている。迷いのために、多くの患者に可能な手段を講じることなく、死や死するよりつらい生活を強いてきた。私はシズカにあのような結末を与えるつもりはない」

「いや、あなたは現在の偏った思考から、過去を脚色している。あなたの患者と共に迷う姿勢にどれだけの者たちが救われてきたか、あなたは分かっていない。昔から、あなたは間違いなく優れた医師だったが、結果だけをみる傾向があった。あなたは迷いという貴重な制動機構を失うべきではなかった」

 

「後輩の君から、そのように評価して頂けるとは有り難くて涙がでるよ。ああ、私は今、猛烈に感動している」

 羅無蔵はすでに怒りの頂点を超えたようだった。すでに、手の内で暴れ回る猿に等しい存在をいかに視野から排除するかが最重要の課題となっている。これ以上自分の貴重な時間を無用な喧噪で失いたくはなかった。


「理事長。これは、実はあなたへの助言ではありません。残念ながら、その段階は過ぎました」

「何を言っとるんだね? 増長するにも程がある。君は寛容さというものにも限界があることを知るべきだ」


「最後に、このようなことになって残念です、と言わせてください。僕はあなたを心から敬愛しておりました」

「もう、よしたまえ。侮辱も大概にせんと、礼節をわきまえぬウチの警備を呼ぶことになる」

 羅無蔵は目の前の若輩者が何故このように執拗なのか、不気味に感じ始めていた。

「これは通告です。理事長。僕は変異を遂げたαを潜伏期を考慮して1週間前、自分に投与したんですよ。それからずっと、病院内で機会を待っておりました」

「そんな戯れ言で、私の意志をどうにかするつもりかね?」

 不気味な印象が徐々に焦りに変わっていく。


「理事長がβ2と呼んでるアレですよ。アレは確かに従来とは感染力が格段に異なります。まさしく生物兵器と呼ぶにふさわしい。唯一の弱点は、潜伏期があることです。それさえクリアすれば、β2保持者を中核として、爆発的な感染力を発揮します。理事長、もうこの区画は山口さんに頼んで完全にロック・アウトしました。あなたと僕、二人以外にβ2を感染させるわけにはいきません」

 事実なら、対抗手段がないことは開発者である羅無蔵自身が一番良く知っていた。最低限の威厳を保つのが精一杯だった。

「君、君は昔から冗談を言うのが下手だ。生憎、私は諧謔かいぎゃくを解さんのでね。笑えなくて申し訳ない。……本当に、そんなことをしてみろ、私も君も間違いなく地獄行きだぞ」

 

「理事長、いや浅井先生、……僕はあなたに冗談を言ったことなんて、今まで一度もありませんよ」

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