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チャットルーム  作者: 橋之下野良
4/33

見られてしまった慣れない買い物…

 その週の昭和の日の祭日から、鮎川の会社も5月5日までの長期休暇となっていた。

 例年は、元妻と小旅行に出掛けたり、元妻の買い物に付き合わされて、過ごすような連休だったのだが、今年は、急転直下の離婚劇のせいもあったので、何の予定もない長期休暇になってしまった。


 しかし、まだ、独りの生活を始めて2週ほどしか経っていなかったので、部屋の備品も買い揃えてはいなかった。

食器など必要最低限のものは転居先の近所の雑貨店で買い揃え、他の物は、連休中に買い揃えようと考えていたので、直接的に、不便でないものは後回しにしていたのだ。

まずは、カーテン・ダイニングテーブルと椅子・ソファーとリビングテーブル、それにテレビとオーディオを置くサイドボード等々と、意外にいざ独り暮らしを始めてみると、物が何もないのであった。

できることなら、連休中に配送をしてもらいたかったので、連休初日のその日は、都内の大型家具センターへ行く事にしていた。


 元の自宅に居た時は、郊外だった事もあり休日の買い物は、殆どが自家用車での移動であった。

しかし、鮎川の選んだ転居先は、都内の会社から程近い部屋を選んだために、車は元妻の元に置いて来てしまっていた。

実際には、自分が家に帰ったときに、元妻が車を乗って行ってしまっていて、連絡を取ろうにも取れない状態だったので、自分が車を回収する事も出来なかった訳でもあるのだか...


 鮎川は、地下鉄を乗り継いで、都内で一番大きな家具センターへと向かって行った。

今まで、休日に都内で電車に乗る事も稀だった為、こうして電車に乗ってみると平日の通勤時間帯とは違う客層なので、新鮮にさえ思えた。

比較的に若い男女が多いだろうか。

女性などは、普段の仕事に行くときとは明らかに違う、きらびやかにお洒落をしている女性も目立ったのだ。


(こんな事を考えながら、女性を見ているおれも、おっさんなんだよな...)


鮎川はそんな事を考えながら周りを見ている自分に対して、心の中で苦笑するのであった。


 しかし、そんな事を考える鮎川でも、周りの女性から見れば40を超えたとはいえ、振り返ってしまいそうになるくらいに、魅了的な男でもあったのだ。


ただ、ハンサムな顔立ちだけではない。


 決してブランド物などで着飾っている訳でも無く、どちらかといえば高価なものとは無縁の男なのだが、稀にいるセンスの良い男なのだ。

生成りのシャツにジーンズで靴はローヒールの涼しげな革靴と、どれもこれもブランド物どころか、安いものでコーディネートされているのだ。

本人は全く意識していてコーディネイトしている訳でもないが、そのくらいに無意識だからこそ、40過ぎの男であっても、周りから見て全くいやみの無い着こなしなのである。


とにかく、この鮎川という男は、自分のことは全くと言って良いほどに理解していないのである。


 電車を乗り継いで、鮎川は目的の駅に到着した。

目的の家具センターは、駅のすぐ近くに有った。確かの大きい。


(これは、物を選ぶのも時間がかかりそうだ。)


少しうんざりする鮎川であったが、家具センターの店舗内へ入って行った。


 最初は、ダイニングテーブルと椅子を2脚、見てみることにした。

店員に聞きながら、見た目とコスト等を考えて、あまり悩みすぎずに直感で選んで行こうと考えていた。そうでないと、時間が掛かってしまうだけなので、事前にそう決めていたのだ。

ダイニングテーブルを選んでいて、鮎川は思い出すように、気が付いた。


(そうだ、食器棚が無いではないか...それも買わないといけないのか。なら、デザイン的に、バランスの良いものを買い揃えたほうがよさそうだな。)


 そう考えると、早速、店員を呼んで何点かの、テーブルと椅子と食器棚を見比べて、濃いグレー基調の物であわせる感じで、その三点は早々と決めてしまった。

店員に、他の買うものを告げると、それぞれの売り場まで案内をされ、サイドボード、ソファー、リビングテーブルをそれぞれ、コスト重視で選んでこれもまた早々に購入を決めてしまった。


 最後にカーテンを残すのみで、一度、会計と配送の手配をすることにしてみたら、全て現物の有る物だったので、連休中の配送が可能であるとのことだった。

5月3日以降なら、配送できるとのことなので、すぐにでもほしいと思った鮎川は、3日の午前中の配送で、依頼して会計も済ませてしまった。


(残すは、カーテンのみか...やれやれだな...)


 ここまでの買い物でも、2時間も掛かっていないのだが、鮎川はこう言った買い物などはあまり好きではないのだ。

女性などは、デザインなどを見て選んだり、いろいろ悩んでなかなか決められなかったりするのだろうが、機能重視でしか考えない鮎川は、デザインなどを選ぶことさえ煩わしく思えるのであった。

元妻の啓子が、散々選んで悩んだ末に買わないという、そういう買い物をする女性でもあったのだ。

鮎川は、妻のそんな買い物に何時も付き合わされていたのだが、こればかりはどうにも慣れることは無いまま結婚生活を終えたのだった。


(さて、さっさを採寸してきた窓枠にあうカーテンを選んで帰るぞ。腹も減ってきたし、何か食べたいしな!)


そのような事を考えながら、カーテン売りへと向かって行った。

売り場は、かなりの広さではあったが、鮎川自身は採寸してきたサイズで既製品が有れば何でも良いと考えていたので、レースカーテンと遮光カーテンをそれぞれ、2組を寝室とリビングのものをさっさと決めてしまい買って帰ろうと、売り場に陳列されたカーテンを物色していた。


 採寸したメモ書きを見ながら、どれにしようかと眺めたりしていると、背後のほうから、誰かに呼ばれているような気がした。


(なにか、誰かに呼ばれたような気がするけど、気のせいだろうか?...)


「次長...鮎川次長!」


やはり気のせいではなく、女性に呼び止られていた。鮎川は、声のする方へ振り返ってみると、部下の井上恭子が、はにかむような笑顔で鮎川に近づいてきたのだ。


(うわっ、不味いところで、よりによって会社の部下の女性と会うとは、なんて間が悪いんだ!...おれは...)

そう思いながら、言い訳を必死に考える、鮎川でもあった。


「次長、お買い物ですか?」


「う...うん、そんなんだけど、井上さんもお買い物なのかな?」


「はい、自分の部屋の模様替えをしたいと思ったので、カーテンも何年も替えていなかったので、買い変えようと思って、今さっき、来たところなんですよ。次長もですか?」


「ああ、おれは他にも買い物したから、だいぶ前に来ていたのだけどね。」


(しまった!...よけいな事を言って...馬鹿か、おれは...)


そう思っても、後の祭りであった。恭子は、にやりと何かを企むような不敵な笑みを見せて、鮎川の発した言葉に食い付いて来た。


「へえー、何をお買いになったんですか?...次長...」


(やっちまったな...おれは...)


「たいしたものではないのだけど、うん...部屋で使うものを何点かね...何でもいいだろう...」


恭子は、うろたえる鮎川を面白がるように、にやにや笑みを見せながら話を続けた。


「どんな家具をお買いになったか教えてくださいよ!...次長...」


「...」


返答に困っている鮎川を面白がるように、近づいてきて、耳元でささやくように恭子は言った。


「知っていますよ、次長!...もう、部内でも男性社員以外の殆どの女子社員は知っていると思いますよ!」


そう言うと恭子は、また不敵な笑みで鮎川の顔を覗き込んだ。


「えっ?、何の話をしているんだ?...」


(やばい、この娘は、おれの離婚を知っているのか?...てか、知るの早すぎだろう!)


うろたえる鮎川を余所に、恭子は更に続けて話した。


「次長...奥様と離婚されたんですよね!...その理由までは、秀美ちゃんも知らないらしいでしたけど...」


(うわっ、やっぱり知っているのかよ...てか、早すぎだし、うちの総務のコンプラはどうなっているんだ?...総務の斉藤秀美はなんなのよ!...理由なんて知られてたまるか!それまで知っていたら逆に驚くわ...)


そう心の中で呟く鮎川であったが、観念したかのように話していった。


「まあ、隠す事でもないのかもしれないが、あまり格好の良い話でも無いからね。いずれは、部の皆には、話すつもりではいたのだよ。そういう訳なので、この連休中に、転居先の部屋を人の住めるくらいの家具を揃えたいと思って、今日はここに来たという訳なんだよ。」


「たしか、次長は奥様のご実家の近くに家を建てて住んでいらしたのですよね?」


「そうそう、向こうの親が所有していた土地に住んでいたから、おれが家を出る形になったんだ。だから、ほとんどの家具を買い揃えなくてはいけないという訳なんだよ...」


「そうなんですね。言っていただければ、家具も選ぶのをお手伝いできたのですけど、それじゃ、カーテンくらいは、私が選んであげますよ。いいですよね?...次長!」


(まあ、いいか...断っても、角が立つだけだし、適当に選ぶつもりでもいた訳だし...)


そう思いながら、あれやこれやとカーテンを見て選んでいる恭子の姿を、鮎川は眺めていた。


「次長!、選ぶのを手伝った御礼に、ご飯ご馳走してくださいね!」


またもや不敵に笑う恭子であった。


「わかったよ、ご馳走させていただきます。」


(これじゃ、おれ一人で買い物したほうが楽だったようにも思うけど...まあ、いいか。)


 恭子は、鮎川のそんな思いも知らずに、楽しそうに選んでは鮎川に見せたりと忙しそうに動いていた。

傍から見たら、少し歳の離れたカップルのように見えるのかもしれない。

 しかし、鮎川はそんな事すら全く考えたりもしないほどに、無頓着な男でも有ったのだ。


恭子が、何を楽しそうにしているのかも、まったく理解してはいなかったのだから。





 無事にカーテンは恭子に押し通される形で選ばれ、会計を済ますと、意外にも大きな荷物となったので、家具と一緒に配送してもらうように手配をして、無事に目的の鮎川の買い物は、終えることができた。

恭子は、満足そうに鮎川を見詰めていた。


「次長、それじゃ、ご飯を食べに行きましょう。」


そう言うと、恭子は、鮎川の腕を取り、無遠慮にも腕を組んで鮎川を導いて行くように、ぐいぐいと引き寄せるように歩いていった。

鮎川は、恭子の突然で大胆な行動に面食らうようでもあり、それにもまして、歩く度に恭子の胸の柔らかさを腕を通して伝わってもきていた。


(井上さんって、こんな女性だったのかな?...何か、会社に居る時よりも、明るいし行動力も凄いけど...でも、この胸の感触は、男としては理性を保つのは難しいぞ...だめだぞ、おれ...よけいな事は考えるな!...)


「ところで、井上さん?...井上さんのお買い物は済んでいないけど、忘れていませんかね?」


「いいんです。次長に食事を奢ってもらうんですから、自分の買い物は何時でもできますから、また今度でいいですから。」


恭子はそう言うと更にぐいぐいと鮎川の腕を引くように歩いて行った。


「なんだか逆に悪いみたいだけど、それじゃ、また、来なくちゃいけないのではないのでは?」


「いいんです!カーテンも無い訳ではないですし、食事のために次長を待たせるほうが、私としては申し訳ありませんから...それに、別の日に次長が食事を奢ってくれるとは限りませんし...次長の事だから仕事中のお昼なんかですと、定食屋で済まされそうですしね。」


そう、恭子は話すとケラケラと声を上げて笑った。

そんな恭子を見て、鮎川は少しムッとしたが、恭子のそんな姿を見るのも初めてだったし、そんな一面を目にして、正直に可愛い女性だと感じたのだ。

やはり、社内で仕事中に上司と部下で居る時とは、少々勝手が違うのだとも思ったのだ。

一回りも歳が上の鮎川のほうが、完全に恭子に主導権を握られ、意味も解らず従わされているようでもあったのだ。


「次長、イタリアンでもいいですよね?この先の複合モールにおいしい店がありいますから。」


「なんでも、いいですよ。私は奢らせて頂く立場ですから...」


投げやりに笑いながら答えると、恭子はぷいっと頬を膨らませるような仕草を見せてきた。


「なんですか、その投げやりな言い方は!こんな若い女性と食事できるなんて、そうそう、ありませんよ...次長」


「若い?...あっ、そうですね、井上さんは、若い女性でしたよね!」


鮎川も、負けじとおどけるように、意味深な笑みを浮かべて恭子の顔を見ていた。


「あっ、次長、それは問題発言ですね...セクハラで訴えられますよ...」


恭子も負けじと、真顔になって鮎川へ返して見せた。

こうなると、鮎川も負ける訳には行かず、すかさず恭子へ返してみせた。


「それは不味いよね...訴えられたら怖いから、食事しないで帰ろうか。」


「次長、意外と意地悪ですね...お腹を空かせた乙女に餌をちらつかせての今度は脅しですね...パワハラですか、ああそうですか。」


睨み合うように二人は顔を突き合わせ、ほとんど同時に噴出すように笑った。

そんな冗談を言い合いながら歩いていると、あっという間に目的のレストランに着いてしまった。


 時間は夕食をするには中途半端な時間でもあったので、店内は比較的に空いてはいた。

鮎川自身も、元妻に連れられてよくこういったレストランには来ていたので、特に抵抗無く入る事もできた。

しかも、鮎川は見掛けには寄らず自分で料理をするのが好きでもあったので、パスタ料理のレパートリーも豊富でも有ったのだ。

ただ、そんな話は会社の中でも話したことも無いので、誰にも知れれてはいないことなのだが...


 店内は、おそらくは、南イタリアを思わせるような凝った作りの内装で、白を基調としてしたシックな雰囲気を演出しているようだ。

テーブルも白とグリーンを2枚を重ねのテーブルクロスで統一されているようだ。

メニューは、パスタ料理のほかにもいろいろ有るようだが、全て文字だけのメニューだ。

まあ、こう言った店は、店側の方が客を選んでいるのだろう。

若い男女とか食べ歩くことの好きな女性などには、良いレストランなのかもしれない。


しかし、男があまり知らないでデートで彼女を連れてきたら、恥をかきそうなレストランでもある。

(文字だけでは何が何やらわからんだろうに...)


「次長、何食べますか?...私はどうしようかな...」


メニューを目で追いながら、恭子は鮎川に問いかけてきた。


「そうだね...せっかくだから、コース料理にしてみたら?...そんな高くはないみたいだから、遠慮なく奢らせて頂きますよ。」


「いいんですか?...じゃ、そうしましょうね、よし今日は食べるぞ~...ラッキー!...」


早速、店員を呼んで注文をした。鮎川は手馴れた仕草で店員にひとつひとつ説明を求め、ポルチーニのリゾット風のスープ、バジル風味の若鶏のグリル、パスタはトマトソースのプッタネスカを手際よくコースで選んで行った。

恭子にも聞いてみると、基本は同じで、パスタだけ鮎川とは別の物で、フレッシュトマトとナスを使ったパスタを注文した。


「井上さん、飲み物はどうする?...おれは、グラスワインで白を貰うよ。」


「えっ、次長ずるいですよ...私、今日は車なので、飲めないですから、フレッシュオレンジジュースでいいです。」


恭子は、自分が酒を飲めないことで、口を尖らせていた。


「そうなんだ、車では、飲んではだめだね。一応、上役ではあるから、黙認はできないから...」


「我慢します...次長、一人で酔っ払ってください。」


恭子は、両手を目の下に当てて、泣きまねをするように悲しい仕草でおどけて鮎川の顔を見てきた。


「でも、次長って意外ですね?...なんか、こういうお店に来るようなイメージないし、定食屋が似合いそうなんですけどね。料理とか詳しいから驚きましたよ!」


「失礼だね、井上さんは...おれだってこういうお店とかは食べ歩いてはいるんだよ。まあ、ほとんどは、元妻に連れられてだけどね...」


「そうでしたね、次長にも奥さんが居たんですよね。すっかり忘れてましたよ。」


そう言うと、恭子は不敵な笑みを見せ、鮎川の顔を覗き込んできた。


(しまった...また、自分から墓穴を掘ったかもしれない、またいろいろ聞いてくるぞ。)


鮎川の思った通りに、恭子はここぞとばかりに、食い付き、鮎川への質問攻めとなったのだ。


「会社でも有名でしたからね。次長の奥さんのラブラブぶりは...お綺麗な奥さんとも聞いていましたし、そんな次長の奥さんですから、女子社員の間では、今回の次長に離婚劇は、大スクープだったのですよ。」


(何がスクープなんだよ...芸能人でもあるまいし...他人の不幸は蜜の味なのか?...)


少し興奮気味に話すように、恭子はなおも続けた。


「そんな奥さんとの突然の離婚ですからね...次長、何か悪いことしましたか?...浮気がばれたとか?」


恭子は、小悪魔のような何とも言いがたい笑みを見せ、更に鮎川の顔を覗き込んでいた。

そうこうしていたら、飲み物が来て、料理のサラダ、ポルチーニのリゾット風スープが順に運ばれて、料理を食べながら、鮎川はそれに答えていった。


「まあ、結婚して12年も経つといろいろ有ったのは確かだよね。でも、おれが浮気とかなんて一度もないよ。ただ、しいて言えば性格の不一致とでもいう感じなのかな...」


こう恭子に話す鮎川だったが、鮎川自身も啓子と全く今回の件では話していないので、本当の真相までは知らないでいることに今更再確認したのでもあったのだ。


(確かに男の影は有ったようでもあるけど、本当のところはおれも聞いた訳ではないから、解らないのだよな?...)


そんな事を考えていたら、鮎川はグラスワインを飲みながら物思いに耽るように黙り込んでしまった。

恭子も、その鮎川の心の動きは見逃さず、先程までとは打って変わって、鮎川を気遣うように話していった。


「女子社員の間でも次長の奥さんのラブラブ振りは有名でしたから、次長が離婚するとは誰も思わなかったのですけど、でも次長、前向きに考えれば、チャンスかもしれませんよ。」


「何がチャンスなのよ。妻に捨てられた独りやもめになった40過ぎのおじさんをからかわないでくれるかな。こう見えても悲しんでいるんだからね...」


全く悲しんでいるように見えないほどに大笑いしながら、鮎川はそう言ったのだ。

そう言うと、鮎川は、店員を呼んでグラスワインのおかわりをした。

そうこうしているうちに、若鶏のグリルが運ばれてきた。

鮎川は思った。この手のレストランの中でも、味付けもしっかりしていてどの料理も美味しいと思った。チキンもガーリックとバジルの風味で柔らかくなかなか美味に思えたのだ。


「次長、このチキンも美味しいです。さっきのポルチーニのスープも美味しかったですよ。」


恭子も、同じように感じているようだった。


「そうだね、この店、値段の割りには、美味しいと思うよ。まあ、素材はそんなに高価なものではないから、若い人にはちょうどいい店かもしれないね。」


そんな会話をしながら、二人ともしばし食事に集中して行った。

心地の良い沈黙の中で、店内にはジャズが耳障りにならない程度に流れていて、食事をして話していない間でも、その空間の空気を保っているようだ。


 肉料理を食べ終わると、パスタ料理が運ばれてきた。

鮎川は、自分でも料理をしてプッタネスカを作る事もあるのだが、それだけが理由で選んだわけではなかった。

決して、鮎川がグルメという訳でもないのだが、知識としてプッタネスカの美味しい店は他のパスタも美味しいと何かで聞いた事があったのだ。

確かに、作り方も材料も単純で、でも出来栄えに大きく差が出てしまうプロにとっては恐ろしい料理でもあると思うのだ。

だから、鮎川は初めて行くイタリアンレストランでは必ず注文してみるパスタ料理でもあったのだ。

早速、食してみた。やはりなかなかの味付けであった。このレストランのシェフは料理のセンスが良いようである。


「次長、このパスタ凄く美味しいですよ!...次長のパスタはどうですか?...一口いただいてもよろしいですか?」


「いいよ、美味しいから食べてみて...はい...」


そう言うと、鮎川はパスタの皿を恭子の方へと差し出して、取り易いようにしてしてあげた。

恭子は、差し出されたパスタ皿からフォークとスプーンでくるりと巻いて取ると、口元に持って行き、鮎川の注文したプッタネスカを食してみた。


「次長のパスタも凄く美味しいですね。それ、なんてパスタでしたっけ?ちょっと覚えておきます。」


「プッタネスカだよ...注文できるお店では必ず頼むんだよ。」


鮎川は、そう言うとその理由も簡単に恭子に説明していった。


「へえー、次長って、ほんとに意外な一面があるのですね...今日は、次長の会社では見られない一面が見れて凄く楽しいですよ。」


そう言うと、恭子は更に続けた。


「その料理の事くらいに、もっと女性の事が解ればねえ...奥さんも少しは、あっ!」


ちょっと、恭子も調子に乗りすぎて言い過ぎたと思ったのだろう。

でも、それを聞いても鮎川は特に気にする様子も見せなかった。


「そうかな?...おれってそんなに女性の事を解っていないのかな?」


そう鮎川が言うと、少し安心したかのように、続けて恭子は答えた。


「そうですよ、次長...次長が女子社員にどう思われているか知っていませんよね?ご自分の事も解っていないようですし...」


「なによ、怖いのだけど...なんて言われて、どう思われているのかな?」


鮎川は、これまで馬鹿なくらいに妻の事しか見てこなかったので、会社でも女子社員を女性として扱ってはいたものの、異性の対象と考えた事も無かったのも事実では有った。


「次長、女子社員の間では、社内人気は№1なんですよ!仕事はできて同年代では出世頭ですし、男女の隔てなくお優しいじゃないですか!しかも、次長は...」


そう話す途中で、恭子は言葉を詰まらせた。


「しかも、おれってなに?」


「言いませんよ!だから次長はご自分が解っていないのですよ。いい機会ですからご自分で良くお考えになってくださいね...」


恭子は、微笑んでそう言うと、食べかけのパスタを黙々と食べ始めていった。


「なんだろうな?...おれがおれを解らないか?...」


そう言うと、鮎川も残りのパスタを食べていった。


 パスタを食べ終えると、デザートとコーヒーが運ばれてきた。

鮎川はさほど甘い物は好きでもなかったのだが、恭子はやはり女性であるので、甘い物は別腹のようであった。

鮎川をしり目にして美味しそうに頬張っているのだ。


「でも、こうなると会社の独身男性も大変だと思いますよ。全くマークしていなかったところから、史上最強のライバルが出現したのですから、女子社員だけでなく、男性独身社員達にも、次長の離婚劇が社内中に知れ渡ったら、物凄い衝撃があると思いますよ。次長は、魔王ですよ。今期最大の会社を揺れ動かす存在になりましたからね。」


恭子は、そう言ってまたもや、不敵な笑みを浮かべていた。


「なんだよそれ?...おれが最悪な男みたいに聞こえるんだけど?...」


「そうですね、ある意味、最悪な男だと思いますよ...」


「品行方正、まじめに仕事をしていると思うんだけどねえ?」


「だからなのですよ...ご結婚されていた時は、ただの憧れの上司で女子社員は、皆、次長のような男性を旦那さんにしたいと思っていたのですよ。その次長が突然離婚されたと知ったら、女子社員は、あの手この手であからさまにモーションを掛けて来ると思いますから、気を付けないと大変な目に遭いますからね。本当に気を付けてくださいね、次長!」


「よく解らないけど、気を付けます...はい」


「よろしい、その事だけ理解できればいいのだよ、鮎川君。」


「おいおい、どっちが上司か解らないぞ...まあ、会社でもないし気にしないけどな...」


そう言うと、そろって笑い合った。


 時計に目を遣ると、7時を少し回っていた。

食事も終えたので帰る事にしようと言い、キャッシャーで会計を済ませる事にした。

恭子は、店舗の入り口付近でフリーペーパーのタウン誌を手に取り、ぺらぺらと眺めながら鮎川が来るのを待っていた。

会計を済ませた鮎川が恭子の元に行くと、揃って店を出て行った。


「次長、ご馳走様でした。次長は、電車で来られたのですよね?」


「うん、そうだけど...」


「じゃ、どうせなら、私の車で送らせてください。次長のご自宅はどちらなのですか?」


「えっ、そんなのは、悪いからいいよ。電車でもそんなに時間も掛からないから...」


「いいから送らせてくださいよ...ご飯もご馳走になったし、そのお礼ですから!」


どうにも押し切られそうに鮎川は思った。

やさしいとは言い方の問題で、鮎川の場合は、女性に対して無碍に断ったりする事がどうも苦手な、言い方を変えれば優柔不断に見えてもしまいそうな男でも有ったのだ。

まあ、確かに半日も買い物をして少しアルコールも入ってもいたので、車で送ってももらうのは、有り難いとも感じていた。


「じゃ、お言葉に甘えて、送ってもらう事にするよ。ありがとうね。」


「そうですよ、そのくらいは、私に甘えてください。それで、どちらなんですか?」


「ん?...墨田区の本所の辺りだけど...」


「へえ~、なかなか渋めの所に転居先を選んだんですね!...まあ、会社からは近そうですけど...ああ、私は、実家住まいですけど、千葉の市川ですから差ほど遠回りにはならないですね。」


 恭子は、そう言うと来た時と同じように、鮎川の腕に自分の腕を組んで鮎川を引き寄せ、車を止めた駐車場まで案内をするように歩いて言った。

恭子の車は家具センターの駐車場に止められていた。

まだ新しそうでブルーの小型のエコカーだった。


「この車、お母さんと共有で使っているのですよ。休日しか、私は乗りませんから...次長、ナビの行き先登録をするので住所を教えてください。」


恭子は、そう言うとナビゲーションの操作して、鮎川の返答を待ったいた。


(しまったな...これでは、完全におれの部屋の住所まで自然な形で教えてしまうではないか!)


そうは思ったのだが、ここまで来たら教えない訳にも行かず、しぶしぶ口ごもりながらも、住所を教えて、恭子はナビボタンを操作して行き先をセットした。


「よし、これで準備OKです。次長、申し訳ありませんが、お買い物のレシート出していただけますか?私、結局何も買っていないので、それを見せれば駐車場代を払わなくても良いと思いますので...」


確かにその通りである。鮎川はバッグからレシートを取り出して、恭子に渡した。

駐車場のゲートまで行くと、恭子は駐車券とレシートを係員に見せたのだが、意外にすんなりと、駐車場を出る事ができた。


 恭子はハンドルを握りながらナビゲーションガイダンスに従い、鮎川の自宅の方へと車を向かわせて行った。

連休の行楽地などでは渋滞も激しいだろうが、逆に都内の一般道は嘘のように車の通りは極端に減ってしまう。平日などであれば30分掛かる道のりも10分もあれば着いてしまうであろう。

鮎川には、さっぱり判らないJロックバンドの曲が、カーオーディオから静か目に流れていた。恭子のお気に入りのバンドの曲なのであろう。

この辺りからも年代の違いを痛感する、鮎川でもあったのだ。

 そうこうしている内に、あっという間に鮎川の部屋があるマンションの近くまで来てしまった。


「次長、個人の携帯電話のメールアドレスを教えてください。」


恭子は、信号待ちの間に一瞬、鮎川の顔を見てそう言ったがすぐに、前を見て車を進めて行った。


「えっ?、井上さん、何でメールアドレスなんか知りたいの?」


鮎川がそう思ったのは、部下である恭子は業務用に使っている会社から貸与された携帯電話のメールアドレスを知っているはずなので、わざわざ個人の携帯電話のアドレスを教える必要もないと思ったからだ。


「次長、休日までは会社の携帯電話は使っていませんよね?だからです。」


「??...」


恭子は、更に続けて言った。


「家具とか配送されるのは、5月3日ですよね?私、お手伝いに行きますから!」


恭子はそう言うと、また、昼間のような不敵な笑みを見せて車を運転していた。


「えっ、いいって...そんなことされたら返って申し訳ないから...」


(冗談ではない...ただでさえ、何もなくて片付いていない、あんな部屋をこともあろうに部下の女子社員などに、見せられる訳がないだろうに...)


「えっ、それじゃ、今日聞いた次長の話も会社の女の子達にばらしますよ。それに私の選んだカーテンを取り付けた所も見てみたいですからね...」


恭子はそう言うと悪だくみをするかのように、また笑った。


(なんだろう...井上さんって、こんなキャラクターだったのかな?ちょっと怖いぞ...)

こうなると女性には弱いのが鮎川であった。


「わかったよ、車を止めたら教えますよ...」


「そうしてくださいね。」


 しばらくすると、恭子の車は鮎川の部屋のあるマンションのすぐ近くに到着し、ハザードランプを点灯させて、道の左側に寄せて停車した。

車を停車させると、恭子は鮎川から携帯電話を奪うようにして、手際よく勝手にメールアドレスを自分の携帯電話に移して行ったようだ。

鮎川は、恭子のそのやりように、ただ唖然と見ているだけだった。


「はい、これで次長に連絡できますね。前日の夜には連絡しますね。ちゃんと返信くださいね!...今日は、ご飯も奢ってもらえたし、凄く楽しかったです。次長、おやすみなさい。」


携帯電話を返して鮎川が車から降りると、恭子はそう言って別れを告げ、車を発進させて走り去って行った。

 走り去る恭子の車を見送りながら、鮎川は想いをめぐらせていた。

恭子が手伝いに来るという家具の配送日のことを考えると、予定外の事態に気が重くなる鮎川であったのだ。

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