取締役営業本部長
その日の午後、鮎川祥吾は、会社の役員会議室の外の通路に置かれたソファーに腰を下ろし座っていた。
もう既に、待たされること30分ほど経っていただろうか。
さすがに鮎川自身もこの待たされている時間は落着かない気持ちなのだろう。
殆んど決まってはいると鮎川本人も聞かされてはいるが、実際に議題にかけられて、承認されるまでは、落着かない気持ちだったのだ。
そんな事を気にしながら何度も時計を見ていた鮎川だったが、やっとその時は訪れた。
「鮎川営業本部次長、お入りください。」
末席の役員である菅原商品企画本部長が、役員会議室より出てきて、鮎川を呼んだ。
鮎川は立ち上がると、菅原の招きに従い、役員会議室へて入っていった。
会議室に入ると、大きくぐるりと弧を描くようにテーブルを囲んで、各役員達が社長の早川を上座に仰ぐようにして座っていた。
鮎川は、菅原の指示により、その壁際の置かれた椅子に座らされた。
まず、議長である社長の早川から、話があり本部長就任の議題が可決承認された事を、告げられた。
「鈴木義男取締役副社長の健康上の理由での急遽の退任に伴う、空席となる取締役副社長への取締役専務内田誠君の昇格就任と、それに伴う内田誠君の兼務していた取締役営業本部長への鮎川祥吾君の就任の議案が、可決承認しました。それぞれ、一言お願いします。」
まず最初に、内田誠専務改め取締役副社長が挨拶をすると、全役員から拍手を送られた。
そして、次に鮎川の番である。
「この都度、取締役営業本部長に任命され就任します鮎川祥吾です。若輩者では有りますが、我が社の発展の為、誠心誠意取り組んでいく所存でありますので、何卒、ご指導ご鞭撻の程をよろしくお願いします。」
鮎川は、そう話すと深々と頭を下げ役員達に一礼していった。
役員達は、鮎川に対しても拍手を送って口々に「おめでとう」と言った。
社長の早川の言葉で、会議を終えると、各役員達は会議室を後にしようとする際に、鮎川は、役員全員と言葉を交わしながら握手を交わして、役員達の退席を見送った。
社長の早川と副社長に就任したばかりの内田は残り、鮎川としばしの談笑をした。
「鮎川、お前、滅茶苦茶緊張していたろう?...」
内田はそう言いながら、鮎川の肩をぽんと叩きながら笑った。
社長の早川も笑いながら、鮎川に話してきた。
「まあこれで、鮎川君も一社員ではなくなった訳だから、いつでも何かあれば首を切れるわけだな。」
さすがに、冗談でも閉口する。その通りなので、鮎川自身も判ってはいたつもりだった。
鮎川の会社には、明確な派閥と言うものはないが、鮎川自身は、早川・内田のラインに乗っているのも確かな事実だった。
もし、幹部内での派閥抗争のようなものでもあったり、何かの責任問題が生じてしまった際には、責任も取らされての辞任も有り得るのだ。
そうなったら、鮎川自身、若くして無職に突然なることも充分に認識もしていたのだ。
「早川社長、就任早々、怖い事を言わないでください...充分に覚悟後はしていますので...」
「まあ、冗談はさて置き、鮎川君も役員になった訳だから、充分に自覚を持って行動してくれよ。私も内田君も期待しているのだからね。」
「そうだな、鮎川、特にお前は、女には気をつけろよ。変なのに引っ掛かからんうちに、早く新しい嫁さんでも探せ。」
そう言うと、また、副社長の内田は、肩を何度も叩いて笑った。
「もう、部下達にも、鮎川君が本部長に就任した事は話してよいからな。」
しばらく、三人は談笑すると、それぞれ、会議室を後にして、自分のオフィスへと戻っていった。
鮎川も、自分のデスクの在る営業本部のフロアへと戻って行った。
デスクに戻った鮎川は、昇進の喜びよりも不安のほうが大きかったのかもしれない。
もともと、鮎川自身は謙虚な男であったのだが、若くして役員への就任は、嬉しい事だろうが、当然に周りからの妬みが在ることも理解していたのだ。
社歴が自分よりも長い年長者は、他にもたくさんいるのだ。
そう考えると、素直には喜べないでいたのだ。
(やることは、今までと早々変わらないだろうが、もう、周りから見られる目も違ってくるだろう。今までの同僚も、もう、同僚ではなくなるのだよな...)
そう考えると、鮎川は寂しい気持ちもしたのだ。
以前のようには、同僚や部下達とも接することができない、壁ができてしまうのであろうと...そう考え、遠くを見つめていた。