営業本部次長 鮎川祥吾
「鮎川次長、この決算資料をご確認の上で確認印をお願いします。」
5月連休前で慌しく皆が働く中で、井上恭子は、鮎川祥吾のデスクの前に立ち、分厚い資料を手渡した。
「ありがとう。今日中に目を通した方が良いのだろう?確認できたら呼ぶから...」
「そうしていただけると、ありがたいです。お願いします。」
恭子は、はにかむように薄っすらと微笑むと軽く会釈をして、自分のデスクへと戻っていった。
鮎川は、渡された資料よりも、恭子のほうに目をやっていた。
不思議なもので、離婚して独り身になる以前は、会社の女性社員に対しても、特別意識をした気持ちも無かった事に気が付いたのだ。
井上恭子は、未だ独身で新卒入社以来、鮎川の部署で仕事をして今年で7年目になる。
こうして改めて、鮎川から見ても、恭子は社内でもかなり高いレベルで容姿は整っていると感じたのだ。目鼻立ちもはっきりした顔立ちで、背丈も165cmほどはあるだろう。
しかも、制服ではスレンダーに感じるのだが、こうしてよく見るとバストもヒップも程好くボリュームも有るように見えた。
しかも、上司の鮎川から見ても、恭子は明るく性格も良く気配りもできて、仕事もできる優秀な女子社員でもあった。
鮎川は、今更ながらに会社のこんなにも近くに、恭子のような美しい女性がいることを再認識したのだ。
(まあ、あれだけの美人な女性を周りの男がほおって置く筈がない。きっと彼氏なんかも居るのだろう。)
そう考えると、少し悲しい気もしたが、本人にそんな話など聞ける筈もない。
このご時勢、男性中年上司が業務外でそんな話をしたりしたらセクハラ扱いを受けかねないのだ。
ましてや、そんな話をして恭子と仕事上で気まずくなるのなら、何も聞かない事がベストだとも言えよう。
(よけいな事は、言わないでおこう。)
そう、心で呟くように、鮎川の視線だけが恭子のほうに送られていた。
鮎川は、恭子に見とれながら、ぼ~っとしていたのだろう。
ふと目線を右に移すと、男が鮎川のデスクの前に立っていた。商品企画部の同期の中川健志であった。
「鮎川、仕事中に何をぼ~っとしてるんだよ...お前(笑)」
中川は、業務中だというのに、茶化すように笑いながら、鮎川の肩を二度叩いて話しかけてきた。
「おう、中川か、何の用だ?」
そう返事をすると、現実世界に引き戻されるように、中川の顔を見た。
「総務部の秀美ちゃんに聞いたんだけど、お前、離婚したらしいな!」
鮎川は、少しいらつく気もして、不機嫌な面持ちになって行った。
(我が社の総務というのは、そんな簡単に個人の情報に他の社員に流して良いのか!...)
そう一瞬考えた鮎川だったが、気を取り直すと、いずれは皆が知る事になるのであるからしかたないと思ったのだった。
「おう、そんなんだが、まだなるべく誰にも言わないで置いてくれるか。」
「わかった、それで何があったんだ?...お前、浮気でもしたのか?」
「ばかを言うなよ、おれがそんなことできる時間が有るかよ...お前も知っているだろ。」
「そうだよな、あのおっかないお前の嫁さんじゃ、そんなことできるような暇もないよな...」
「判ってるなら、そんな事聞くな!」
「わるいわるい、じゃ、もう飲みにも行けるんだろうから、今度、じっくりその辺の事情なんかも、聞いてやるから(笑)」
なんとも不遠慮で言いたいことを言う男だが、そんな中川だからこそ同期入社以来、付き合ってこれた相手でもあったのだ。
そんな話を一通りし終えると、中川は鮎川のデスクをあとにして自分の部署へ戻っていった。
(あいつは、仕事の話が無いのに、そんな話がしたくて、おれのところに来たのか?)
鮎川は、そんな中川に対して、あきれるように感じもしたが、中川はともかく、他の社員たちの間で、自分の離婚話が、変な噂話で広がるのも困るとも感じた。
早い段階で、自分の口から部内の部下達だけでも離婚事実を伝えるべきかどうかも、考えてみる事にした。
そんな事を考えながら、鮎川はデスクのノートPCのファイルと恭子から受け取った資料を見比べて自分の仕事に戻るのであった。