チャットルームに来た、ある男(2)
その男とのチャットルームでの出会いは突然だった。
男は、匿名のチャットネームを(ヒロ)と名乗り、33歳の子供の居ない既婚者であった。鮎川は、男の話を注意深く質問しながら聞き出して行った。
鮎川は、男の言うように、普通の夫が自分の妻を他人の男性と交際させたいと言うその話が、信じられない気持ちであった。
そのことがよけいに、鮎川の好奇心を掻き立て、男の話を聞いてみたいと感じたのであろう。
鮎川自身も、元妻、啓子からの離婚は、確信は持てないが男の影があったのではないかと考えてはいた。
しかし、鮎川は、仮に啓子が浮気をしていたとしたら、それを認めて婚姻関係を続けていくことはできなかったであろうとも考えていた。
そう考える鮎川にとっては、この男の言うように、自身の妻に対して、自分が仕組んで、わざわざ夫以外の男と交際させようと言う心理が全く理解できなかったので、この男が何を考えているのか、単純に興味を持ったのだ。
『失礼ですけど、どうしてそのようなことを考えるのですかね?』
鮎川は、回りくどい聞き方はせず、直球で男と話して行こうと考えた。
『はい、結婚して4年ほどになりますが、私達夫婦はもう夜の営みは殆んどありません。しかし、妻が私以外の男性を愛して夢中になることを妄想したりすると、なんといいますか、嫉妬からなのか、私自身が興奮してしまうのです。』
鮎川は、話を聞いて、この男性はある種、特殊な性癖のなのではないかとも思った。鮎川には、とでも理解できないことなのだが...
『そうすると、要するに自分のコントロール下で、自分の奥さんに浮気をさせたいということなんですかね?』
『そうです』
『でも、その話だと、奥さんがその相手の男に対して本気になったりしたらどうすんですか?』
『そのくらいに、妻がなってくれたほうが、私としては嬉しいのです。私に隠れてその相手の男性と親密になればなるほど、私が望んでいることになりますから...』
『そうすると、その状況は、あなたが選んだ男性から報告させて、知りたいということなのですか?』
『そう言うことになりますね。』
ますます、鮎川には、この男性の考えていることが理解できなくなったしまった。
自分の欲望を満たす為に、そんな危険な事をして良いのだろうかと思ったのだ。
それに、夫が自ら、自分の妻をだます訳でもあるのだ。その事が妻にばれたりしたら下手をすれば婚姻関係が破綻しかねないことではないか。
( この男は、自分の妻を愛してはいないのだろうか?...)
鮎川には、そう思えてきたのである。
『じゃ、お聞きしますけど、もしそれで奥さんとの婚姻関係が破綻したとしても、構わないと言う事なのですか?』
『いいえ、それは困ります。ですから、自分が全てを把握した上で、妻には気付かれないように、他の男性と交際させたいのです。私は妻を愛していますので。』
鮎川には、この男性の心理が全く理解できなかった。
それでも、この男性の心理を少しでも、理解したいと思い根気良く、質問をしていくのであった。
『そうすると、奥さんが他の男性に好意を持って、徐々に好きに成って行き、自分以外の男性に恋をしていく様子を、あなたは観て行きたいという事なのですか?』
『そんな感じです。ただ、あくまでも、私が知っていることは妻には知られたくはないのです。』
『でも、それって、あなた自身が奥さんをだましている訳ですよね?』
『そう、なりますね。』
『もし、相手の男性に、奥さんが本気にでもなったら、奥さんのことは責められませんよね。』
『そうですね、責めるつもりもありませんよ。だから、信頼できそうな男性を探しているんです。』
鮎川には、男性の言うことには納得できないが、何となくは理解はできてきた。
ただ、自分はとてもではないが、その話に協力できるとは思えなかったのも事実であった。
ただ、この男性の考えていることは、もっと知りたいとも思ってはいた。
『ちなみにですけど、奥さんの歳は、お幾つなんですか?』
『今年で、29歳です。』
『まだ、お若いではないですか...自分などとは、歳も離れていますし現実的には難しいと思いますね...もっとも、私では協力はできないと思いますよ。』
実際に、鮎川は、男の話は興味深く、もっと男の心理を知りたいとは考えたが、だからと言って男に協力するなどとは考えもしていなかった。
離婚したばかりの鮎川が、夫の了解があったからと言っても既婚者の女性と交際しようなどとは、考えもしなかったのである。
しかも、遊び半分に女性をだまして交際するようなことは、鮎川には、できることではなかった。
その辺は、鮎川は真摯に真面目な男でもあったのだ。
『しょうさん、よろいければ、メールアドレスを交換していただけますか?...また、時間のある時に、ぜひお話させてください。』
鮎川は、迷った...男の話はもっと聞いていきたいが、あまり深入りもしたくはないとも考えたのだ。
『じゃ、フリーのメールアドレスでしたら、構いませんので、そちらのメールアドレスを教えてください。』
『はい、○×○×○@○×.com 』
『じゃ、今、メールを送りますので、確認できたら折り返してください。』
そう言うと、鮎川は、短文のメールを相手のヒロと名乗る男へと送ってみた。
殆んど、時間を置かずに返信が男から返されてきた。
『じゃ、また、話したいようなときなどありましたら、メールで知らせてください。』
『わかりました、連絡させていただきます。お話させていただいて、ありがとうございました。』
『こちらこそ、ありがとうございます。おやすみなさい』
『はい、おやすみなさい』
こうして、その男との二時間近くに及ぶ、チャットでの会話を終えた、鮎川は、ノートPCを閉じると、就寝の支度をしてベッドに横になった。
(しかし、いろいろな人がいるものだ...おれには到底理解できないことも考えている人がどれだけ居るか...これも、ひとえに匿名で話せるチャットと云うもののおかげなのだろう...)
鮎川は、チャットを始めてから、他人の心の奥底で考えていることなどが、いろいろと聞けることに、いたく感じ入っていたのだ。
とかく、人間は他人との交流においては、自分を守る防衛本能から、本当の自分を曝け出してはいないものなのかもしれない。
だから、表面的な相手の姿・言動でしか、割りと判断もできないのであるのだ。
これは、親兄弟でも夫婦でも同じであろう。おそらくは、相手も自分も心の奥底までは決して見せたりはしないだろうし、それが、人間関係というものなのかもしれない。
しかし、チャットルームと言う特殊な空間の匿名での会話では、逆に実社会・実生活では語ることのできない本当の自分の姿でも曝け出せてしまうのだ。
「王様の耳はロバの耳」ではないが、ひとは秘密は誰かに聞いてもらいたいのかもしれない。
それが、現代は、井戸に叫ぶのではなく、チャットルームで知らない匿名の第三者に聞いて貰うのではないだろうか。
なんとも皮肉なことではあるのだが...
鮎川は、そんな事を考えていると、いつのまにか、寝息を立てて眠りについていた。