五月雨の真紅の雨傘
その日、仕事を終えた鮎川は、会社のエントランスに向ったが、外は雨が降っていた。
(まいったな...予報では、雨とは言ってはいなかったし、少し濡れてしまうな...しかたがない...駅まで走るか!...)
そう思いながら、頭にカバンをのせてエントランスから走ろうとした時に、後ろからパステルカラーの真紅の傘が、鮎川の頭の上に差し出された。
その差し出されるほうを振り返ると、部下の井上恭子だった。
「次長、傘を持ってきていないのですか?...だめですよ、折りたたみの傘くらいは、いつも持ち歩かないと...」
屈託のない笑顔で、恭子は鮎川に言った。
「駅まで、一緒に帰りましょう。」
鮎川は、恭子を見て面目ない気持ちで、恭子の好意を受けて傘に入れてもらうことにした。
「ありがとう、井上さん...助かったよ!」
そう言うと鮎川は、恭子の手からその傘を取ると、恭子が濡れないようにして寄り添うようにして駅までのほんの短い道のりを歩いて行った。
「次長、今週の金曜日の就業後は、ご予定はありませんよね?」
そう言うと、恭子は鮎川の顔を覗き込むように観てきた。その顔は、一瞬ドキッとするくらいに魅力的で、上司の鮎川も平静を保つことを忘れそうになるくらいに恭子が魅力的な女性に感じたのだ。
しかし、その恭子の問いかけを思い出すように鮎川は答えた。
「そうだね...特には今のところ何も予定はないけど、どうかしたのかな?」
「そうですか...では、金曜の就業後は予定を空けて開けておいてくださいね。次長を励ます為に、会社の仲の良い女子社員で、宴席を設けようと思っていますので...」
「えっ、女の子だけなの?...」
「そうですよ...他に男性が居ないほうが、次長も嬉しいでしょう?...」
そう言うと恭子は、今度は逆に何かを企むような悪戯っぽい笑みを見せて鮎川の顔を見てきた。
(まいったな...井上さんがこう言う時って、必ず何かあるんだよな...気遣ってくれるのは嬉しいけど、一応、少し警戒もしておこう...)
「わかりました、一応、予定は開けておきますね...それで、何人くらいの女性が来るんですかね?...」
「それは、内緒ですよ!...でも、皆、綺麗な娘ばかりですから、安心してくださいね...次長、ハーレムみたいで良いでしょう?…」
そう言うとまた恭子は、笑みを浮かべていた。
そんな話をしていたら、地下鉄の駅に着いてしまった。
鮎川と恭子は、路線が違うので地下鉄の構内を歩き、途中でそれぞれ別れて帰路へとついた。
「お疲れ様です...次長…それでは、失礼します。」
「井上さんも、お疲れ様...また、明日ね...」
そう言うと、恭子はぬれた足元で滑り転ばないように下を見ながら、地下鉄の階下のホームへと降りて行った。
鮎川は、恭子の後姿をしばらく見つめ、階下に姿が見えなくなると自分も別の方向の銀座線の構内の方へと向った。
地下鉄に乗ると鮎川の最寄り駅は、ほんの数駅である。あっという間に最寄の蔵前駅に着いてしまう。
地下鉄の外に出ると、雨はもう上がっていた。どうやら通り雨のようだ。
途中で食事を摂り、簡単な買い物をして、鮎川は自分の部屋へと歩を進めた。
隅田川に掛かる厩橋を渡り、空を見上げてみると、スカイツリーがブルーにライトアップされ、東京の下町の街の中でひときわ輝いて見えた。