一本の電話から...
ゴールデンウイークの連休も終わり、鮎川は、通常の業務に戻り、また、いつものように、会社のデスクに向かっていた。
井上恭子も、あの連休の時とは打って変わって、以前のようになれなれしい素振りも見せず、鮎川とは、上司と部下の関係に表面上は見えたのであった。
(女性とは、そうも簡単に態度を変えることができるものなのか?...)
不思議に思う反面、その変貌振りに恐ろしいとさえ鮎川は思ったのかもしれない。
そんな事を考えながら、また、恭子の仕事ぶりを目で追っている鮎川でもあった。
そんな事を考えていた時、鮎川のデスクの電話が鳴った。
受話器を取り電話に出てみると、営業本部長の内田専務からであった。
「鮎川...私だ、内田だ。」
「内田専務、お疲れ様です。」
「あのなあ、鮎川、今日の午後2時頃に、おれの所に来てくれないか?...少し、話があるんだ。悪い話ではないから、安心して来い!」
「わかりました。ではその時間にお伺いさせていただきます。」
そんな短いやり取りで、電話は切られた。
鮎川は、その内田の話を聞いて、少しばかりの違和感を感じた。
内田は、もう長く本部長の職についているのだが、専務に昇格してからは、部下の鮎川を本部次長職に置くと、営業本部の業務は、実質、鮎川に任せるのみで、その報告を受けるだけで、内田本人は、上の階の役員室にいることが多く、殆んど営業本部のフロアに在る個室の本部長のデスクには顔を出さないのである。
また、その内田は、鮎川の大学の大先輩でもあったのだ。
正直なところ、この大先輩に可愛がられてきた事で、鮎川の出世が周囲よりも早かったという事は、鮎川本人も否定できないでいるのである。
その大先輩である内田が、話があると言う事に、妙な違和感を感じていたのだ。
(まあ、悪い話ではないというのだから、仕事の話ではないよな?...まさかとは思うけど、見合いしろとか言わないだろうな?...そうだとしたら、まだ早すぎるからと言って断ろう...)
そんなこと考えたりしながら、自分の業務に戻る鮎川であった。
鮎川は、昼食を摂り終え、午後になると、少し早めに、役員室のある上のフロアへとエレベーターで向った。
秘書課の山崎弥生に案内され、何時もの内田の部屋へと連れて行かれた。
(山崎さんも、以前は気付かなかったけど、こうして見ると清楚でお綺麗な方だったんだな!...と言うか、我が社の秘書課の女性陣は美女ぞろいだぞ!...いまさら気付くなよ、おれ!)
そんな事を考えながら、付いて行くと内田の部屋へ通され、山崎弥生は部屋を後にした。
鮎川は、内田が電話中だったため、通話が終わるのを立って待っていた。
通話が終わると、内田の方から、鮎川に話しかけてきた。
「おお、鮎川...まあ、そこに座って待って居ろ。ちょっと、電話するから...」
そう言うと、また、内田は電話をどこかへと掛けていた。
鮎川は、内田の言う通りに、革張りのソファーに腰を下ろし、内田の掛ける電話が終わることを待とうとした。
『はい、内田です。これから、そちらに鮎川を連れて伺いますので...はい、お願いします。』
そう言うと、内田は電話を切り立ち上がり、鮎川の座るソファーに来るでもなく、入り口のほうへと歩いていった。
鮎川は、その内田の行動に一瞬理解できなく思い、座ったままでいた。
「おい、行くぞ!、鮎川...お前も一緒に来るんだ!」
鮎川は、驚いたように立ち上がり、内田にどこへ行くのかも聞けないまま、内田の後に付いて歩いて行った。
内田の向った先は、驚いたことに早川剛史社長の社長室であった。
鮎川自身も、業務上の用件で報告やら承認を得るために社長室を訪れたことはあった。
しかし、このように用件を聞かされずに、社長室に入るような事は、今まで一度も経験した事がなかったので、緊張と動揺がはしり、一瞬にして手に汗をかく気持ちとなった。
「お前、何緊張しているんだ?...悪い話ではないと電話でも話しただろ。安心しろ。」
内田はそう言うと、鮎川を見て笑って、社長室のドアをノックすると、入って行った。
内田に続くように、鮎川も社長室へと入った。
早川社長の勧めにより、内田と鮎川はソファーに腰を下ろし、続いて、早川社長も腰を下ろした。
内田と早川は世間話などしながら談笑をして、鮎川には、なかなか用件を話そうとはしないでいた。
しばらくすると、早川社長のほうから、鮎川へ話が振られてきた。
「鮎川君、今日は忙しい中、呼び出してしまったりして、悪かったね...」
「いえ、仕事も、調整して部下にも頼んできていますし、有り難い事に、私の部下達は皆が優秀ですので、私がいなくても、業務には支障はありません。」
「それは、頼もしい部下達が君のところには居るのだね...じゃ、鮎川君は営業本部には必要はないか...」
早川は、そう言うと高らかに笑い、内田もそれに続いて笑った。
鮎川も、ばつが悪そうに額に汗をかくようにして、苦笑するのであった。
「まあ、冗談はさて置き、今日、ここに来てもらったのは、他ではないのだが、君に内田専務の後を引き継ぐ形で、本部長の職に付いて貰いたいのだよ。これは、私と内田専務が話し合って決めたことなのだよ。鮎川君、それがどういうことかは解るよね?...」
当然、どういうことかは鮎川にもすぐに理解はできた。本部長になるということは、会社の役員になるということなのだ。
しかし、まだ鮎川は40歳を過ぎたばかりで、その年齢では、あまりにも早すぎる出世であるとも思ったのだ。年長者は、他にもいるのであるから、鮎川がそう思うのも当然なことなのである。
鮎川の勤務する、南インドシナ商会は、規模こそ中堅ではあるが、従業員は五千人を超える上場企業でもあったのだ。
早川社長は、さらに続けて話していった。
「実は、鈴木副社長の健康上の理由なんだが、どうも、芳しくないらしいのだよ。家族とも話し合った結果、療養に専念したいとの話を、つい先日、本人からの申し出で私のほうに、話してこられ、鈴木副社長と内田専務と私で、今後のことを話し合ったのだよ。それで内田専務には副社長に昇格してもらう形で、副社長と営業本部長の兼務はできないから、そこで話し合った結果、君を営業本部長の席に置くこと決めたのだよ。」
話は理解できたが、それでも納得していない顔の鮎川を見て、内田がそれに付け加えるように話して行った。
「まあ、確かに、鮎川の年齢では少々早すぎる出世だと、おれも思ってはいたのだよ。しかし、おれ自身も、もう、3・4年したら、本部長の席は鮎川に譲るのがベストだとも考えていたんだ。ただ、今回は、鈴木副社長の健康上の理由があって、急遽、その人事の予定が早まってしまったと考えてほしいのだよ。実際、今、おれが本部長ではあるが、実務は全て鮎川が行っているだろう。肩書きが変わるだけで、今までの業務とは変わりはないから、そう考えてこの話を受けてくれ。」
内田の話を頷きながら聞いていた早川が、鮎川を脅すように更に言ってきた。
「これは、私と鈴木副社長と内田専務とで決めた社命だと考えてほしい。」
社長に真顔で、言われてしまっては鮎川は有り難く受けるしかないのだ。
「謹んでお受けさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。」
それを聞いた、早川と内田は顔をほころばせて笑みを観せ、早川は鮎川に握手を求めてきた。
鮎川は、恐縮そうに両手を出して、それに答えるのであった。
「ただ、これはあくまで内示の段階だから、口外は決してしないように頼んだぞ!臨時の役員会、株主総会を経て正式に、鮎川取締役営業本部長の誕生となるからな。」
内田が、そう言うと鮎川も大きく頷いた。
「それと、話には聞いていたが、鮎川君は最近離婚したらしいね?...」
早川は、鮎川の痛いところを突いてきた。
「はい、お恥ずかしながらその通りです。離婚して一月ほどになります。」
「鮎川君が、浮気をした訳ではないのだろう?」
「社長、こいつはそんな事ができるような器用な男では有りませんよ。嫁に捨てられたんですわ。」
そう、内田は言うと声を上げて笑った。
鮎川は、恐縮そうにそれに答えた。
「まあ、なんと申しましょうか...性格の不一致とでも言いましょうか...」
そんなおどおどとした、鮎川を見て、早川と内田は笑い、内田が鮎川の肩を叩きながら言ってきた。
「じゃ、さっさと前の嫁のことは忘れて、新しい嫁を見つけるんだな!」
「なんなら、私が、良家の娘さんを探してやったも良いぞ。」
社長の早川がそう言うと、鮎川は慌てて打ち消すように言った。
「いえいえ、社長にお手を煩わせる訳には参りません。落ち着いた段階で自分で嫁は見つけますので、ご心配には及びません。」
「そうか、まあ、今度は逃げられない良い嫁を探すことだな。」
早川がそう言うと、また、内田までもが声を上げて笑った。
「今度からは、おれ達のゴルフにも付き合ってもらうからな!」
内田がそう言うと、早川も頷いていた。
「私は、もう何年もゴルフは遠ざかっていますので、もう錆付いていますから、お二人の足手まといになりますよ。」
「ばか、お前みたいに若い奴で、上手い奴ではおれ達が面白くないだろう。お前くらいの奴でちょうどいいんだよ。」
内田が笑いながら、そう言うと、早川も頷きながら笑って、鮎川の顔を見て話してきた。
「まあ、今日は内示ではあるから、各種の手続きを踏んで正式に決まったら、内田君の副社長就任と鮎川君の取締役就任の祝いの宴席を新ためて設けるから、よろしく頼んだぞ。」
「解りました。ありがとうございます。」
その後は、早川と内田は雑談などで談笑し、傍らに居た鮎川は、あまりにも突然の昇進の話で、半ば呆然と聞いていた。
それは、社長室を後にして、自分のオフィスに帰ってきても変わることはなかった。
あまりにも鮎川の様子がおかしかったのかもしれない。井上恭子が鮎川のデスクの前に立っていたことも気付かないくらいに放心していたようだ。
「次長、どうされたんですか?...おかげんでもお悪いのですか?」
「うん、大丈夫だよ、ちょっと、考え事をしていたんだ。」
「そうですか?、お独りでもしっかりご飯は食べてくださいね。」
そう言うと、恭子は自分のデスクへと戻って行った。
ここ2ヶ月の鮎川の周りはめまぐるしく、動いたいた。
突然の妻からの離婚通告と、今回の昇進の話...どれもこれも、急に降りかかって来た話ばかりなのである。
(良い事と悪い事が、それぞれあった訳だから、考えようによってはプラスマイナスでゼロということなのかな?...何か悪い事が起こらないように、気を付けなければいけないかもしれない...)
そんな事を考えるのであったが、人生とは確実にまたひとつ、またひとつと歯車が噛み合って、結果が訪れるものでもあるのだ。
それがどんな結果になるのかは、鮎川がどんなに気を付けて行動していても、確実に知らない間に近付いて来ているものなのだ。
当たり前のことだが、それは、鮎川とて、他の誰からとて、知ることはできない未来であるのだから...