自分のために死にたい
死にたいって、簡単に言える世界で良かったですね。
人生で死にたいと思ったことが何度かある。
その理由は様々だが、本気で死にたい、死んでもいいやと
思う時期が定期的にあるように思う。
私だけではないと思うが、人間はどうにも死ねば楽になると
思っている節があるようで、困難にぶち当たった時
“死”という選択がよく頭をよぎる。
私はいじめというものを経験した。
いじめる側と、いじめられる側、両方だ。
小学生の頃、嫌いな奴に面と向かって死ねと言ったり
机を端に追いやったり、まあ小学生らしいいじめをしていた。
いじめる側の団結力は異常に硬い。
あいつが嫌い。という共通点だけで人は結束できるのだ。
逆にいじめられる側の話をすると、これは個人差があると思うが
私は自分より上のやつにいじめられたことがない。
そもそも、いじめるという行為をしている時点でそいつは
人間的に自分より劣っているのだが、それだけではない。
勉強、マナー、運動、顔、そのどれかにおいて必ず私はそいつらに勝っていた。
自分で言うのもなんだが、私は運動が出来て勉強もそこそこできた。
虐めをしていた奴らに劣る点がない。
では、虐めは嫉妬から生まれるのか。
いや、そうではない。虐めは嫉妬からは生まれない。
いじめていた時は絶対に自分の方が相手より地位が上であるという
自信があった。今でもある。
クマと遭遇してわざわざ勝負を挑むバカはそうそういない。
そう、いじめというのは劣等感から生まれるのではなく優越感から生まれるのだ。
一人で誰かを虐めようとするのは確かに個人的な恨みだろう。
だが、多くの場合いじめる側というのは集団を作る。
相手より自分がこの場にふさわしいという優越感を作るためだ。
これは中学での話だが、高校に入ると途端に虐めという行為は減った。
精神が成長すると、人は嫌いな人間と関わりを絶とうとする。
要するに、無関心になるのだ。
先ほどにも言ったようにこれは個人差がある。
全員がこう思っているわけではない。
何かが出来なくて虐められる子だっているはずだ。
小学生や中学生の幼稚な心では何故虐めはいけないのかという
当たり前の問でさえ理解できない。
それを止めることが出来るのは成熟した心を持つ大人である。
教師が全てではない。
子供が影響を受けるのは基本的に親だ。
血の繋がった家族こそが子供に伝えることが出来る。
何も言葉で言う必要はないのだ。
子供を持った時から、当たり前のように過ごしていれば
自然と子供はそれを真似る。
親の責任とは、人が思うよりもずっと重いのだ。
話が逸れてしまったが、私は虐めの解決策を書き記したようで
実際はそうではない。
人間というものは秤で測ることのできない生き物だ。
何をしたって虐めがなくなるとは思わない。
これでは虐められる子が可哀想だと思うだろう。
虐めによる自殺のニュースをよく聞く。
その際、周りはなんという?
何故相談できなかったのか、心が弱い。
環境がダメなんだ。
そんなことばかりではないか。
どうしたら防げたのかなんて議論は無駄だ。
自殺というのは自分で自分を殺してしまうから
虐めをしている相手には影響がでない。
議論などせずに虐めをした奴らを責め立ててみたらどうだろう。
一生非難され生きるのだと教えたらどうだろう。
それでも尚虐めを続けるのなら、そいつは人の心を持っていない。
犯罪者予備軍といったところか。
話を最初に戻そう。
人は死にたいと思っても死ぬことができない生き物だ。
現に、私は今も生きている。
散々虐めについて語りはしたが、私は虐めを受けて
死のうと思ったことは一度もない。
それで死ぬのは自分のためではないと思ったからだ。
どうせ自殺をするならば、自分のために死にたい。
私はカウンセラーではないから気の利いたことは言えないが
虐めをうけて死のうと思っている人は今一度
自分が相手より劣っているのか、その死は自分のためなのか
考え直してはどうだろうか。
それでも尚死のうと思うのなら自分がやったことのない
最高に楽しい事を全財産使ってでもしてみるべきだ。
世界というのは自分が思うより何倍も広いのだから。