欲しかった、もの
5年待とうと思った。
それはあの日始まった瞬間から、そう決めていた。
ずっとずっと好きだった彼が私に頭を下げたときから、ずっと。
大学2年の時だった。
サークル活動でたまたま隣の席になった同級生の彼、南井和樹くん。
すっきりとした体型の、爽やかでかっこいい人で、性格も人懐っこかった。
当然男女関係なく人気があった。
私も入学当初は彼を遠巻きにかっこいい人だと眺めていた。
サークルに入ると少し会話をすることが増えて、私の中の気持ちは緩やかに膨らんだ。
そんなある日のことだった。
「南井くん!!!!!!」
こちらへ向かってくる車。
気付いていたのは唯一まわりにいた私だけで。
私は彼のことを大声で呼びながら突き飛ばした。
本当なら私も一緒に転がって、車から逃れるはずだったのに。
居眠り運転をしていた運転手は、寝ぼけたまま間違えてアクセルを踏み込んだ。
ーー結果、彼は助かった。
でも私は下半身を車にぶつけられて、わりと大きな怪我をおった。
後遺症は僅かなーー日常生活には支障をきたさない程度のものだった。
少し右足が上手く動かないだけ。
上手く走れないだけ、上手くジャンプできないだけ。
そう強がったけど、私は勝手ながら彼を助けたことを少し後悔していたのだ。
綺麗事だけで、好きな人が無事だからいいと思えるだけで幸せになれるほど私はできた人間ではなかった。
だから、少し困らせてやりたくて。
最低だけど、そう思って。
私は退院した翌日、彼に想いを告げたのだ。
「好きです、付き合ってください」
そう言った私に、彼は顔をふせて震えないよう努めた声音で頷いた。
「うん、付き合おう。ーー本当に、ごめん」
顔を上げた南井くんの顔を見たときの私に押し寄せた後悔と言ったら。
彼はあの、私が憧れた澄んだ柔らかな目も、表情もしていなかった。
ただの贖罪。
だから、私は決めたのだ。
私は彼が好きだ、だから今さら彼と別れられない。
でも、彼は違う。
それなら、5年だけーー5年だけ頑張ろう。
私を好きになってもらえるように。
彼が私を好きだと、一言笑顔で言ってくれたなら。
そうして、私の身勝手な賭けに彼を巻き込んだ。
彼の輝かしいはずの5年を奪うことの罪悪感もあった。
けれど私は、やはりどうしても一緒にいたかったのだ。
ふわりと胸に広がっていた思いは、いつの間にかこんなに狂おしいものになっていたのだ。
私は努力した。
彼が好きな色を、髪型を、服装を、性格を、すべて取り込んでいった。
彼にわがままを言ったこともないし、泣きわめいて愚痴を言ったこともない。
彼の友人が
「和樹は昔の彼女がわがままだったトラウマあるからね。あの時はあの和樹が疲れてたし。
控え目で大人しい子がいいんじゃない?」
と言っていたのだ。
こうして5年の間に私はまったく違う人間になった。
あまり履かなかったスカート、ゆるく巻かれた髪、常にのんびりと笑って、涙はもちろん見せない。
そう、すべて改造したのだ。
なのに。
彼は私に好きだと言ってくれることはなかった。
私の右足を見ては申し訳なさそうに眉を下げた。
私の顔を見ては辛そうに、いつも何か言いたげだった。
そして5年目の今日、私は彼とようやく別れを交わすのだ。
彼が恐らく待ちに待ったであろうさよならの言葉を私が言うのだ。
「……なにもない」
ぽつり、私の声だけが彼の部屋に響いた。
仕事を終えて彼の部屋に、私の荷物をまとめに直行したが、私の荷物なんてなにもなかったと気がついた。
自嘲気味に笑うが、もちろん反応はない。
彼の帰りは最近遅い。
もしかしたら、どこかで好きな人でも見つけたかもしれない。
そう思うとなぜか笑えた。
目を閉じて彼を待つ。
彼の足音が聞こえて来たのは30分後だった。
まずなんて言おうか。
ごめんなさい?ありがとう?さよなら?
どれを言えばいいんだろう。
ううん、きっと全部言わなくてはいけないわ。
彼は私の犠牲者なのだから。
彼とーー南井くんと一緒にいられて幸せだった。
手を繋いでくれたこと、頭を撫でられたこと、一緒に朝を迎えたこと、買い物して、甘いものを食べたこと。
あぁ、いい思い出だ。
扉が開いた。
おかえりなさい、と言う口が上手く回らなかった。
「小百合?」
彼がどことなく焦ったように私を呼んだ。
「ねぇ、南井くんーー」
さよなら、今までごめんなさい。
そして、ありがとう。
「言いたかった、こと」で彼視点です。