其の一
「…………………………は?」
長い沈黙の後、ようやく出した声は自分でも思う程に間抜けだった。
一人で中国マフィアと交渉に行った時以来、ここまで動揺した事はなかっただろう。
スーツに身を包み、ボロアパートの玄関を開けた瞬間広がっていた光景は、俺の見知ったものではなかった。
舗装されていない大通りには大勢の人間が行き交っている。その誰もが東洋人ではない。頭髪の色も様々で、金、銀、白、青、赤とバリエーションが豊富だ。
そして中には頭に動物の耳を付けて、臀部には尻尾を付けているような人間がいた。
これは、あれか。いわゆる『コスプレ』というやつなのだろうか。
とりあえず、俺はドアを閉めた。
「……なるほど」
と、言いつつも何もわかっていない。
とにかく冷静になろうと、わかった風の事を口に出してみただけだ。
玄関に立ち尽くしたまま、顎に手をやり数秒だけ思考する。
このままでは埒があかない。というよりも、遅刻してしまう。几帳面な小父貴は規範を重んじる。
遅刻しただけでも、俺はケジメを取らざるを得ないだろう。
意を決して、再び玄関を開けた。
「…………な、なるほど」
風景は変わらない。
もしかしてこれは明晰夢という奴だろうか。それにしては現実感が強い気もする。恐らくこれは現実だろう。
……ここにいても状況が変わるわけでもない。
背中にじっとりとした嫌な汗を掻きつつ、俺は外へと出た。
すると、右手に感じていた、ドアノブの感触が一瞬で消えてしまう。
俺は慌てて、振り返る。
ない。
何もない。
出てきたドアもアパートも何もかも忽然と姿を消してしまった。
どくんと心臓が主張する。
帰り道をなくしてしまった、そう思うに十分な現実が目の前にあった。
しかしすぐに平静を取り戻す。別に死ぬわけじゃないし、大した事ではない。ただし遅刻は確定したわけだが。
俺の所持品は、財布と携帯電話。あとは左手に付けた金無垢のロレックスのみ。
一先ず、携帯電話を取り出してみる。圏外だった。試しに事務所に電話をかけてみるが、やはり通じない。
「まずい事になったな……」
一人ごちると、気が重くなった。
とりあえず現状を把握する事が重要だろうと思い、周囲を見回した。
コスプレをした奴らの一部が俺を見て訝しげな表情をしている。しかし、すぐに目の前を通り過ぎていった。
なるほどコスプレ会場でスーツ姿は浮くだろう。人目を引くのは当然だな。
俺は自分の見解に納得すると、建物へと視線を移す。
人目でかなり粗雑な造りだとわかる。木造が主らしいが、柱も梁も歪だし、現代の建築技術としては些かお粗末な感じだ。
そんな家屋が横にずらっと並んでいる。店らしき建物も多く顕在し、通りの端では露店を開いているようだった。この会場は中々に活気があるようだ。
「何か見当違いをしているような気がするな」
そもそもアパートからこんな所に出るはずがない。
道行く人も良く見れば、日本人が一人もいない。という事は……。
「なるほど、外国か。ここは」
合点がいった。どうやら外国らしい。外国のコスプレ会場だと思えばすべては納得がいく。
見たところ、欧州……ドイツあたりだろうか。
どうやってここへ来たかはわからないが、ここがどこなのかわかれば帰りようもあるというものだ。
とは言え、あくまで仮定だ。ここは一先ず、現地の人間に尋ねてみるべきだろう。
とりあえず、適当に目の前を通った少女に声を掛けてみた。
『こんにちわ、少しよろしいでしょうか?』
とりあえず簡単なドイツ語で話しかけてみた。
少女はこちらを一瞥した後、そのまま通り過ぎようとして、すぐに振り返った。いわゆる二度見というやつだ。現実でそんな事をする奴がいるなんて想像もしてなかったな。
「……っ!?」
少女は慌てた様子で、視線を忙しなく動かしながら、身振り手振りで何かを伝えようとしている。
見たところ、十四、五歳くらいか。肩で切り揃えられた桃色の髪は手入れが行き届いていないようで、少しパサついている。
服、というよりは布きれを着ているような感じだ。こういう服装をしていた時代も中世にはあったと聞く。いわゆる町娘を演じているのだろうか。
赤色の宝石らしきものが埋め込まれている首輪をしている。正直、服装には合っていない。
しかし、中々の器量良しだな。磨けば光るのは間違いないんだが。
いや、今はそんな事を考えている場合じゃないか……。
『言葉、わかります?』
「え、えと……その、ううっ、どうしよう」
「日本語、話せるのか、助かりました」
「あ、共通語……はぁ、よかった」
「共通語、ですか?」
「え? あ、あの……?」
なにやら噛みあっていない気がするが、日本語が通じるならまあいいだろう。彼女がなぜ日本語を話せるか、なんて事は今はどうでもいい。
少し警戒されているようだ。俺はとりあえず自己紹介する事にした。
「申し遅れました、私、都新仁と申します」
「え? あ、リ、リーシャです」
リーシャは俺と同じように頭を下げる。頭を下げ合うという光景は日本国内では多く見受けられる。もしかしたら彼女は親日家なのかもしれない。
「実は迷ってしまいまして。ここがどこだか教えて欲しいのですが」
「……えと、カイネス通りです……」
「ああ、違うのです。ここがどこの国か聞きたいのですが」
「?? シュヴァリス、ですけど……」
聞いた事のない国だ。
小国なのか……世界中の国名までは知らないが、そんな国の名前はないように思える。
彼女が嘘を言っているようには思えないし。
「日本へはどう帰ったらいいんでしょう?」
「にほん? どこですか?」
「日本を知らないのですか?」
「聞いた事ないです……」
何やら訝しげな視線を感じる。
俺の言動が怪しかったのか、彼女は不審に思い始めてしまったらしい。
なんだ? 何か間違えてしまったのか、俺は?
「あ、あの……もう行かないと」
言われて気が付いた。彼女は右手に紙袋を下げている。どうやら何か買い物の途中だったらしい。
「いえ、呼び止めてしまい、すみません」
「い、いえ……そのお困りなら詰所からギルドへ行かれるといいと思いますよ」
「え? ああ、わかりました」
詰所やギルドが何なのか聞こうとしたが、これ以上足止めしては悪いと思い、質問を控えた。
恐らく、この街の交番にあたるものだろう。
あまりお巡りに世話になりたくはないんだが……。
軽く会釈をしてその場を去ろうとした彼女に、俺は笑みを浮かべて手を振った。リーシャはビクッとした後、急いで走り去る。
いいんだ、わかってる。よく言われたからな、顔が怖いって。
リーシャが遠ざかるのを確認した俺は、これからどうするか再び考える事にした。
帰る手段を探すのが最重要ではあるが、この国では財布の中身は役に立たないだろう。換金するか……どうにかして、持ち金を増やさない事には生きていけない。
そうだな、まずは換金所を見つけるか。お巡りに頼るのは最後の手段として考えておく事にしよう。
ふと、リーシャが走っていった方向を見ると、彼女の姿がまだあった。足を止めているようだが……何をやってるんだ?
よくよく見ると、男に頭を下げているように見える。
親……にしては、相手の男は若い。少し気になって近くへ行く事にした。
「も、申し訳ございません! ご主人様!」
「買い物一つにどれだけ時間かけるんだよぉ! 何? 舐めてるの? 俺、舐められてるの?」
「そんな事は決して!」
「じゃあ、こんな簡単な仕事くらいパパッと終わらせろよぉ!!」
必死で謝罪するリーシャ。それに対し小生意気そうなガキが嫌味ったらしい口調で非難している。身形からしてそれなりに裕福そうだ。
ふむ……外国のコスプレ会場だというのは間違っていたらしい。彼女が演技をしているようには到底思えない。
これは、こういう国なんだろう。
様々な疑問はあるが、俺はここを現実だと捕え始めていた。
男が日本語である事が、さらなる事実を明らかにした。
辺りの人間は二人の様子を遠巻きに見ているだけだ。あるいは全く気にせず素通りしている。それどころか、面白そうに見ている者もいた。
どこの国も他人って奴は変わらないな。
「もうしわけ」
「もう聞き飽きたんだよぉ、それはぁ!!」
手を振り上げる男。目を瞑り、身体を委縮させるリーシャ。
瞬間、俺の身体は動いていた。
男の背後へと走り、男の手を掴む。そのまま後ろへ軽く引くと、男は身動きが取れなくなった。
「いだだっ! な、なんだお前!!」
「ガキが息巻いている姿ってのは滑稽だな」
「あ……え?」
リーシャは呆気に取られた様子で俺と男を交互に見ている。
野次馬も俺のような人間が出て来るとは予測していなかったのだろう、ざわつき始めた。
彼女には一応恩がある。見過ごすわけにはいかなかった。
「お、おまえぇ! 僕が誰だかわかってるのか! ギュスタヴ伯爵家の嫡男、イリガル様だぞぉ!」
「知らん」
「いだだだぁっ!! ひ、引っ張るなぁ!」
ぐいっと、更に腕を捻ると、イリガルと名乗った男は半泣きで声を張り上げた。これくらいで弱音を吐くとは、最近の男は軟弱になったものだ。
リーシャはおろおろとしたままだ。「あうっ、あ、あ」とよくわからない言葉を繰り返している。
「おい、あれまずいんじゃねえの?」
「ああ……あいつ、相手を見ずに喧嘩を売っちまったな」
喧騒の中から聞こえた言葉に俺は耳を傾けた。
嫌な予感がする。しかし、どうしようもないので、とりあえずイリガルの腕を更に捻っておいた。
「ひぐぅっ!! いだいぃっ!!」
「痛みと傷は男の勲章だ」
「意味がわからないぃぃっ!! だずげでぇっ!」
「何故、彼女を殴ろうとした? 女は男が守るもんだ」
「こ、こいつは奴隷なんだ、主人の僕が何やったって構わないだろっ!」
「奴隷……?」
人買いの類に俺は関わった事がない。関わりたくもない。
しかし耳に入ってくる事はある。現代の日本でもそういう人間はいる。平和ボケした人間には想像もつかないだろうが。
こいつもそういう類の人間なのか、或いはこの国がそういう制度を持っているのか。
恐らく後者だろうな……周囲の反応からして。
「……例え奴隷だとしても、殴るな」
「いだいぃっ!! わかった、わかったからぁ!!」
ここまで悲痛な顔をされると憐れになってきた。
そろそろ許してもいいか……。
そう思い力を緩めようとした瞬間、肩に手を掛けられた。
振り返ると、左右に屈強そうな男が二人、引きつった笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
俺の身長は百八十程。それを見下ろすほどの巨体が二人だ。
「ふむ、なるほど」
鎧を身に纏っている姿は中世を彷彿とさせた。
つまりはこの国……少なくともこの街は前時代的な文化が根付いているという事だ。
俺は男から手を離すと、この国のお巡りらしい二人に向かって言った。
「降参す」
言葉を言い切る前に顔面と腹部を強打された。
強烈な痛みの中、蹲りながらも、相手の的確な攻撃に感嘆する。
なるほど、中々に練度が高い。日本警察とは違うらしい。
「はぁはぁ、くっ、ざ、ざまあみろ! 二度と牢屋から出られないようにしてやるからな!」
さっきまでの情けない姿から一変して、偉そうに踏ん反り返るイリガル。なんとも情けない男だ。
意識をギリギリで保っていると、再び顎に衝撃が走った。
その瞬間、全てが暗転した。